出港準備
開闢歴二五九二年三月二七日 ディスカバリー
ハリソン氏との出会いはカイルにとって思わぬ幸運であったが例外と言える事だ。
何とか帝国学会の便乗者を宥めたが、リーダーと案内人であの有様なのだから他の便乗者も推して知るべしだ。
部屋が狭い、私物を置くスペースが無いと文句を言う。
中でも問題なのは彼らの従者だ。
便乗者は科学者、技術者だが、大半の人間が生きるのもやっとというご時世に大金を使って研究に打ち込める人間など金持ち以外にいない。そんな彼らの身の回りの世話を行う従者が多数乗船することになってしまった。
艦内スペースには限りが有り、余計な人間を乗せたくないのに航行の力にならない人間を多数乗艦させ無ければならないのはキツい。
しかもリーダーのバンクス氏は通常の従者の他にも人員を連れてきている。
観測地の動植物や風景を記録するための画家はともかく、自分の趣味であるホルン鑑賞をするためのホルン演奏者を乗艦させると言ってきたことにカイルは怒り心頭だった。
どう考えても余計な人員なので下艦させるように頼んだが。
「ホルンの音色は良いものだよ。海でささくれ立った心を癒してくれるよ」
と、煙に巻いて断ってきた。
他の科学者も乗せろと言ってきたが、定員オーバーを理由に一名のみ許し、他は断った。バンクス氏はなおも抗議してきており、カイルの頭を悩ませる。
しかも、頭痛の種は帝国学会関係者だけではない。
「手に入れたぞ」
港でエドモントがカイルに話しかける。
「おう、ありがとう」
「何を持ってきたの?」
馬車から下ろされた樽を見てレナが尋ねる。
「保存食だよ」
樽の中身、酢漬けのキャベツをカイルは見せた。
「保存食なら小麦や塩漬け肉があるでしょう」
「それだと壊血病になってしまうんだ」
ビタミンC不足による粘膜部や皮膚の出血、歯の脱落、抵抗力の低下などが起こり重症化すると死亡もあり得る。
長期の航海ではビタミンCが摂取できないため起こる病であり、原因が分からず航海病と恐れられていた。
「でも酢漬けのキャベツを食べれば大丈夫だ」
「本当?」
「酢漬けのキャベツを支給していた船の壊血病患者は少なかった。これを食べ続ければ大丈夫」
「飽きそうね」
「そこで飽きないように他にも食材を用意した。タマネギにレモン、果物ジュース、それにヨーグルトだ」
「果汁を煮詰めた濃縮果汁もあったけど」
「アレはダメだ」
ビタミンCは加熱によって分解されるため、加熱して煮詰める濃縮果汁は壊血病に無力だ。
「特にお勧めするのが蜂蜜漬けの果物だ」
高濃度の糖分で雑菌の繁殖を抑えている蜂蜜漬けはビタミンCを分解せず保存できる、とカイルは考えている。
どうしても味が単調になる食事にアクセントを付けようと思って用意させた。
「大丈夫なの?」
甘ったるそうな匂いを嗅いでレナが尋ねた。
「味は良いはずだよ」
そういってカイルは一切れを食べて見せる。
「うん、大丈夫だ。レナもどう?」
「いや、遠慮しておく」
「そう。じゃあウィルマ食べてみる」
そう言ってカイルは指に一切れ摘まんでウィルマの前に差し出す。
「パクッ」
次の瞬間、ウィルマはカイルの指ごと食べた。
「いっ」
いきなりウィルマに指まで咥えられたカイルは反射的に引き抜こうとする。だがウィルマは唇で押さえつけて口から放そうとしない。
「うぐっ」
それどころか口の中で自分の舌を器用に動かしカイルの指に付いた蜂蜜を舐め取る。その動きがこそばゆく官能的でカイルはなんとも言えない感覚に困惑する。
放せ、と命令すれば良いのだがウィルマの舌使いが絶妙で言語中枢を麻痺させ言葉に出来ない。
「あっ」
ウィルマは更に歯を立ててきた。本気では無く犬のような甘噛みで痛いという程では無いが脳髄に伝わる刺激にカイルは力が抜けて、腕を引き抜く事が出来ない。
「何やっているのよ!」
呆然と見ていたレナがようやく我に返りカイルの指を引き抜く。おかげでカイルの指はウィルマの口からようやく解放された。
「味見です」
レナの詰問にウィルマは無感情にしれっと答えて、唇の周りに残った蜜を舐め取る。それが終わると一言呟いた。
「美味しい」
『何が!』
と叫びたいカイルとレナ、エドモントだがウィルマの返答が怖いので誰も口に出来なかった。
「ねえ、カイル。私にも食べさせて」
ウィルマの様子を見ていたクレアが話しかけてくる。
「樽の中からどうぞ」
「カイルに食べさせて欲しいの」
「摘まんで食べられるでしょう」
「口移しで食べさせて」
「ほらよ」
カイルが返答する前にレナが一切れを摘まんでクレアの顔に叩き付ける。
「何するのよ!」
「あんたなんて放り投げた食べ物で十分よ」
「何よこの淫魔」
「五月蠅いブラコン!」
「兎に角、これを食料として運び込むぞ」
そう言ってカイルはヒートアップする二人を残し、保存食を積み込もうとディスカバリーに着いたところで早速阻まれる。
「ダメです」
ディスカバリーの船倉を管理する主計長ワッデルが拒否した。
「予定に無い物資を積み込むことは出来ません」
「しかし、これが無いと壊血病を予防できません」
「麦汁と濃縮果汁があります」
「それだと予防は不可能です」
濃縮果汁は加熱してしまうためビタミンCが破壊されるし麦汁にはそもそもビタミンCはない。
「兎に角、正規の糧食として積み込む訳にはいきません」
「ぐっ」
階級ではカイルの方が上だが、船倉、特に食料管理の責任者である主計長は糧食調達に絶対的な権限を持っている。
艦長に掛け合ったが、艦長は主計長の方針を支持したため受け入れられなかった。
「どうするのカイル?」
肩を落とすカイルにレナは尋ねた。
「やり方はある。手伝ってくれる?」
「良いけど。何をするの?」
「士官の私物として持ち込む。士官はある程度私物を持ち込むことが出来る。調達した保存食は私物として持ち込む。それに士官の食料は皆で購入するから購入する品目を保存食にする」
下士官兵は配給だが士官の食事は自弁であり士官室の士官達が金を出し合って購入する。
その購入する食品を保存食にしてしまおうとカイルは考えていた。
「済まないけど、保存食で一杯にさせて貰うよ」
「いいわよ。歯が抜けるなんてぞっとするし。けど、乗組員全員に配るには足りないんじゃ?」
「レナにしてはよく気が付いたね」
憎まれ口を叩いたお陰でカイルはレナにヘッドロックを喰らったが、保存食不足への対策は立てていた。
「ミスター・バンクス、頼みがあります」
カイルは乗艦しているバンクス氏に頼み込んだ。
「何でしょうか?」
「帝国学会が積み込む荷物に私の指定した壊血病予防の保存食を載せて下さい」
「私たちも観測の為に大量の機材を載せているが」
「理解しています。しかし、貴方方が壊血病で観測不能になるのは避けなくてはなりません。どうかご理解を」
「しかし、ご期待に添えるほど減らすことは出来ないな」
「従者の乗艦をいくらか認めますが」
「一五人」
「三人」
「一一人」
「五人」
「九人」
「六人。増えたら食料を余計に載せる必要があり本末転倒です」
「……よし、それで手を打とう」
交渉の結果、バンクス氏はホルン奏者などを含む従者六人の乗艦と引き換えに、帝国学会に割り当てられたスペースの一部を保存食料搭載のためにカイルへ割譲することを認めた。
便乗者が増えることになったが、艦長は特に反論は無かった。
この後もワッデルと口論しながら、カイルは物品の積み込みを進めて行く。
赤道を通って極寒の海へ行くため防暑服と防寒服を積み込む。さらに現地で砦作りに必要な斧や釘、トンボ玉などの物品の積み込みもある。
いずれも乗員の数が多いために、積み込む量は多いのだが、幾ら大きな船倉でも容積に限りがあり、何処に積み込むか、更にバランスも考える必要がありワッデルと揉め続けた。
しかし、最大の問題がこの後艦長とカイルの間に起こり、対立を深める。




