仮称ニック島
開闢歴二五九三年一月二二日 南緯五三度、東経七三度付近
アザラシとアホウドリの捕獲を行い食料を補充。ついでに副産物として出てきた皮と羽を利用して防寒着と防寒具を作る。これで狂える五〇度を航行するのに役に立つはずだ。
クレアの火炎魔法によって雪原と氷河を溶かし、湖を作り出して水を補給。
薪を使わずに水を得られたのは良かったが、姉が増長するのが少々、いやかなり辛いカイルだ。
艤装の修理もほぼ完了し、ディスカバリーの乗員は船倉への詰め込み作業を行っていた。
そんな中、カイルは一人東端にある岬に立ち海を見ていた。
「何黄昏れているの?」
その行動を不審に思ったレナが尋ねてくる。
「ホームシック?」
「違う! 風と波を観察していたんだ」
「ああ、かなり乱れているわね」
レナが改めて海面をみるとうねりがあり渦さえ巻いている箇所がある。
空も雲と晴れ間が入り乱れ、風が乱れていることを想像させる。
「ここから出港するのは難しいんじゃないの?」
「いや、脱出は出来る」
「でもあんな複雑な海流と風の中を航行できるの?」
「そんなに複雑じゃないよ。周期的に出来るカルマン渦だから予測は可能だ」
「カルマン渦?」
「……要は右回り、左回りの渦が交互に島の南北から出てきて東に流れて行っているんだ」
流体――空気や水の中に物体を置くとその後方に渦が交互に列を成すように発生する、それがカルマン渦だ。
今の場合、海流と気流の中に置かれたカイル達のいる島が障害物となり、西風の風下、東側に渦を巻くような乱れを作っている。
転生前の世界でも冬季の屋久島や済州島、勿論ハード島も島の風下側に雲渦が列状に並んでカルマン渦を形成することがある。
この島で起こっていても不思議では無い。
「一定周期で同じくらいの大きさの渦を作っているからね。周期を掴んでタイミングを合わせれば困難無く脱出出来る」
「出帆できるのね」
「うん、そのために風と波を見ていたんだ」
問題だったのは風のカルマン渦と波のカルマン渦では規模と周期、速度が違う事だった。
下手をすれば相反する方向から押し寄せる波と風にディスカバリーが潰されるかもしれない。正面から受けるならまだマシだが真横から風や波を受けて転覆する危険も大きい。
しかしカイルはじっと観察してベストなタイミングを掴んでいた。
「あとは最善のタイミングで出港すれば良い」
半日後、ディスカバリーは全ての準備を終えて出帆を待つだけとなった。
既に錨は回収し、あとは海流と風のタイミングが合えば出港出来る。
「いよいよ、この島からもおさらばだな」
「そういえば名前を付けていませんでしたね」
「そういえばそうだ」
マイルズに指摘されるまでカイルも失念していた。カイルはこの島がハード島だと思い込んでいたし、マイルズ達も単に<島>としか呼んでいなかった。
「命名権は発見者の特権だな。最初に発見したのは見張りだったな。彼の名は?」
「ニックという水兵です」
「では、ニック島と名付けよう。皆、ニック島にお別れだ。大量の水と食料を我々に与えてくれたんだからな」
甲板に笑い声が広がる。そして手空きの乗員は島に向かって手を振る。
ビキッ
そして島改めニック島から何かが裂ける音が聞こえてきた。
不吉な音にディスカバリーの乗員は全員が固まった。
万が一の懸念と、僅かな希望に縋って艦内の異常であると信じ艦内を見渡す者もいる。
ビキッビキッ
しかし、音は確実に島から聞こえてくる。
「何の音だ」
マイルズが思わず不安を口にしたのも仕方ない。カイルもこのような音は聞いたことが無い。いや、転生前に何処かのテレビで何かの特集で聞いたことがある音だった。
確か、南極の話だったか。
「島が裂けています!」
見張りの一人が叫んだ。
「何を馬鹿な」
マイルズは否定しようとしたが、氷河の壁に大きな裂け目が出来て居るのを見て固まった。
そして、氷河の亀裂は大きくなり、遂に破裂して大量の水が放出された。
「クソッ! 姉さんが作った湖か!」
氷河湖というのを知っているだろうか。
地球温暖化などにより氷河に出来てしまった湖だ。氷で出来たダムと湖と言えばご理解いただけると思う。
問題なのはダムに当たる氷が水に触れると溶けてゆき強度を減少させることだ。
そのため、湖の水が全て凍結することが無い限り氷河湖は決壊する危険を常にはらんでいる。
実際、チリやヒマラヤなどでは氷河湖決壊による被害が出ている。
歴史的にもノアの方舟に出てくる洪水は氷河湖決壊で起きた洪水ではないかという説もある。
実際、イスタンブールのボスポラス海峡には洪水の痕跡と見られる地形が存在する。
黒海洪水説と呼ばれる仮説上の大洪水だが、似たような洪水が発生していた可能性は高い。
だが、カイルの目の前に現れたのは仮説でも伝説でも無い、現実の洪水だ。
予め神の忠告を受けていたノアの方舟以上に脅威は大きく、状況は最悪だ。突発的なアクシデント程、たちの悪い物は無い。
「総員! 艦首のジブを展開! 艦尾を波に向けろ! その後何かに掴まれ!」
カイルは大声で命じた。
動力船なら移動させて回避することも出来ただろうか帆走船では精々、押し寄せてくる水に対して艦尾を向けることで転覆を防ぐ事ぐらいしか出来ない。
だが、やらないよりやった方がマシだ、とカイルは思って命じた。
風は弱かったが出港準備をしていて外洋に艦首を向けていた事もあり、短時間で艦尾を向けることが出来た。
その直後、水がディスカバリーに押し寄せてきた。
「!」
押し寄せた水は津波となってディスカバリーを襲い、大量の波飛沫が豪雨となって甲板を洗う。乗員、艤装の区別無くだ。
何かに掴まっていなければ押し流されただろうが、カイル以下のディスカバリー乗員はこれに耐えた。
「皆! 無事か!」
「点呼を取るんだ!」
カイルの問いかけにマイルズが乗員に命じて答える。
乗員は互いに顔を見合せ、流された者がいないか確認し合う。
「一名流されたようです」
「くそっ」
手間が省けたと思ったらこんなアクシデントが来るなんて。一名でもカイルの指揮では初めての人員喪失だ。
ダウナー海佐の元で数名失っており人員の喪失には慣れているが、自分の指揮で失ったことに少なからぬショックを受ける。
「救出は不可能だ! 総員配置に付け!」
だが、それでも艦の指揮を取らなくてはならず頭を切り替えて指示を出す。
そして直ぐに艦の状況把握に務めたところ、厄介な事態に陥ったことが判明し、顔を蒼白にした。
「どうしました?」
「艦が流されてしまった。既に島を出て行く海流に囚われているようだ」
「出帆予定でそのための準備をしていましたが」
「いや、確かにそうだ。だが、問題なのは予定より早すぎる。このままでは風と波に翻弄される」




