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オパールの杯に乾杯を  作者: 一矢
三章 眠る者
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八十九話 明日を願う

 水をたたえた情景。水の都市が見えてくる。


 遠目で見ていた時は地面も遠い位置であったが、今やそこまで1mもないだろう高さで飛ぶクレイン。


 流石に空から入るほど無礼ではないが、今回はそれだけが理由ではなかった。苦悶の表情で飛ぶ様子は、まるで負傷しつつも伝令に奔る兵士のようで。城下町までまだ少しあるという地点で、力尽きたかのように失速し、地面に身を投げ出したのだった。


 数度跳ねながら転がり、やがてその動きは緩慢になっては遂には停止する。舞った土煙が落ち着いてきても尚、動く気配はない。


 一部始終見ている者がいれば、力尽きたか意識がないのか、と不安にもなっただろう。しかし周囲に人影もなく、助けに駆け寄る者もなく。


 ややあってから酷くゆっくりとした動きで、立ち上がろうともがき始めた。


(くそ……体が……)


 伏せた上体から上半身を起こせば、顎からボタボタと汗が落ち、地面に丸い跡をつけていく。


(だが、なんとか協議に間には合ったな……)


 二重の意味でその言葉を胸中で呟くと、大きく息を吸って腹に力を入れ、渾身といった様子で立ち上がる。


 もはや日常生活にさえも支障が出るほど、その体は蝕まれていた。


 病の類ではない。ある意味で時限式の呪いのようなものだ。それも見方によっては、クレインの生みの親が施したのだから性質が悪い。


 剣を杖にし重い体を引きずるように進む。


 ずるりずるりと牛歩の歩みで、時間をかけて城下町を目指す。ようやく警備する兵士達が見えてきた。


 規模こそ巨大でないものの、洗練された水の都市の兵士と軍。各地の情報網や連携の取り方なども高度なもので、このようにして体を引きずり伝令にやってくる者が発生する事態など、よほど心配性でもない限り想像もしないほどである。


 もしも異変があれば速やかに対処されてきた。その実績もあって、賊に襲われほうほうの体で逃げてきた商人、などという話など聞く事もない。そもそもそんな輩を、首都の近くに居座っているのを許しさえしないのだ。


 故にクレインの様子に、すわ不審者か、と厳しい目つきで兵士達が近づいてくる。


 協議の殆どが水の都市で行われる。警備を担う兵士にしてみれば、荒ぶる魔王クレイン・エンダーの顔など見知ったもの。だからこそ、こんな様相の男が荒ぶる魔王であるなどと、誰も思いはしなかった。


 とは言え、流石に近くまで来ても荒ぶる魔王である事が分からないはずもなし。あからさま警戒する態度を示した事に、兵士達は真っ青になって謝罪の言葉と共に地にひれ伏した。


 彼ら自身はなにも悪くない分、なんとも可哀相な話である。


「いや、俺に問題があるんだ。気にしないで職務に当たってくれ」


 肩を大きく上下させる荒ぶる魔王の姿に不安げな様子だが、本人に気にするなと散らすように手を振られたのならば、これ以上彼らに出る幕はない。


 一歩、また一歩とゆっくり進む背を、チラチラと見送るしかなかった。


(少し、休むか……)


 無理して飛んできた事もあり、全身が鉛にでもなったかのように重い。


 手短なベンチにどかっと腰をかけて一息をついた。


(まずいな。自力で立ち上がれないかもしれない)


 酷い疲労感や倦怠感が、体のあちこちで染み込む様に広がっていく。


 数える間もなく全身を支配しつつあり、立つどころか身じろぎ一つ取る気力を奪う。


(落ち着け、しばらく休めばまだ動けるだろ)


 漠然と募る不安を払拭するように深く息を吐く。


 そうだ、まだそれほど深刻ではない。時間はあるのだ。自らにそう言い聞かせて冷静さを取り戻す。


 一先ず城に向かい休ませて貰おう。魔王城に滞在していれば、今日中にエルナにも会えるだろうし。


 そんな算段を立てていると、こちらに向かってくる人影が視界に映る。二つの影であり、双方とも鎧を着込んでいた。


 誰なのかを悟り、クレインは胸中で舌打ちをする。今はまだ顔を合わせたくはないのだ。


「やっと来たな。遅いぞ」


 クレインの前まで来ると、腰に手を当てて僅かに頬を膨れてみせる。


 普段、エルナが決して取らないような態度だ。彼女なりの気遣いなのだろう。


「遅くなってすまなかった」


 座ったまま頭を下げ、手を合わせて謝罪の姿勢を取る。


 殊勝なものに見えるが、今はできるだけ疲弊した顔を見られたくなかった。


 だからこそエルナはその異変に気づく。少し荒めの呼吸。しかしあまり動いていない肩。珠のような汗。


 心配させまいと、気取られまいとする行動であるのが一目瞭然であった。


「大丈夫か……? 凄い汗を、かいている、けども」

「その声音で喋るエルナよりはな」


 不安そうに言葉を発するエルナのほうがよほど重症そうだ。


 しかし実際はクレインただ一人が、体調に異常をきたしている。それも簡単に看破されるほどに。


 ならば隠していても仕方がない、と大人しく頭を上げるクレイン。明らかに憔悴した顔つきに、二人が息を飲んだ。


「なにがあったかは知らないが、休んだほうが良さそうだな。人を呼んで運ばせるか?」

「流石にそこまでは要らないさ。だが、今日はもう先に休むとする」


 クレインが膝に手をついたのを見て、エルナが身を引いて下がる。


 小さな掛け声と共に立ち上がると、二人に背を向けて城のほうへと歩き出していった。


「クレイン……すみません、あたし付き添いに」

「待て」


 あとを追おうとしたエルナに、まさかの静止の声がかかる。どう見ても一人にしておくべきではない様子だっただけに、エルナが不満そうな顔を断ち切る魔王に向ける。


 明らかな抗議を孕んだ視線に、断ち切る魔王は落ち着けという様子で両手を軽く上げた。


「剣を腰に差さずに手で持っていた。鞘の先にも土がついていたし、大方あれを杖代わりにしていたのだろう」

「……え、それってかなり苦しいって事では」

「それでも一人で行こうとしたのだ。今は自由にしておいてやろう。ただ途中で倒れられていても困るし、少し時間を空けてこちらも向かうとしようか」

「それなら初めから付き添ったほうがいいのでは?」

「まだやせ我慢ができるのだろうし、顔を立てておいてやれ。男の意地というものだ」

「……分かりました」


 断ち切る魔王の言葉に渋々といった様子でエルナが引き下がる。


 自身にも思い当たる節があり、なによりクレインを知っているからこそ、彼の言葉が響いていた。


「けれど、一体なにがあったらあんな……」

「それは私にも皆目検討がつかない。ただ衝撃的な内容というだけならば、ああはならないだろうし……とにかく、荒ぶる魔王が話してくるのを待つしかないな」


 僅かながらも事情を知る二人は、心にわだかまりを抱えつつも、しばしの時間を空けてクレインのあとを追う。


 道中で見かけはせず、城にてクレインが到着しているのを聞くに至るが、協議までの間にその姿を現す事はなかった。



「……」


 ベッドの上でぼんやりと宙を眺めていたクレインが、ゆっくりと上半身を起こす。


 腕から伸びた痣は胴体に巻きつくように広がっており、見るからに痛々しい様子であった。


(この数日、ずっと休んでいたが回復したのは疲労だけか)


 様々な痛みが体に食い込む。


 引き裂かれるような痛み。焼けるような痛み。斬られるような痛み。挙げていけばきりがない。


 それでもまだ耐える事ができるのだから、この地獄もまだまだ序の口なのだろう。


(流石にこれは本人も想定外なのだろうな)


 こんな傷めつけるような真似をする意味がないのだ。それをクレインは知っている。もっとも、分かったところで救いなどどこにもないが。


(それにしても、一度たりともエルナに押しかけられなかったか。気遣われた、というより、こっちの考えを察したか? いや、そりゃそうだな)


 城下町に着いた時、わざと顔を伏せたのに気づかれたのだ。ああして二人から離れた意図も悟ったのだろうし、自分が動くのを待っていてくれているのだろう。


 そこまで考え付くと、逆にクレインが恥ずかしさと不甲斐なさでベッドに突っ伏しそうになる。


 幼稚な意地など張らず、素直に現状だけでも伝えておけばよかった、と今更後悔をする。


「残り僅かの時間を思えば、一秒でも長く隣にいるべきだよなぁ」


 悶々と苦悩し、ついぞ言葉が口から漏れる。


 己の短慮な行いに深い溜息を吐くと、気持ちを切り替えてベッドから降りた。


 全身を蝕む痛みは相変わらずだが、まだ自力で動き回れそうだ。


 歩くのすら辛いものの、余裕があるのは素直に喜べる。


 軋む体で手早く身支度を整え扉を開けると、目の前には久しぶりに見るカインの姿があった。滅多に見せる事のない、心配と不安が入り混じった顔をしている。


「……」

「頬をつねらないで下さい。現実です」


 思わず夢では? と行動したクレインに、カインが表情は変えずにいつもの調子でツッコミを入れた。


「いや、え……なんでここに?」

「エルナさんから剣の国での話を手紙で頂きました。なにかあった時の為に、と駆けつけたのですが……大丈夫なのですか?」

「あー世話をかけたな。正直言って助かる。自力じゃ農商国家に帰れそうになかったからな」

「一体なにがあったんですかっ」


 クレインの言葉にカインが動揺してか語気を荒げた。


 主君の危なげな様子は見た事はあっても、ここまで明確に弱音を吐く姿は初めて。うろたえるなというほうが、無理のある話だ。


「協議の場で話す。というか話すだけで精一杯だな。とても協議そのものに出ていられないだろう。別室で休ませてもらって、終わったら農商国家に転移魔法で連れ帰ってくれ」

「……分かりました」


 可能ならば今すぐ事情を聞きたいカインであったが、クレインの指示に頭を下げると先導して協議を行う部屋へと向かう。


 通いなれた水の都市もこれが最後か。


 そんな万感な思いでクレインはただ、静かにカインのあとを歩き続けた。



「ク、クレイン……」


 部屋に入ると座っていたエルナが、ぱっと立ち上がって駆け寄ってくる。


 ろくに回復した様子のない顔色に、いよいよ一大事と呼べる状況であるのを察した。


「絶対に今のお前は普通じゃない。ここで無理をしないほうがいいだろ。肩を貸すから休んでいよう」

「いや、話すべき事がある。それまではまだ休めないんだ」

「荒ぶる魔王……。事情は分かりませんが私も彼女の意見に同意します。それとも、急を要するものなのですか?」


 水の魔王も不安げな様子でエルナに同調をした。


 部屋の中を見ると、山の魔王、火の魔王、深緑の魔王の共存派おなじみの顔ぶれに、断ち切る魔王が加わっている。皆、一様にして心配そうな眼差しをクレインに向けていた。


「すまないがそうも言っていられないんだ。言いたい事を言ったら、俺は休ませてもらう」


 ゆっくりとした歩調で席に着く。


 既に苦しそうな様子を見ているだけあって、歩き方一つに四人の魔王の表情が硬くなる。


 付き合いの長い彼らにとってそれは、荒ぶる魔王クレイン・エンダーを蝕んでいるなにかがあると示唆しているに他ならない。


 それもちょっとした体調不良、などという軽度の問題でないのも分かっていた。


「これから話す事は常軌を逸するものだ。俺自身隠していたものもあるが、正直とんでもない事実に辿り着いてしまった……。突拍子もない内容だが、茶化さず聞いて欲しい」


 静かになった部屋の中で、クレインが語り始める。


 ここまで改まる事など今までなかっただけに、数名が緊張のあまりゴクリと固唾を呑んだ。


「俺は幼い頃の記憶がなく両親も知らない。5,6歳だろうか。気づけば死の島にいて、そこで暮らしていた」

「……はぁ?!」


 深緑の魔王が素っ頓狂な声をあげる。


 当然だ。元々伏せていただけのカードとは言え、もうこの時点で常軌を逸している。だからこそ黙していたのだ。


「深緑の魔王」


 それを山の魔王が静かに咎める。


 初めて聞かされた四人のうち、深緑の魔王以外は驚いた様子を見せただけである。


 むしろよく声に出さなかったものだと内心、クレインは感心をした。


「え、や、だって……悪かったよ、続けてくれ」

「いや、もっと騒然とするぐらいに思っていたさ。で、そこにはかつて何者かが生活していた跡があり、いくつもの本が残っているんだ。魔法陣を用いた研究のようだったが、色んな事が判明した……まあそれがしょうもないお話でな」


 そこで言葉を区切ると、クレインが非常に言い難そうに口を開いた。


「強制的に転生する、というものだ」


 張り詰めていた空気が緩む。無論、クレインの言葉を理解し兼ねての事だ。


 一体なにを言っているのか、むしろなにを言ったんだ、とさえ困惑している様子である。


 そんな中、僅かながらも知っているエルナと断ち切る魔王が、目を大きく見開いて息を呑んだ。


「一部の絵と文章について剣の国で解読を依頼をしていたんだ。結果は死後や蘇生などに関わる内容らしい。俺は初め、自分がその術者が生まれ変わる為の器かなにかかと思ったよ。だが違った」

「今こんな状態だ。皆、俺が転生かなにかするんじゃないかと思っているだろう。が……どうやら俺は、既に転生した姿らしい」


 その場が凍りつくのが手に取るように分かる。


 ただでさえ大層な内容であったのに、目の前にいる人物が、慣れ親しんだ相手がその存在である。おぞましき研究の産物、その被検体である、と?


 誰もが疑い否定をしたいが、クレインの真剣な態度にただ言葉を失うしかなかった。


「親がいない事、いた記憶もない事。農商国家を建国した初代魔王である、慈しむ魔王クラウン・フェンリアラン。彼の眷属として従えていた翼を持つ種族について、後世においてなにも語り継がれていない事。現状の大陸にいない種族とされるハルピュイア。名称がハーピーに統括されたという説もあるが、この名で死の島で暮らす者がいる事」

「死の島に描かれた魔法陣と研究資料。その中心で目覚める記憶から始まる自分。倫理や道徳をかなぐり捨てて、術を行使したのも施されたのも……慈しむ魔王その人だったんだ」



『これを思い出す……いや見ているのならば、私が誰なのか。君が何者なのかが分かったのだろう。そしてその身の消滅も始まっているはずだ』


『私は……慈しむ魔王クラウン・フェンリアランは全てを失った。自ら壊してしまったものも含めて、この手にあったものは尽く塵と変わり果てた。自分にも世界にも、心底絶望したものだよ……。だがそれでも、世界の未来には希望があると信じたかった。自分が成した事に意味があったと信じたかった』


『そして新たに目覚めた君に、輝く未来の創造を託したい、と……いや、違うな。そのような高尚なものではない。私の我侭なエゴだ。自分を肯定したいだけの。どうしようもない願望が生み出したものこそ君であり、今である』


『なにも意味はない……私以外の者からすれば下らない慰めだ。しかし、君は道を違う事無く、ここまで辿り着いたのだろう。なにも成せない内に、彼女が協力したり妨害しないはずがない』


『嬉しく思うよ。どの様な世界を築いたかは分からないが、立派に務めてくれたのだろう』


『だから、その身を消滅させる』


『転生術。それそのものが理を大きく捻じ曲げる存在だ。そんな君を長く存在し続けさせれば、世界にどれほどの亀裂を生じさせるか分かりはしない。最初から最後まで、勝手で申し訳ないがこれで眠りについてもらう。とは言え、幾ばくかの猶予はあるはずだ。悔いのない別れをしてほしい』



「私は心から君を祝福する。会えるその時が楽しみだ。だ、そうだ。これが慈しむ魔王が残したふざけたメッセージらしい」


 そう締め括られると、部屋の中は水を打ったような静けさに包まれる。


 なんと言葉をかければいいのか。どれほど探そうとも見つからず、ともすると音の一つ立てるのも憚れるように思う。皆、呼吸の音さえも漏らさぬよう、浅く小さく息をするのであった。


「……酷い」


 その空気を破ったのは水の魔王である。


 まるで静かな川のように、留まる様子のない涙を流してそう呟く。


「こんな……身勝手過ぎる。例えそれが、証明できずとも、同じ魂……本当に転生であったとしても、己を存続させられないのならば……人格が違うのであればそれはもうただの別人。しかもそれを理解しておいて……生命の冒涜と非難するのさえ生ぬるい!」


 ぶつけようのない怒りに、水の魔王は震えながら言い放った。


 彼女がこれほどの激情を人に見せた事などそうはない。


 だからこそ、他の魔王達も怒りや悲しみに感化され、より険しい表情を作り出す。


 ただ一人、クレインだけは少し嬉しそうに微笑んだ。


「さて、一先ずの話はこれで終わりだ。なにか質問があるなら受け付けるぞ」

「質問、というより雑談だな」


 軽く手を挙げた断ち切る魔王に視線が集中する。


 クレインにも見つめられ、指名されたのを確認した断ち切る魔王が続ける。


「一瞬、そこまで予測して、こうなる前にと私に会ったのかと思ったが……こちらが解読した事で進展したのだから、ただタイミングがかみ合っただけなのだろうな」

「ああ。こんな事になると思ってもみなかったし、きっとそう勘違いもされると思ったさ」

「なんとも迷惑な奴だ」

「辛辣……」


 気遣いなど一切なく、遠慮のない断ち切る魔王の物言いにクレインが呻いた。


 断ち切る魔王と個人的に接点を持つ者など他におらず、彼と会うのが初めてという者さえもいる。


 あまりにも知らない相手であるが、その光景はまるで、二人が旧知の友人であるかのようだ。


 だからこそ憤る様子も隠さない深緑の魔王が、椅子を倒す勢いで立ち上がった。


「なん……なんなんだよその会話は! お前もお前だ荒ぶる魔王! なんでそんな平然としているんだ! 話が本当なら……お前はもう!」

「だからこそ俺に人生が与えられた」

「……それは、そうかもしれないが」

「本来であれば俺は存在しえなかったんだ。惜しくないとは言えば嘘だが、恨む筋合いはないさ」


 本人が既に受け入れている意思を示した以上、深緑の魔王もそれ以上は言えず、歯がゆそうに席に着くしかない。


 火の魔王や山の魔王も近しい思いなのか、口を開くことなく手に余るこの話を受け止めていた。


 ただ一人、断ち切る魔王は変わらぬ様子で話を続ける。


「一応聞いておくが、荒ぶる魔王はなにを考えて私に接触したのだ? こうして私は共存派側に引きずり込んだのだし、思惑ぐらいはあったのだろう」

「それに関しては……正直、本気で魔王を辞める口実の為だ」

「は?」


 冗談めいた内容の発言に、断ち切る魔王が間の抜けた声を上げる。


 しかし言い辛そうな様子から、それが本心であるのは確認するまでもなかった。


「現状の侵略派は、剣の国という大国が存在するこそ存続していられる。というよりも剣の国がその立場だから、突っ込んだ対応が取れていないだけだな。しかしこれで、彼らに対して多少強固な姿勢も取れるようになった。自力で暮らすには物が足りなさ過ぎる彼らは、共存派に媚を売るしかない」

「それは分かっているが、辞任にどういう因果がある」

「俺が魔王を続ける理由の一つだ。これで形だけでも手を取り合える環境、平和が実現される。これが一番厄介な課題だったから、これさえクリアすれば、もう俺がこの座に就いている意味がない。そもそも俺に職務能力など殆どないし」

「それを自分で言い切るのか……」


 魔王としては無能であり、魔王としては起こしえない行動を取る。


 それを自ら認めた発言であった。


「農商国家で穏便に交代していない魔王だぞ。まともであるほうがおかしい」


 過去を思い出すようにそう苦笑する。


 いつもならば呆れた様子で言っている内容だ。


 なにを思っているのか。誰も問う事などできず、ただ胸を締め付けられる苦しさの中、クレインを見つめるばかりであった。


「さて……他にはなにもないのなら、あとはうちの側近に任せて俺は休ませてもらう」

「荒ぶる魔王……」


 席を立ったクレインを水の魔王が呼び止めるも、それ以上の言葉は出てこない。


 むしろどんな言葉がかければいいのか。それすらも迷っている様子だ。


 悲しげで、困っている様子の彼女に、クレインは再び苦笑をする。


「断ち切る魔王を引き込んだ以上、色々とあるだろう面倒事を手伝うつもりでいたんだが……全て押し付ける形になってしまった。本当にすまない。だが、彼が目指したい未来は水の魔王が、俺達が目指したい未来とそう遠くはない。だから……あー、丸投げしといて偉そうで悪いが頑張ってくれ」

「貴方は……こんな時まで人の……。分かりました。荒ぶる魔王の想い、確かに託されました」


 水の魔王が立ち上がり深々と頭を下げると、クレインは頼んだ、と背を向けて部屋の外へと歩き始める。


 静観を貫いていたエルナはカインや魔王達に一礼をすると、さっと付き添い二人で部屋を出ていった。


 扉の閉まる音が鳴り止んでも、周囲は重苦しい空気に包まれたまま。


 衝撃的な話も相まって、面々が口を閉ざす中、おもむろに断ち切る魔王が立ち上がる。


「さて。改めて挨拶をさせて頂こう。剣の国の断ち切る魔王ヴィクト・アインクランだ。荒ぶる魔王との会談を経て、此度より共存派として協力していく所存である。以後、よろしく頼みたい」

「はい。こちらこそ剣の国が協力して頂けるのは非常に心強いものです」


 普段の調子を取り戻す水の魔王を前に、まだ困惑気味であった三人の魔王が、互いの顔を見合わせて意思疎通を図る。


 いつまでも気持ちを沈めたままにはいかない、と。切り替えていくべきだ、と。


 普段よりも一名多く、普段出席しない一名がいる中、本来すべき話し合いが進められていった。



「やっぱり……お前のところに顔を出しておくべきだったんだろうか」


 クレインが使っている部屋に来たエルナは、そうポツリと呟いた。


「改めて考えれば、俺の様子を見たら見たで騒いで、協議どころじゃなくなっていたかもしれない。そう思うとこれでよかったんだろう」

「……人を子供扱いするな」

「いや、こんなものを見たら誰だって騒ぐさ」


 そう言って体の痣をエルナに見せる。


 例の如く絡めと取ろうとするように伸びるそれは、不吉さしか感じられず、見る者に大きな不安を与えるものだ。


 エルナもそうであるらしく、小さな悲鳴と共に目を見開いた。


「い、痛くないのか?」

「痣自体はな。だが全身には痛みがある。これになんの意味があるかは分からないが、進行度合いとして考えているよ」

「こんな……お前はもっと怒っていいんだぞ。もっと喚き散らしたっていい。なのにクレインは……」

「さっきも言ったが恨みはないさ。むしろ話に挙げた眷族のほうがよっぽど被害者だ。その命は俺の身と連動されている。俺が死なない限り向こうも死なない。慈しむ魔王クラウン・フェンリアランなんて遥か昔の存在なのに、魂を縛られて……生き続けていた。その孤独を思えば、俺なんて幸せなほうだ」


 あの日あの時、クレインが目覚めた時にクレアも目覚めた。わけではない。


 ずっとずっとただ一人、主君が残した自身の転生した者の世話の為に生きていた。しかもすぐ傍で親身にするのではなく、飽くまで遠巻きに見守り、誤った道を進ませないように、と。たったそれだけを目的に。


 その当時、どのような会話がなされたのかは分からない。彼女の決意も真意も分からぬままだ。


 慈しむ魔王が残した記憶。話題にはしなかった一部から、その事情を知る事となった。


 薄々気づいていたとは言え、クレインからしてみればその大罪の片棒を担がせられたようなもの。


 唯一、恨むとすればそれぐらいだろう。


「それに……もしかしたら、可能性はあるのかもしれない」

「可能性?」

「慈しむ魔王の言葉にもある会える時、だ。普通に考えれば死後の話だが、一つの魂を一つの存在として考えたら、俺も彼も同一人物。出会えなどしない。ならばなにかを仕掛けてあるのかも」

「なにかって……なんだよ」

「分からない。だが例の解読結果で、考察のほうに面白い事が書かれていた。天秤の解読に別の説の可能性が記されていたんだ。『そもそも私にその権利があるのか?』、てな」

「権利?」


 エルナが眉をしかめる。いまいちピンとは来ていないようだ。


「そもそもこれらの所業に権利もくそもない。ならその一文は、裁かれるのでは裁くほうなんじゃないかと思う。確証などなにもない話だし、気休めにもならないが」

「そうだな。無為な夢は見たくない」


 ありもしない希望を期待する。その時は救いとなるが、現実を突きつけられた時の痛みは大きく増す。


 ならばいっそ、来る現実として覚悟をするほうがいい。


「……ずっと、傍にいてもいいか?」

「願ったり叶ったりだ。それこそ拒否する権利もなければ、拒む余力も残っちゃいない。お前の望むようにしてくれ」


 

 それから一月が経った。


 協議後、多くの術者が診るも匙を投げ、渋るクレインを押さえつけ、様々な万能と呼べる稀少な薬草を投与するも回復の兆しはなく。


 その衰弱は日毎に増していった。


 今や自力で出歩く事すらできず、付き添いがいても非常に難儀するほどである。


 日長一日、ベッドの上で過ごすようになったクレイン。


 もうしばらくすれば年も変わる頃だが、そこまでもつかどうかといった様子で、遂に痣は全身を這うようになったのだ。それ自体に痛みはないというが、顔にまで伸びてきているそれは、見ている側が痛覚を覚えるほどで。


 ここ最近に至っては世話をしに来た侍女達が、平静を保てないどころか労しく思い泣き出す者まで出てきてしまっている。


 そんな中、変わらず傍にいるのがエルナであった。


「ほら、魚のスープだ。暖まるぞ」

「エルナが作ったのか?」

「ああ。思えばずっとクレインの料理ばかり食べてきたからな。味は劣るだろうけど、是非食べてくれ」

「なにを言っているんだ。ありがたく頂かせてもらうよ」

「体、起こせるか?」


 寝たきりのクレインにエルナが手を差し出した。


 無言だが少し困った様子で、クレインはその手を握り助けを借りる。


 最近はもう体調の良し悪しに関わらず、上半身を起こすのも苦労するようになってきていた。


 その弱々しい姿もまた、周囲の者を悲しませる要因となっている。


「年は越せそうにないな」

「なに弱気になっているんだ。ほら、腹にものが入れば元気も出る」


 エルナがすくったスープに息を吹きかけて冷ますと、クレインの目の前に向けた。


 どうやら食べさせてくれるようだが、スプーンを向けられたクレインは恥ずかしそうに顔を歪めている。


「まだそこまで衰弱していないぞ」

「別にいいだろ。あたしがしたいんだ」


 そう。今はまだそこまで手を借りる必要はない。だからこそ、この行為には別の意味がある。


 一呼吸ほど悩むと、クレインは意を決して口をつけた。


 その様子にエルナは楽しげに微笑む。


「どうだ?」

「ああ、美味しいよ。だが……こんな姿、人には見せられないな」

「流石に見られたらあたしだって恥ずかしいよ」


 侍女達は勿論、カインやアニカに見られようものなら、顔から火が出るだろう。


 そしてとびっきりの笑顔で気遣われる未来さえ、容易に想像できる。


 どうやらクレインも同じような事を思ったらしく、寿命が縮むと零す様に呟いた。


 だが一度やってしまえば、今この場においては吹っ切れた様子。その後も一口、二口とエルナに食べさせられる。


 不安視した不意の来客もなく、二人は穏やかな時を過ごした。


「……そういえば、結局俺の過去についてなにも話していなかったな」

「お、ようやくか? あたしはクレインが話し始めてくれるのを、ずっと待っていたんだぞ」

「別にもったいぶる内容じゃないし、催促してほしかったぐらいだが……。俺は死の島という、魔力が吹き荒れ古代の生物が生きる島で目覚めた。何人も入ればまともに出られないという場所だが、特に魔力に関してはそういう感覚はなかったな」

「それはクレインが異常なだけでは……」

「実際のところは分からないが、そういう事なんだろうな。今でもその辺りの計測を剣の国は行っている。落ち着いているのなら、とっくに調査に向かっているはずだ」


 当時で危険であったのは、もっぱら捕食者の位置にいる生物達だ。


 魔力がどうのなど、島を出てから知らされたほどである。一度としてそれを知覚できた事はない。


「どんな生活だったんだ?」

「原始的だよ。初めは木の実やらを食べていた。それっぽい道具を作ったり。けど肉食の生物に阻まれて、近場の食料を食べつくして飢え死にしかけた」

「あ、もしかしてその時に、眷属だった種族に助けられたとか?」

「いや。近くにいた虫を食べて生き延びた」

「おぉ……」

「それからは一層生き延びたいと足掻きまくったさ。その過程で例の本が置かれる場所を見つけたんだ。中には生活に役立つ情報も……まあ準備されていたというのが正しいのかな。そういえばあの時は、そこそこ文字が読めていた。多分、まだ慈しむ魔王の知識の一部が残っていたんだろう」


 思えば全部は分からないまでも、それらの知識を扱えるようになるぐらいは理解できていたのだ。


 再訪した際に読み直したわけではないが、今となってはあれらも理解できないのだろう。


 また読む機会などもうないが、クレインは少しばかし寂しい気持ちになる。


「サバイバルに関しては、この時に学んだものが殆どで、生活が安定し始めたのもこの時期だな。作物の育て方も学んで、ちょっとした自足自給も始めていたりしたもんだ」

「……その経験がなければ、中庭もあんな無残な姿にはなってなかったろうに」

「失礼な。荒れ果てていたあそこを、立派に活用したに過ぎないぞ」

「どうだかなぁ」


 エルナとて、格別に花を愛でるわけではないものの、城にある庭園ともなれば感動もあろう。


 できる事ならば、畑と化した姿よりも、花木で彩られた中庭のほうが見たかったものである。


「探索の範囲も広げていき、例の眷族に出会った。で、なんだかんだあって島の外で学んで来いと追い出された」

「慈しむ魔王がそう命じていたのか?」

「予想だが眷属に与えられていたのは、俺が島にいる間に道を踏み外さないよう見守る事。環境から言えば、島の生き物を殺して回るとか殺戮衝動的なものとか。もう一つが俺を島の外に行かせる事。島に篭りっぱなしだったら意味がないからな」

「たったそれだけの為に独りで……あたしなら耐えられないな」

「俺だって無理さ」


 クレインが苦笑いをする。


 全てを捨てて気が遠くなる歳月の孤独。もしかしたら、本来はもっと早くに目覚めていたのかもしれない。


 だが現実はそんな事もなく、そして耐え切ってしまったのだ。


 狂ってはいるが、彼女なりの幸せがあったのだろう。


「島を出てからは大変だった。この辺りはエルナも知っているか」

「飽くまで少しだから詳しく聞きたいな」

「若気の至りだから気は進まないが……降り立ったのが西の国で略奪や虐殺をする賊が横行する地域だ。怒りともつかない感情に駆られた俺は、そこから長い事、逆に彼らを虐殺する存在となった。賊狩りだなどと呼ばれていたが、実際は対象が変わっただけで連中と同じだったよ」

「でも、それで助かった人達も大勢いる。例え動機がどうであれ、やり方はどうであれ。立派な事だとあたしは思うよ」

「どうかなぁ。当時はあの島こそが楽園で外の世界は歪んでいる、と本気で思っていたぐらいだ。所詮はその過程や結果的に救ったに過ぎない」


 クレインが恥ずかしそうに顔を歪めて吐露する。


 自覚している通り若さ故の暴走であった。


 だがそれは当然とも言える。正確には若いどころか幼かったのだ。


 そんなクレインが目の当たりにした世界を前に、平静でい続けろというのは中々酷なものである。ただ、少々その期間が長くはあったが。


「その時はまだまだ子供だったんだろ? 自分の考えをどう行動で示すか。その身の振り方が分からなかったんだ。自暴自棄だったとしても、相手を間違える事がなかったのなら、十分褒められて然るべきだ」

「……」


 それでも尚、納得のいっていない様子にエルナがクスリと笑う。


 良かった事として認め、折れる事を拒んでいるかのようなクレイン。


 案外、意固地なところは似たもの同士なのかもしれない。


「仮に悪かったとしても今は違う。クレインにとって恥ずべき行いであったとしても、成長をもたらしたのは事実だ。違うか?」

「……それは分かっている。結局のところ、皆なにかしらを内包しているんだ。全てが善良でできている事などありえない。俺自身が散々やらかしてきたんだ。口が裂けても悪しき部分がないなど言えない」

「だろうね。あたしもこの手を血で染めたんだ。変えるべき現状から目を背け、こうして逃げてきた。どんな理由も綺麗ごとも意味を為さないな」

「……」

「クレインがそんな顔をするなよ。全部、あたしが選択してきた事だ。後悔はあっても、否定はしない」

「それほど顔に出ていたか……?」

「あたし自身よりよっぽど深刻そうだったよ」


 自分をそこまで案じていてくれる様子に、エルナが嬉しそうに笑う。


 話も一区切りか、と食器を下げようと立ち上がると、思い出したかのように訊ねた。


「そうだ、なにか飲み物でも持って……クレイン?」


 どこかぼんやりと虚空を見つめるクレインに、エルナが不安そうに声をかける。


 まるで急速に意識を取り戻したかのように、クレインがピクンと反応を示した。


「悪い、長話をさせちゃったな。少し寝るか?」

「……このぐらい平気だと思っていたんだがなぁ。そうさせてもらう」


 エルナは頷くと、申し訳なさそうにするクレインに近づき、その体を支えながらゆっくりと倒していく。


 ありがとう、とクレインは呟くと目を閉じ、少しすると寝息を聞こえてくる。


 元々寝付きがいいほうではあったが、伏せてからは特に早い。それだけ身体への負担が大きいのだろう。


 エルナが愛おしそうに頭を撫でると、静かに部屋を後にするのだった。


 その後もクレインの容態は大きく変化する事はなく、だが回復の兆しなどないまま衰弱は進む。


 年の瀬も目前、という時期には自力で起き上がる事さえできなくなっていた。


「エルナさん」


 クレインの居る部屋へ向かう途中、エルナの背後から呼び止める声が上がる。


 振り返るとそこには、側近のカインと水の魔王リリア・スフェスターとその従者が立っていた。


 エルナにとって先の協議の場で、軽い挨拶で終わっただけに緊張した面持ちで姿勢を正す。


「あ、楽にして下さって構いませんよ」

「そ、そうですか……?」


 相手は大国水の都市の魔王。それもまだ会話らしい会話もしていない相手だ。


 そう言われたところで肩の力を抜けられるか、と言えば難しいものである。


「えっと、もしかしてあたしに御用でしたか?」


 恐る恐るそう訊ねた。


 エルナは北の大陸唯一の人間で、水の魔王は共存派のトップ。用が発生してもなんら不思議ではない。


 だがそれが目的ではないようで、カインが代わりに答えた。


「いえ、魔王様の容態の件です。様子はどうでしたか?」

「正直に言って芳しくありません。特に今日はこちらの声に反応しない事が多くて……。医師の話では恐らくはあと数日も」


 エルナが首を横に振った。


 覚悟はしていた現実が、もうそこまで迫ってきている。どれほど拒んでも、決して避ける事のできないそれが。


「そうでしたか……。今まで彼には助けられてばかりだったのに……。私にはなにも報いる事ができないのですね」

「まだ終わってはいません。お預かりした薬草、使わせていただきます」

「ええ、よろしくお願いします。……彼は、荒ぶる魔王は貴女と共にいる事を選びました。貴女に全てを託します。どうか、荒ぶる魔王を看取ってあげて下さい」

「……はい、勿論です」


 エルナがそう力強く頷くと、水の魔王はどこか寂しげな顔で一礼をし、従者と共に去っていった。


 その姿が曲がり角に消えるのを見て、エルナが小声でカインに話しかける。


「あの、わざわざそれだけの為に水の魔王様がお越しになったんですか?」

「私の視点では粗相にしか見えませんでしたが、水の魔王様にとっては助けになっていたようでして。魔王様とは親しい間柄だったんです。よく兄妹と揶揄されていたぐらいですよ」

「……そうだったんですか」

「水の国としてもよくして頂けたので、むしろ礼を返すべき立場なのはこちらですが……このような状況でずっと歯がゆく思っていらしたんでしょうね」

「それは……きっと誰もが感じている事です」


 どれだけ献身的に看病をしようとも、薬を探し調合しようとも。


 結局のところ、その命にはなんの助けにもならなかったのだ。


 荒ぶる魔王を慕う者達全て、無力さを痛感しないでいられるはずもない。


「それでもあたしは幸せなのでしょう。最期まで傍で寄り添えるのですから」

「……私からも改めて、魔王様の事をよろしくお願いします」

「……ええ、勿論です」


 再び力強く、覚悟をもって応えるのだった。



「エルナか」

「わざわざ訊ねる事じゃないだろ」


 その日の晩。入ってきたエルナに、首を向ける事もなくクレインが呟いた。


 ここ最近は出入りするのも殆どエルナだけ。確認するまでもない。


 特別に部屋を空けていたわけではないが、心細い思いをさせてしまっただろうか。


 エルナがベッドの傍に寄ると背筋に悪寒が走った。


 虚ろな目で天井を見続けるクレインの姿に、もうその時が目前である予感をさせられたのだ。


 夕方頃の血の通った顔色が嘘のようである。


「……目が見えなくなってきた。音も随分と遠くに聞こえる。今日を……越す事はできないかもしれないな」

「そんな話、聞きたくない」


 椅子に座り、クレインの手を両手で握り締める。


 祈るように結び、溢れそうになる感情を押し留めた。覚悟を決めていようとも、終わりを前にして揺るがないはずはない。


「それでも伝えておきたかった」

「……」


 一層、手に力がこもる。


 ただの病ならば励ます言葉もあるだろう。だが、クレインにはかけられる言葉などありはしない。


 だからこそエルナは行動で示した。


「今晩は一緒に寝るぞ」


 確認や了承などでなく、断定と言うのも憚れる。ベッドに潜り込みながらの発言であった。


 クレインの腕に抱きつき、その手を固く握り締めて。決して離すまいと。


 そこにきっと意味などないのは承知の上で、ささやかな抵抗をした。


「離さない。なにが起こるかは分からないが、絶対にクレインを離したりしない」


 状況が状況だけに、ただ逝くだけではないのかもしれない。ならば繋ぎ止められる可能性とて。


 水より淡い可能性に手を伸ばし、理不尽な結末に抗いたかった。


 ただの諦めではない、と言い訳をしたかった。


「心強いものだな……」

「なら、起こして。前みたくさ……おはようって言って起こしてよ」

「……ああ、分かったよ。おやすみ、エルナ」

「うん……おやすみ、クレイン」


 もはや不安などはない。


 しかし未来より今を願ってしまう。この夜の帳が上がらぬ事を。


 叶わぬと知りつつも。


 そして。


 次に目を覚ました時には、外から差し込む光で部屋は明るくなっていた。


 握り締めていたはずの手の中には、しわくちゃになったシーツがあり、真横には誰もおらず。


 体を起こしたエルナは、はらはらと涙を落とし始める。


「いくら……体調が良くなったからって、いきなり出歩くなよなぁ……」


 いたはずのそこに手を這わせる。温もりを感じ取る事はできなかった。


「なあ……早く戻って来いよ。起こして、くれるんじゃなかったのかよ……」

「やっぱり、嫌だよ……こんなの……クレイン」


 部屋から嗚咽が聞こえ始めると、それは城中に伝染し、一向に止む気配はなかった。



「こんなところにいたんですか」


 エルナがやや呆れた様子で呟く先にはカインがいる。


 かつては荒ぶる魔王の自室兼執務室とされていた部屋だ。


「エルナさんこそ、どうしてこちらに?」

「……クレインだったら、湿っぽく送り出されるの嫌がると思うんです」


 クレインの姿形が消滅してしまった今、空の棺で形ばかりの葬儀が執り行われている。


 本来ならばこの瞬間、別の場所にいるべき二人。しかしこうしているのは、彼がもっとも長く居た……と思いたい部屋であった。


「せめてあたしは、笑顔で、送り……」


 エルナは言葉を詰まらせて、ぐっと目を瞑る。


 次に開いた時には瞳が潤んでいた。


「はは、ダメですね。あたしには当分難しいや……。表情を崩さないでいられるカインさんが羨ましいです」

「これでも散々涙を流しましたよ。ただ、あの人の為に泣いたのだ、と思われるのは非常に癪ですので」


 よく見ればそういうカインの目も、エルナに負けず劣らず充血したものであった。


 こうなる事は自身でも分かっていたはず。だとすれば、このように隠れているのを考えると、今日はエルナ以外とは顔を合わせてもいないのだろう。


 ただこれだけの為に、迎えたくない今日の日の為に、諸々の調整を周到に行う努力をしたのが見て取れる。


「それは……流石にひねくれ過ぎでは」

「いいのですよ。あのかたには苦しめられもしましたから、悲しむ様子を見せないぐらい優しいというもの。それに、全ては知られなければないのと同じ。エルナさん、これは内緒ですからね?」

「それはまあ……触れて回る意味はないですし。ですけど立場的に出なくて大丈夫なんですか?」

「アニカさんにお任せしています。それを言ったらエルナさんこそ、将来誓い合った立場なのに、不在というのもどうなのでしょうか」

「いや、プロポーズまでは別に……まあでも、『他』なんて考えられないし、同じようなものか」


 離れている時期もあったものの、隣にいるのが当たり前で、そこに別の誰かなど考えもしない話であった。


 未来があったとしたら、そのとおりになっていたのだろう。


 それを思うと、エルナの胸のざわつきが一際大きな波となる。


 一度、深く息を吐き出して心を落ち着かせると、葬儀が執り行われているであろう方角を見やった。


「どの道、箱の中身は空ですからね。気持ちの整理は自分でしますし、既に終えた区切りの為だけに出る必要もないですよ」


 城下町に鐘が鳴り響いた。


 黙祷を告げる音は、人々の胸に刺さるように響き続く。


 遠くで見守る者。見守る事すらできぬ者。ただ祈るしかなかった者。


 身近にいられなかった者達に、悲しくも区切りを打つ音だった。



(魔王は死んだ……)


 あれから半年が経とうとしている。


 北の大陸の情勢は急速な変化を見せ、形ばかりではあるものの、実質的に全ての国が共存派として動き出していた。


 無論、南の大陸との接触以前の問題が山積している状態ではある。だが、これまでを思えば驚きべき進展だ。


 そんな中、悲鳴をあげる国がある。


 農商国家は荒ぶる魔王クレイン・エンダーが没して間もない。彼が就任した当初の多忙を極めた日々を思い出し、涙を流している者も少なかった。


 果たしてその涙はどんな思いが込められているのだろうか。それは明らかにしないほうがよさそうだ。

 そんな激動の中に、エルナの姿はまだあった。


 南の大陸に帰ることもなく、農商国家の一人の騎士としてその身を置いている。事実上魔王となったカインと共に駆け回る日々だ。


 いきなり騎士という立場を与える事に、極々一部から反対の声が上がりもした。しかし、大半の者はエルナを快く思っており、そもそもその一部はアニカが快く思わない面々であり。


 クレインが没した今でも、苦渋を舐めさせられているようであった。


「それではあたしは先に休ませてもらいます」

「はい、お疲れ様です。明日はお互い休みなのでゆっくりしましょう」


 先代荒ぶる魔王の執務室兼自室。


 今や寝具など自室としての家具はなく、ただの執務室となっていた。


 とっぷりと暮れて、窓の外は月星やかがり火がなければ漆黒に包まれた様相をしている。


 しかし今晩は外の様子がはっきりと見えた。なにせ丸い月が空高くにあるのだから。


「……もう、今日ですけどね」

「ですねぇ……」


 つまりは既に日付が変わっているわけで。


 エルナは改めて一礼をすると、城の中の自室へと向かっていった。


 かつて使っていた部屋に比べて、随分と狭い新しい自室。


 強く要望を出した結果、本来の魔王の部屋からここへの移動に成功したのだ。


 城内部に持つ個室としては、かなり低いグレードであるが、エルナには十分過ぎるほどに快適な場所。


 あまり大きくはないものの、それなりに凝った作りをした調度品の数々。それも質自体は高いときた。


 テーブルの上には、一つのペンダントが飾られている。


 彼がくれた多くのもの。彼がくれた数少ない物。その中で唯一洒落た物がこのペンダントだ。


 それをそっと、指で弾く。


「あたしはまだ、起こしてくれる約束を忘れていないからな……」


 受け入れてこそいるが、整理がつきはしない。故に自らの慰めの言葉を、毎晩彼に語りかけて眠りにつく。明日も、その次も。


「お休み、クレイン。お前が夢見た世界になるかは分からないが、早く共存する未来が来るよう頑張るから。ちゃんと見ていてくれよ……」


 慰めと矛盾する言葉を吐き出して横になる。


 明日も生きていく。この世界の明るい未来の為。


 彼のいないこの世界の未来の為。



 いつか終わるその時まで。

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