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ゆらめきの境界

作者:三津凛
廊下を戻ると、バッハの音楽にぶつかった。
一瞬だけ、教室へ行く目的を忘れて聞き入る。管弦楽とピアノが暗く追いかけっこをしている。
僅かに開いた扉をそっと覗くと、窓辺の席に1人だけ座っている子がいた。
「鈴波さん」
脊髄反射のようについ僕は呟いた。鈴波さんはゆっくり振り向いて、露骨に残念そうな顔をして机の上に置かれたiPhoneに指を伸ばす。
あ、バッハが消されてしまう。
「…バッハだね。ピアノ協奏曲、かな」
名残惜しくて、僕はつんのめるように言葉をかける。鈴波さんは意外そうな顔をして口を開く。
「そう、ピアノ協奏曲第1番。チェンバロの演奏の方が好きだけど」
「僕はピアノの方が好きだよ。感情豊かな気がする」
ふふっ、と鈴波さんが笑う。
僕もなんとなくつられて笑う。
鈴波さんは頬杖をついて目を閉じる。僕は自分がいることを許されたような不思議な気持ちになる。バッハの音楽を邪魔しないようにそろそろと滑るように歩いて自分の机を開ける。
「忘れ物したんだ」
「うん」
目当てのノートをひらひらと降ってみせる。
「鈴波さんはたまにこうやって残ってるの?」
「うん」
「へぇ」
鈴波さんは無言で僕を見つめる。端正なものと、冷酷さは上手く馴染むものなんだなと僕は初めて知った。
鈴波さんはどこか執行人のような雰囲気を纏っている。伸び切った背筋は鍛えられた日本刀みたいだ。
「バッハは悪魔みたいに美しいから、好きなの」
表情を変えずに鈴波さんが言う。階段を駆け下りて追いかける勢いで、管弦楽とピアノが絡まり合う。
変わった子だな、と僕は思った。
「ブランデンブルグ協奏曲も好きだよ」
僕が言うと鈴波さんは微かに目を上げる。
「私も好きだよ、頭を空っぽにできるから。ブランデンブルグって、ベルリンの壁があったところなんだよね」
「そうなんだ」
「うん」
鈴波さんはそれだけ言って、もう僕の方は向かなかった。誰も知らない鉱脈を偶然掘り当てたような、妙な気持ちになる。
好きなことには饒舌になれる子なんだ。
僕はなるべく音を立てずに教室を後にした。

それから僕と鈴波さんはたまに放課後音楽を聞いたり、話すようになった。不思議なもので普段の学校生活では全く口をきかないのに、誰も居なくなった教室では言葉が汲み尽くせない泉のように出てきた。
「17歳って、微妙な年齢だと思わない?」
どこか不満気に鈴波さんが言う。
「そうかな。まあ、大人でもないし子どもでもないって感じではあるよね。グレーゾーンみたいな…」
鈴波さんは何か言うことを躊躇っているように見えた。僕はかけるべき言葉や聞くべきことがなんなのか分からなかった。女の子特有の繊細な機微を理解するにはあまりにも粗削りな自分を感じた。
ふと自分も女の子であったなら、この空気も深いところで共有できたのだろうかと思う。
「ねぇ、今好きな人っている?」
「いないな」
僕は即答した。鈴波さんのことは好きだけれど、それは恋愛感情とはどこか違うような気がする。それは綺麗な景色や、気持ちの良い晴れ間を好きだと思う感覚とよく似ている。前に進んでいくための猛烈なエネルギーが、徹底的に欠けているのだ。
「私も。…というか、男の子に興味がないの。かといって、女の子が好きっていうのとも違う気がする」
「そうなんだ」
鈴波さんはまだ胸の中に硬いものを抱えているように見えた。
「私っておかしいのかな。人を好きになれないのかもしれない」
僕には鈴波さんの畏れがどこか滑稽なものに思えた。
「そんなに焦らなくても、その内好きな人くらいできるよ」
月並みな言葉だなと自分でも思った。
「ねぇ、ものすごく変なこと言ってもいい?」
「うん」
鈴波さんは意を決したように僕を見る。
「田中くんさ、女装して一度私とデートして」
「えっ」
「私は男装するから、制服を取り替えてさ」
僕は黙って鈴波さんを見た。ふざけて言っているわけではないことだけは分かった。
こういうことを、なんて表現するのだろう。目の前の大きく広がった黒板はなにも教えてくれない。学校の先生だって、親だって本当に困った時になにをするべきかを教えてはくれなかった。
「よく分からないけど、それで鈴波さんが納得できるならやってみよう」
「ありがとう。こういうのって、変態って言うのかな」
鈴波さんもまた、今を表現するものを持ち合わせていないことが、不思議と僕にとっての勇気になった。そして、少し嬉しかった。まだ鈴波さんは遠いところには行っていない。
恋愛感情を持つための予行練習、と言えば通じるのだろうか。少し回りくどいことをしているようにも思えるけれど、僕は不思議と高揚してくる自分を感じた。
「ねぇ、女の子になるにはまずどうすればいいの?」
僕が聞くと、鈴波さんはやっと落ち着いた笑みを浮かべた。

まずは、無駄毛の処理じゃないかな。
鈴波さんの言っていたことを思い出しながら、僕は初めて脚の毛を剃ってみる。薄い刃が遠慮なく毛を落としていく。肌が少しずつ露わになっていくごとに、微妙に自分を決定付けていた境界が解けていくように感じる。
完全に剃り終わって、指で撫でると自分の肌がどことなく合成樹皮になったような心地になる。
こういう見えない手間が綺麗になるための一歩なのかもしれない。
女の子になるのも大変だな。
デート、といえるのか分からないが鈴波さんとは明日の放課後会う約束をした。
剃毛した皮膚が突っ張って少し不快な気持ちを抱えながら僕は思った。

「なんか、図画工作の授業思い出すわ」
鈴波さんは懐かしそうに目を細める。僕は思わず吹き出しそうになった。普段包まれているはずの脚が外気に触れてどこかくすぐったい。
鈴波さんは職人のような手つきで、僕の眉や産毛を剃って整えていく。
「動かないでね」
まるで薄皮を剥いていくみたいだなと思った。女性になるのは思ったよりも大変そうだった。それは手間暇かけて育てる花とよく似ている。
僕に比べると、鈴波さんは随分とすっきりしている。自分も昨日まで同じ身軽さを持っていたはずなのに、女の子の制服を着て、こうして化粧までしてしまうとその感覚が遠い山の向こうに行ったように隔たったものに思える。目に見えない境界を思い知らせるために、この息苦しさと手間があるのかもしれない。
鏡を見るのが楽しみなような、怖いような微妙な気分を抱えながら、僕は静かに鈴波さんが化粧をしてくれるのに任せた。

晩秋の風が剃りたての脚の間を吹き抜けていく。
体感以上に冷たく感じるのはスカートのせいだけではないと僕は思った。そっと横目で鈴波さんを窺う。肩まであった髪をばっさりと切って、遠目からは男の子にしか見えないと思った。
「本当に髪の毛切っちゃったんだね」
「だって、田中くんも無駄毛処理したし、私も何か犠牲にしないと対等じゃないし」
すっきりとした顔で鈴波さんは短くなった髪を手櫛で梳く。
「鈴波さん、本当に男の子みたいだよ」
「あはは、今は男の子だもん。田中くんもいい線いってるんじゃない?メイクも決まってるし、骨格があんまりゴツくないんだね」
僕は自分を抱き締めるように腕を組んでくの字に身体を折る。
「なんか変な気持ち」
「ウイッグも似合ってるよ。女の子だよ」
「普通デートって、最初になにするの?」
鈴波さんは少し考えて、悪戯っぽく笑った。
「手を繋ぐんじゃない?」
「谷崎潤一郎の卍みたいなこと言うね」
「なにそれ」
「女同士で恋人みたいに振る舞うにはどうすればいいのかって場面で、手を繋ぐんだ」
「ふうん」
僕は少しだけ緊張する。
鈴波さんは驚くほど強い力で僕の手を握り締めて、引っ張るようにして歩き出す。
それはなんとなく、強さの表れではなく弱さの表れであるように僕には思えた。

スカートが翻る。その度に落ち着かず、僕は立ち止まる。
「女の子って、大変だね」
「なに言ってるの」
鈴波さんは不思議そうな顔をする。
すれ違う人の視線が気になって、必要以上に人の顔を目で追ってしまう。
「挙動不審だよ」
鈴波さんが笑う。
「これでも(はた)から見ると、普通の男女のカップルに見えるのかな」
「うーん、どうかな」
鈴波さんは微妙な顔をする。僕の制服に包まれた身体の輪郭は真横で見ると、紛れもなく女の子のものだと思った。薄い身体に纏われて、どこか萎んでしまったようにも見える。
そっと指で自分の顎を撫でると、やっぱり僕は男なのだなあと思う。
「これからどうするの」
「どうしようねえ」
歩き続けながら、 鈴波さんは飽きたように空を仰ぐ。
「あんまり人目に触れるのは嫌だよ」
「うん」
鈴波さんは考え込んで、むっつり黙った。
手は相変わらず繋がれたままだったけれど、お互いの鼓動はちっとも感じられなかった。
感じてしまったら、それはそれで困るんだけど。
僕はなんだかおかしくて笑った。

「デートの感想はどう?」
「全然、楽しくなかった。田中くんもつまらなかったでしょう」
鈴波さんに貰ったオイルの染み込んだ化粧落としで頰を撫でつつ考える。
「僕は割と面白かったよ。またしたいとは思わないけど…」
「そうね。女の子がもし好きだとしたら、男の子の格好とかすれば分かるかもって思ったんだけど」
鈴波さんは残念そうに制服のリボンを結び直す。
鈴波さんの言葉を自分の中で反芻してみる。女は男を好きになるし、男は女を好きになる。別に誰のことも好きにならない人がいたっていいのに、大きな何かがそれを許さないままなのかなと思った。
「なんにも、分からないままだったな」
鈴波さんが机に腰を下ろす。
結局僕たちはスタート地点に戻ってきてしまっていた。
大切なことはなに一つ教えてくれない、せせこましい教室の中に再び帰ってきたのだ。
「別に今すぐ知らなくてもいいんじゃないかな」
僕は特に考えることなく、呟いた。
いつかこんな感覚を懐かしいと思う日が来るのだろうか。
鈴波さんはそれには応えず、
「バッハ、聞いていい?」
と言った。僕が応える前に音楽が流れ出す。
僕はなにも言わず、少しヒリヒリする鼻先を指で撫でた。
鈴波さんのことは好きなままだった。その気持ちに前へ進んで行くためのがむしゃらなエネルギーは相変わらずなかった。

いつか必ず、この狭い場所から鈴波さんも僕も去っていく日がやって来るだろうと思った。
それはなんの根拠もない、曖昧なものだったけれど僕には不思議な確信があった。
今日得たものがあるとすれば、もしかするとこういうものだったかもしれないと僕は思った。

いつか、望まなくても何者かにならなくては、ならないではいられないような時が来てしまう。

バッハの音楽がしかめっ面をしながら耳元を通り過ぎて行った。
今回は登場人物の好みにそのまま自分の好きなものをぶっ込んで語らせました。
バッハは悪魔みたいに美しい。
ピアノ協奏曲第1番はチェンバロの方が陰鬱でちょっと怖い。

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