とある人物について
もうすぐ、秋が訪れる。ここに来たのが、春の終わりで、エバンはまだ咲いていなかった。
あっという間だった。まだここに来てから、一ヶ月しか経っていないような気がして、その感覚が抜けきれない。
勉強もマナー教室も、お墨付きを貰って、後は好きな勉強をしなさい、と解放された。好きな勉強、というものが分からないが、とりあえず一息ついた。
そんな時、とある人物がこの街に訪れたのだ。
「エマ・トリューゼ様……トリューゼは、たしか伯爵家の」
「その通りです」
アナが頷く。
深刻そうな顔を浮かべるアナに、首を傾げていると、横でベルベットがさらなる情報を告げる。
「クルト様にご執着の令嬢ですよぉ。今までも何度か王都の屋敷に突撃訪問していましたよぉ」
「ああ、なるほど」
アナが深刻そうな顔をしていた理由に、見当がついた。
エマ・トリューゼがどのような令嬢か知らないが、一波乱があること間違いなしだ。
「そういえば、伯爵令嬢が格上の侯爵邸に突撃訪問ですか? 規則に反するのでは?」
「トリューゼ伯爵と、前侯爵が友人同士でして」
「なるほど。交流はあった、ということですね」
前侯爵、というのは、亡くなったロタールの兄のことだ。それを盾に、突撃訪問をしたのだろう。
「それで、そのトリューゼ令嬢は、今どこに?」
「この街の宿に泊まっております。突撃訪問が迷惑だったので、トリューゼ伯爵本人に苦情を入れて、クルト様との不用意な接近は禁止されているはずですが……」
「なるほど。観光を理由に、この街に来たのですね」
「仰るとおりです」
エバンが咲く時期が、一番観光客が訪れて活気に溢れるらしい。
エバンの見た目は美しくないが、遠くから見ると、雪のように真っ白い花畑が一面に広がっている風景は、息を呑むほど美しいのだという。
その事から、ヴァーランスのエバンの花畑は、別名「エバンの雪原」と詠われているらしい。
もうすぐエバンの花が咲く時期だが、観光客はまだ来ていない。だが、人混みが嫌でわざと時期をずらして観光しに来る人も、一定数いる。
大方、その一定数に乗じて来たのだろう。
「トリューゼ令嬢は、何か言ってきてないのですか?」
「クルト様目的、ということは間違いないのですが」
つまり、今は何も言われていない、ということか。
一思案して、もう一つ聞いた。
「クルトには、この事をお伝えしましたか?」
「はい。外に出て、鉢合わせになるといけないので」
「では、クルトはしばらく外出しない、ということですね。婚約者のわたしも出ない方がいいですね」
またエバンレモネードを飲んで、エバンの贈り物以外のお菓子も食べてみたかったが、致し方ない。
貴族の間で、アンジェリカの姿は知れ渡っていないので、エマ・トリューゼが自分に気付く可能性は極めて低い。だが、この街の人には知れ渡っている可能性がある。
外出はクルトと何回か行ったが、クルトは目立つ。領主代理、ということもあるが、この国では黒髪は大変珍しい。そういった意味でも、目立つのだ。
街の人がエマ・トリューゼやその従者に教える可能性もなくはない。
クルトの婚約者、という理由で攻撃されたら、とても面倒くさいことになる。
「トリューゼ令嬢に、警告しますか?」
アナが真剣な表情を浮かべながら、提案する。アンジェリカは、ふぅ、と溜め息をつきながら答えた。
「なにも言ってこないんなら、放っておきましょう。ひどい旅行に来ただけなのに、と言われたら、それはそれで面倒ですから。それを理由に、この屋敷に突撃訪問されたら、さらに面倒です」
「でもぉ、なにかやらかした後では遅いですよぉ」
「なら、それを理由に、二度と近寄らないよう、誓約書を書かせるだけです。それに、あっちから言ってきたほうが、こちらも対処しやすいですからね」
この国の誓約書は、魔法の一種だ。誓約書の紙は秘匿の魔法が掛かっており、その紙に誓約内容を書いて、両者の名前を特殊なインクでサインすれば、誓約完了するという物だ。
どういう魔法なのかというと、簡単に言えば、破ったほうが誓約書に呪われるぞ、といった魔法で、王からの許可が貰えば、その誓約書が手に入る。一方的な誓約を書かせないための処置だ。
簡単に手に入らないが、実害が出れば、あの腹の底が見えない王も誓約書の許可を出すかもしれない。
忘れがちになっているが、自分は聖女だ。表向きはそうでないにしろ、なんだかんだ理由を付けてくれるだろう。
「この話はおしまい。お茶にしましょう」
「では、紅茶の一式を持ってきますね」
そう言って、アンが部屋から出て行った。
その背中を見送ると、ベルベットが訊いてきた。
「ところで、アンジェリカ様」
「なんですか?」
やけに神妙な顔で、アンジェリカを見据えるベルベットに、首を傾げる。
「アンジェリカ様ってぇ、クルト様のこと、どう思っているんですかぁ?」
「はい?」
あまりにも突拍子過ぎる問いに、アンジェリカは素っ頓狂な声を上げる。
ベルベットの目はきらきらしているが、口元がニヤニヤしているという、実に器用な表情を浮かべていた。
「まぁ、好きか嫌いかといえば、好きですけど……あなたは、そういった意味で質問しているわけ、ではないのですね?」
「もちろん!」
元気の良い、即答だ。
「だってぇ、クルト様の一目惚れっていうのは聞いたですけど、アンジェリカ様自身、そういった話ししないですしぃ。それにほら、アンジェリカ様の気持ちを知っておけば、あたしもアンジェリカ様の援護に回れますしぃ」
「正直に、個人的にものすごぉく聞きたいって言えばいいのに」
「バレちゃいました? あ、いやいや! 後半の台詞は本心ですよぉ!」
「そういうことにしておきましょうか」
アンジェリカは一笑した。
「クルトのことを、どう思っているか、ですか」
少し考え込む。
ベルベットが望んでいるのは、恋愛的な意味での答えだ。アンジェリカには、それに答えられるような言葉が見つからない。
「恋とか、よく分からないので、うまく言えませんね」
「アンジェリカ様の境遇を考えると、それは仕方ありませんねぇ」
申し訳なさそうにしているわけでもなく、ベルベットは、うんうんと深く頷く。深刻そうに謝られるよりかはいいが。ベルベットは、神経が図太いのかもしれない。
彼女たちに知って貰った過去と、実際の過去は違うが、恋に関して全く分からないのは、本当だ。だから、嘘ではない。
「では、クルト様のことを、これから好きになる可能性は?」
「そうね……良い人とは思いますよ。ただ、これから恋愛感情が芽生えるかどうかは分かりかねますが」
「えぇ~。つまらないですぅ」
ぶぅぶぅと頬を膨らませるベルベットに、アンジェリカは困り顔を作る。
「だって、恋とか分からないですから。初恋もまだですし。そういう、ベルベットは好きな人はいらっしゃらないのですか?」
「今はいませんよぉ」
「今は、ですか」
「初恋は経験済みですけど、初恋は実らないというかぁ」
声は明るいが、目が荒んでいる。
少し地雷を踏んだかもしれない、と思っていると、アンが戻ってきて、その話は忘れ去られていった。




