八十七話 進展
「はあ……」
見上げているエルナが感嘆の息を吐く。
目の前にあるのは大きな絵画が一枚。
浜辺に木製のカヌー。その奥には熱帯植物の森が広がり、脇には切り立つ崖が描かれている。
揺れる海面、青々とした木々、遠くの霞む景色。見ているだけで、その世界に意識が吸い込まれそうなほど美しいものであった。
手を伸ばせばこの浜に足を踏み入れ、森の奥へと進んでしまえるのではないか、と錯覚してしまう。むしろ手すりが設けられていなければ、本当に手を伸ばしていた事だろう。
今や季節は冬だが、思わずむわっと湿度の高い熱気さえも感じられそうである。
「いやしかし凄いなぁ……」
見渡せば絵画の他に彫刻なども多く展示されている。かなりの大規模な美術館だ。
「水の都市にもあるが、建物ならば間違いなくこちらのほうが大きいな。置かれているもの数は分からないが」
「どこまでも一位を競い合うのかぁ」
「全てにおいてという事はないが、どうしても根本的な国力の差があるから割って入りづらいんだよなぁ」
「でも歴史を知っているとな……」
エルナがそう言いよどんだ。
侵略を行ったという事実が尾を引いているのだろうか? とクレインがその顔を覗き込む。
どこか困った様子のエルナがクレインに顔を近づける。流石に外でやる話題でもなく、そっと耳打ちをした。
「どうしても他国から分捕ったってイメージがさ」
「それ、絶対に断ち切る魔王の前では言ってやるなよ……? 戦乱の時代に関して、結構ナイーブなところがあるから」
先の会食でも、当時の自国について快く思っていない様子を示したのだ。その上、クレインからもこう言われるという事は、よほどなのかもしれない。
「そもそも、こういった文化が発展する以前の出来事だからな、それ」
「ああ、うん。それ自体は分かっているんだけども、どうしてもイメージが拭えないというか」
「ならせめてそれを表には出すなよ?」
申し訳なさそうなエルナは、釘を刺されるも素直に勿論だと首肯をした。
館内はその広さもあり、人もまばらでゆっくりと見て回れる。少々マナーが悪くはあるが、こうして小声ならば、周りに迷惑をかけずに会話する事もできた。もっともそれも今日が空いてるだけの事ではあるが。
そんな自由に鑑賞を続ける中、この美術館の従業員の格好をした一人の男が近づいてくる。
「失礼します。こちらを」
そう言って差し出してきたのは一枚の紙であった。
今更この施設の案内だろうか、とも思われたが、少しの文章がつづられただけのそれはどうやら違うらしい。
クレインが一度、男と紙を見比べたあと、視線を落として目を通し始める。
そこには簡潔に解読の終了と、顔を出せという旨が書かれていた。
「もう終わったのか……」
思わずクレインが顔をしかめる。優秀とかどうとか以前に、純粋に頭がおかしいと言わんばかりの様子。
エルナもその言葉に内容を悟り、えっと顔を引きつらせた。
あの難題そうな代物を、あっさりと終わらせてしまったのだ。感謝はあれど引くのも仕方がない。
ふと、渡された代物から目の前の男が兵士や家臣といった立場であり、目立たぬよう変装までしてきた事にクレインが気づく。
「わざわざすまないな」
「いえ、これも仕事ですので……それと、本件については、私は一切覚えていませんので」
強張った面持ちで語る言葉に、クレインとエルナが目を丸くする。
彼は一体なにを言っているだろうか?
そんな二人の気持ちが伝わったのか、男が視線を落としてそれを示す。
クレインとエルナの、互いに繋いでいる二人の手である。
流石に丸腰は落ち着かない、と軽装の鎧に剣を携えただけの格好で、ガントレットもつけておらず、むき出しとなった手が結ばれているのだ。
ようやく言わんとしている事を理解したクレインが、あーと少し困った様子で声を漏らす。
「この国にいる事実はまずいが、彼女との関係は別に気にしないでいいぞ? 別に世襲制でもないし」
そう、世継ぎがどうのと言われる立場ではないのだ。話題性こそあるが、そこで止まってしまう。
しかし仮にも相手は一国の王。こうした情報を知りえて口が緩んでも安全、などとは思えない。そう男は考えているのだろう。
もっとも、城に勤務している者達には、荒ぶる魔王が異性と同伴でやってきた、という話は広まっている。
そこから交際相手である、という考えが浮かばないほうがありえないもの。今こうして目の前の光景に、見ていません覚えません、とまでするのは些か神経質に思える。
「俺としては、そっちの休憩時間の話題の種にしてもらってもいいぐらいなんだが」
「いえ、そのような事は……それでは失礼します」
彼がどれほどの立場の者かは分からない。
が、その言動から察するに、クレインの言葉が特大の爆破魔法並であったのだろう。見れば首筋に珠のような汗を浮かべて、足早に立ち去っていくのだった。
「……気遣ったつもりかもしれないが、あれはあれで相当なプレッシャーだと思うぞ?」
「おかしいなぁ。茶請けにでもしてくれ程度で言ったんだが」
「それが問題なんだよ」
首を傾げて本気で分かっていなさそうなクレイン。そもそも立場等に無頓着でここまで生きてきたのだ。
今更理解しろというのも難しいのかもしれない。むしろ理解していたならば、断ち切る魔王との邂逅も果たされる事はない。
いいのやら悪いのやら。ギリギリのバランスである。
「納得できないがとりあえず戻るか」
「けどなんでわざわざ報せが来たんだろう。夜までには城に戻るのに」
「……ソウネ」
クレインが露骨に嫌そうな顔をする。
そう、ここ剣の国で寝泊りしているのが魔王城、という異例の事態となっていた。
というのも、断ち切る魔王の提案によるもので、城下町に荒ぶる魔王を放逐していては胃が弾ける、とまで言い切られた以上、無下にもできず。
毎日、毎食。かなりのVIP待遇で、クレインが顔色を悪くするほどであった。
エルナとて豪華や豪勢な生活への耐性は高くない。が、そんなエルナでさえ思わず、うわぁと引くほど分かりやすく失調しているのである。
「断ち切る魔王め、嫌なやり方を思いついたもんだ……」
「いや、普通に考えたら別におかしくはないだろ。賓客の扱いをされて然るべき立場じゃないか」
「……そういうものなのか?」
かなり真面目な声音。冗談ではなく、本気の問いのようだ。
無論、北の大陸での礼儀やルールなど詳しくないエルナ。だが単純に国王として考えれば、この対応もなんら不思議なものではない。
しかしこうした疑問を口にしたという事は、少なくともクレインはそういうのがなかったようだ。しょっちゅう他国に行っているのに。
いや、それこそが原因か。
「……無断で行って勝手に宿屋で寝泊りしてるから、もうお前はそういう扱いでいいんじゃないか? ってなってると思うぞ」
「つまり剣の国も足しげく通えば……」
「胃が弾け飛ぶそうだから止めようか。さ、とりあえず戻ろう。わざわざ報せたんだ。なにか重大な事が分かったんじゃないか?」
「むしろよく分からないから、俺からの話を聞きたい、が正解っぽいけどもな」
「解読はできたが荒ぶる魔王からの意見も聞きたい」
「半分正解だな」
「ちっ、惜しい」
場所は断ち切る魔王の執務室。開かれたテラスから入る風が心地よい。
そんな心落ち着く環境の中、露骨に舌打ちをするクレインに、断ち切る魔王が眉をしかめた。当然である。
しかしこれで怒らないあたり、断ち切る魔王の懐が大海より深いか、あるいはクレインが思う以上に親しく思われているか。
荒ぶる魔王クレイン・エンダーとはそういう男、と悟りに至るか。
少しばかし歪な気もするが、良好な関係が築けていそうだ。
「なんの話だ?」
「わざわざ呼び出したのは何故か、と予想していただけだ。内容自体は分かったんだな」
「ああ。その上で、なにか聞ければ推察もより進む、と思ってな」
そう言いながら渡されたのは、写しの本と数枚に渡る紙の束であった。
解読だけならば紙一枚で十分に余りある。ならば書かれている大半は、既に行われた考察やらなんやらであるのだろう。
もっとも、それを読んでクレインが理解できるかは甚だ疑問だが。
「断ち切る魔王様も既に目を通されているんですね」
「解読に携わったわけでもないのに、依頼者より先に目を通すのもどうかとは思ったのだが、これから話を聞くのに内容が分かっていない、というわけにもいかなくてな」
「二つ返事で引き受けてくれたんだ。そこに文句なんかないし、これに関して隠す理由もないさ」
エルナにも見えるように持ち直して読み始めた。
どうやら小難しい話などは別にされているようで、見やすくまとめられている。
ありがたい気配りだ。しかし、どうせ理解できなかろう、という意思も透けて見える気もする。
気のせいではなさそうだが、今はポジティブに感謝しておこう。と、決めたクレインは、文章にを目を通していく。
『走り書きであったり、部分的なメモとして書かれているようで、ちゃんとした文章でないところが多いです。恐らく、他にもいくつかの本を開き、それぞれに書き記したりしていたものと思われます』
その前置きから始まる解読内容の紙は以下に続いていた。
『二つの風景について。死後、経過は? 差は? もしも天国ならば? それらに関わる対応策。そもそも通過する必要性。省略という手段は可能か? 進むのではなく戻るのならば? 他、字のクセや複写ミスと思われるもの多数』
『大人と子供について。人体を構成する成分の羅列。詳細は別紙参照』
『天秤について。そもそもこの過程を省略できるなら? 所詮は神話の類? ならば死後も等しい。変則的な蘇生術。生まれ変わらせる。再構築』
『多数の魔法陣について。魔法学的内容。別紙参照』
前置きどおり、あまり要領を得る内容ではなかった。
しかしこの断片的な情報だけでも、とんでもない事をしようとしたのは分かる。
エルナにしても、酷く顔をしかめて書かれた文字を目で追っている様子。
先に読み終えたクレインが顔を上げると、断ち切る魔王と目が合う。
どうやら似た感想を持っているらしく、軽く肩をすくめるのだった。
「これは完全に憶測だが……書かれた時代を考慮すると、その本の著者はクラウン・フェンリアランではないかと考えている」
多くのものを手にし、ほぼ全てを失った農相国家初代ともなる稀代の魔王。
自ら犯した罪を前に、唐突に姿を消して以降、一切語られる事のない人物である。それが周囲によって隠されたものなのか、本当に姿を現す事がなかったのか。
歪められた歴史の期間と重なるだけに、どのようにも判断がついてしまう為、今でも真相らしいものは何一つ分かっていない。
「別紙にも書いてあるが、恐らく転生の類を行おうとしたものだと思われる。彼が犯した罪……あれらが後世にて捏造されたものでないのなら、気持ちは分からないでもないな」
多くの人々に望まれ祝福され、それ故に嫉妬と憎悪の炎に大切な人を焼き殺され、そして自ら全てを破壊して回らんとした。なにもかも区別なく。
だからこそ、
「だが、このようなものに手を出すとは……これほどまでに凋落したのか」
深い落胆と失意を伴った言葉は重く、鈍い響きを奏でる。
この件さえなければ、今でも敬意を示され、崇拝さえもされうる人物であるのだ。
これほど痛ましい事もそうはないだろう。
「荒ぶる魔王?」
感化か同調か。一言も発しないクレインに、断ち切る魔王がいぶかしむ。
改めて見れば、顔を上げた時とはまるで表情が違っていた。
心ここにあらず、驚愕とも恐怖ともつかない。
「大丈夫か?」
「……あ、ああ」
心配そうに近づく断ち切る魔王に、クレインがはっと意識を取り戻す。しかし顔色が良くなる様子はなかった。
「クレイン? どうしたんだ?」
エルナの不安げな顔がクレインの視界に入る。
僅かに言葉を詰まらせたクレインは、どこか観念したかのように、大きく息を吐き出した。
「断ち切る魔王、すまないがエルナを預かってもらえないか? もしも俺が間に合わないような一緒に水の都市へ向かって欲しい」
「はあ?!」
突然の申し出にエルナが素っ頓狂な声を上げる。当然だ。出会ったのはほんの数日前の、他国の魔王と行動を共にしてくれ、などと言われれば拳を振り上げていても不思議でない。
「説明する気はないという事か」
「……まだなにも言えない。だから今すぐに確かめに行く」
「死の島へか」
「ああ」
まるで覚悟を決めたかのような肯定。
それがどれほど意味を持つか。
いや、推し量れないほどの意味を持っている、と二人が察するには十分すぎた。
「とんだ剣の国旅行になった……」
「すまない」
「いいさ。その分、戻ってきたら文句も言うし、埋め合わせもしてもらうからな」
「……」
「クレイン?」
エルナの心がざわつく。
そこで返答すらないなど、まるで考えていなかったのだ。
なにより、鎮痛な面持ちのクレインが、不安を増長させるのである。
「もしかしたら……もしかしたら、俺は人ですらないのかもしれない」
散々化け物のように扱われたりもした。だが、そういうものではない。
本当に違うのかもしれない。もしかしたら、自分はただの……。人の形をしただけの……。
己を見失いそうになる。今まであった世界が色褪せていくようである。地面が、体が、崩れていくような錯覚に陥る。
必死に耐える意思を持たなければ、今にも全身が震えそうで。
だが、その手が握られた。
「お前がなんであれ、今更あたしは驚かないよ。クレイン・エンダー。それである事には変わらないんだ」
「エルナ……」
「文句も埋め合わせも取り下げるよ。だけど帰ってきたら話してくれ。これの事だけじゃない。お前の今までの事とか、もっとゆっくり聞かせて欲しい。あたしも、お前の知らないあたしの事を、もっとゆっくり話すからさ」
「ああ……ああ……必ず」
握るエルナの手に、もう片方の手を添える。今、どれほど救われたか。
クレインが俯きかけた顔を上げると、そこにはもうなにも不安などなかった。
消えてしまいそうな自分も世界も、そんな事象は全て幻として失せていた。
「それじゃあ行ってくる」
「ああ、また後でな」
エルナがクレインの胸に飛び込む。
別れを惜しむのではない。また会うのだと、約束を結ぶように力強く抱きしめた。
「飛んでいくのだろう。町の者に見られても厄介だ。考えて通っていけ」
「重ね重ねすまないな」
「俺はお前の伴侶ではない。謝礼は求めるからな?」
「お手柔らかに頼むよ」
口角を上げる断ち切る魔王に、クレインは苦笑をしつつ、その身に力を込める。
制御していても膨れ上がる魔力が、城内の近いところにいる者達に本能的な警戒を与える事などお構いなしに。本来の姿とされるその角を突き出し、翼を大きく広げる。
テラスから身を投げるように飛び立つと、城の敷地内を縫うように飛び、あっという間に姿は見えなくなるのであった。




