狂う五〇度
開闢歴二五九三年一月二〇日 南緯五三度、東経七三度付近
ストロン諸島を出港して約二週間。ディスカバリーは西風を受け、東に向かって航行していた。
順調と言えば順調だが、厳しいと言えば厳しい。
航行中の二週間、常に風と波がディスカバリーに打ち寄せて来ており、艦内は揺れに揺れた。
艦内の物が始終右に左に転がり、止まる時は無い。
それでも艦は進んでいた。
「計測開始! ログラインを流せ!」
マイルズの指示でステファンがログラインを放り込む。ログラインとは先に板の付いたロープで等間隔に結び目があり、出て行った結び目の数を数えることで速力が分かる。
「止めろ」
砂時計の砂が全て落ちたのを見てマイルズが怒鳴る。
「幾つ出て行った?」
「大きな結び目が九つです」
ステファンの言葉を聞いたマイルズは回収するように命じるとカイルの元に向かった。
「現在、艦は九ノットで航行中です」
「了解した」
カイルは少々引きつりぎみに答えた。
九ノットはディスカバリーが出せる最大速力に近い。それは良いのだが、縮帆したコース―― 一番下の帆だけで航行している。
それだけ強烈な風を受けているため、最小限の帆で最高速力が出せてしまう。
全ての帆を広げたら強烈な風にマストが負けてへし折れるか、風の力で艦が転覆するかのどちらかだ。
順風なので操帆の必要性は低いが、風が強すぎて全開にしたら操ることは出来ないだろう。
この海域を舐めているつもりは無かったが、これほど強烈な風が吹いているとは思わなかった。
日本周辺は世界有数の荒れた海域であり、転生前には台風も経験しいるカイルは大丈夫だと思っていたが、十数万トンのタンカーかコンテナ船でのこと。小さい木造船で帆を頼りに航行すると心許ない。
だが、決断し実行しているからには不安を見せる事など出来ない。
艦長、船長は危機の時程ドンと構えていろ。転生前の船長や、カイルが仕えた艦長は皆言っていた。
トップが動揺したら船員も動揺して仕事が手に付かなくなるからだ。
確かにダウナーが動揺していると、こちらも大丈夫かと心配して本来専念すべき航海の事だけで無く艦全体、計画全般の事まで考えなければならなくなった。
出来る限り堂々としていないとだめだ。
ダウナーがダメ艦長ぶりを露呈したのも仕方ないが、もう少し堪えて欲しかった。
しかし、カイルにも悩みは尽きない。
目下の問題は、正確な現在位置が不明な点だ。
空を分厚い雲が覆っており、天測が出来ず、現在位置を把握できない。
ログラインの計算結果から航行距離を、コンパスから方位を推測できるが、完全ではない。
出来れば南中時刻を測定してクロノメーターで何処にいるか知りたいが、太陽が見えなければただの正確な時計に過ぎない。
現在速力は毎時九ノット、一日で二一六海里進んでいるとして二週間ならば三〇二四海里。
一海里は六〇分の一度だから東へ五〇度分進んだことになる。
だがこれは赤道上の話。高緯度になるほど東西方向の一度の長さは短くなる。
これを利用してショートカットすることが可能だ。
クリッパーコースもこの方法を利用して航海日数を減らしている。
某ゲームでも高緯度海域まで移動してから東西に移動すると経度の数値の変化量が多かった。転生前に散々遊んだゲームで覚えた知識なので忘れてはいない。
南緯六〇度付近の一度は赤道の約半分の距離になるから、ディスカバリーは東へ一〇〇度程進んでいる。
ストロン諸島が西経五七度だったのでディスカバリーは現在東経四三度の位置にいるとカイルは推測している。
転生前の世界ならプリンスエドワード島が見えた筈の海域だが、視界不良のためか見落としていたようだ。
新領土発見の栄誉を手に入れようとカイルは考えていたのだが、甘かった。
波風が激しく視界が悪い海域では高望みだ。
正に狂える五〇度。
あまりの揺れに乗員の一部が精神に異常を来す程だ。
何より、寒い。
針で刺されるような寒風が襲ってくる。南極収束線――冷たい空気と温暖な空気が触れ合う寒帯前線付近にいるため低気圧が発生しやすく、海水も冷えやすい場所だ。
甲板作業は困難を極めている。荒れすぎているため火がおこせず温かい食べ物も出せない。暖を取るには艦内で勝っている食用の動物にくっつく以外に方法は無い。
厳しい状況に乗員は良く耐えてくれているとカイルは思う。
カイル自身も寒さで歯がガチガチと音を立てている。覚悟していたとはいえ、想像を絶する寒さだ
青空を見ていないお陰で時間の感覚も失われがちだ。
周りが明るいので夜が明けているはずだが、雲が全天を覆っており、イマイチ確信が持てない。
その時、左舷の見張りが絶叫した。
「艦長! 左手に天使の階段が! 晴れ間です!」
左側を見ると確かに雲の中から伸びる白い筋、晴れ間から差し込む太陽光が見えた。
晴れ間は徐々に大きくなる。非直だった乗組員も久方ぶりの太陽を見ようと甲板に集まってきた。
だが、カイルは歓迎することは出来なかった。嫌な予感がする。
頭の中で警告音が鳴り響いている。その正体を探っていると再び見張りが叫んだ。
「艦長! 左後方に島影があります!」
視線を後方に移すと確かに島だった。
屋久島のように海から突き出た大きな島だ。
上陸しよう、という声も甲板に上がってきた乗員の間から漏れ始めている。
確かに上陸したいが日程的にかなりギリギリだ。しかし、新たな晴れ間が出てきて乗員の期待は更に高まった。
だが、カイルはそこで悪い予感の原因に思い至り、叫んだ。
「面舵一杯! 直ぐに退避せよ!」
島から離れる命令に乗員は明らかに落胆の顔を見せる。だがカイルの執拗な叫びにようやく動き出したが、遅かった。
「! ヤードを回せ! 風を逃がすんだ!」
いきなりの命令変更に一瞬乗員は戸惑って硬直したが直ぐにその意味を理解した。
直後に突風がディスカバリーを直撃しハンマーで叩かれたような風圧が押し寄せる。
マストの帆は全て千切れ、ズタズタに引き裂かれる。
しかしディスカバリーの受難はまだ終わらない。風に続いて大波が眼前から迫ってくる。
風に逆らう巨大な逆巻く波で、ディスカバリーはサーフボードのように乗り上げてしまう。
激しい上下動と先ほどからの異常事態に乗員は混乱する。
「ジブとスパンカーを出せ! 操船を再開する!」
カイルの指示に乗員が従った。
ジブはマストとマストの間に張られる縦帆の三角帆だ。横帆のセールに比べて小さく受ける風は少ないので補助的な役目しか果たせない。
だが操作性が良く、逆風の中で風を捕まえる事の出来る帆なので重用される。
しかし、荒れた風の中で展開するのは難しい
「発見した島へ行き、帆を修理する」
カイルの言葉に乗員は奮起する。目標が出来ると人間は動き出せる。彼らは直ぐさま帆を展開し操船を再開した。
「取舵!」
風と波は相変わらず乱れていたが、カイルが風と波の動きを読み、先んじて指示を出して風と波の間を縫うように進んで行く。
途中吹き寄せる逆風も利用して島へ接近し、入り江にディスカバリーを入れる事が出来た。




