閑話 知らないところで
夜の帳も降りてどれほど経っただろうか。
漁港の都市ともなれば、朝は早く夜も早いと思われがち。事実、その一面はある。
だがそれが全てというわけではない。
実際に漁に出る人々の生活ですらも千差万別。
毎日、日も明けやらぬうちから海に行く者。北の海は大型の魔物も少なく、数日がかりの遠洋の漁に行く者。近場の養殖場へと行く者。
挙げていけば切りがないほどだ。
なによりここは都市として、ある程度の機能が揃っている。
学び舎はあるし、剣術や魔法を学ぶ場所も当然の話し。農業を営む者とて珍しい訳ではない。
つまるところ、こことて他の町や国と変わらず、夜であっても相応の活気があるのだ。
特に人通りの多いところは、街灯の明かりが周囲を照らし、行き交う人々の賑わいをより強調させる。
そんな他と変わらぬ様相の街路をとある女性が歩いていく。
人々に溶け込んで、いるはずもない様子であった。
その形相は世界の全てを恨んでいそうで、放つ気配は周囲に死を連想させるほど。
人懐っこい犬でさえ、避けて通りそうな空気を身にまとい、しかし肩を落として背を丸め、とぼとぼと歩いていた。
エルナ・フェッセル。南の大陸であれば、その名を知らない者などそうはいないほどに、知れ渡っている英雄、とされる人物。
そんな彼女が何故、このような状況なのか。
それは遡る事、数十分前。クレインと二人で取った夕食によって引き起こされた。
潮風の国二日目の夕食。隠れた名店、という訳ではないが評判がいいそこへと赴く二人。大衆食堂に近いところで、家庭的な味や雰囲気が人気の店だ。
シェフの日替わりきまぐれメニュー、と言えば聞こえはいいが、要するところ漁師のまかない飯を二人が注文をする。
やがて運ばれてきた料理は、魚介の宝石箱のようなものだった。
ぶつ切りの身がふんだんに乗った海鮮丼。赤身に貝やイカととても豪勢に見える上に、その量も惜しみのないものだ。
汁も魚介のもので、当たり前のようにあら汁である。大きな白身が入っているが、骨もついている。どうやらそうした下処理は、あまりされていないようだ。しかしカニや貝の類も入っていて、こちらも随分と豪華である。
そして野菜の和え物がついてくる。これは気持ちばかりの存在だ。
ボリューム満天。だが安い。おまけに一口食べれば美味いと叫びたくなる味。
文句などない料理に舌鼓を打つ二人。
特にエルナは米食にあまり慣れていない事もあり、新鮮であったのだろう。一口一口を、かみ締めるように味わっていた。
やがて器の底も近づいてくる中、クレインに戦慄が走る。
しかし沈黙した彼に気づかないエルナは、まだ残っている汁をすすっていく。
ようやくそちらの中身も少なくなり、なにかの貝だと思っていたものの姿が露になる。
先に気づいたクレインが、未来を予想し、回避するルートの模索さえも諦めた代物。
エルナと、エルナに衝撃を与えたカメノテとの邂逅が果たされたのだ。
「……美味しかっただろう? いい加減、機嫌を直さないか? ほら、あそこで串ものを売っているぞ。なにか買わないか?」
クレインからしても、なにが使われなにが作られるか知らずの料理。なんの非もない。
しかし可能性こそありえると思っていただけに、少なからず責任を感じて慰めているようだ。
「肉を与えとけばいいとか思ってないだろうな」
ジロリと睨みをきかせるエルナ。その瞳は潤んでいる。泣くほど嫌だったらしい。
しかしこうもずっと不貞腐れているわけにもいかず、エルナは大きな溜息を吐くと、宿のほうへと向きを変えた。
それでも不機嫌であるというオーラが漂うエルナ。その後をクレインがついて歩いていると、ふとその足が止まる。
エルナの気迫が薄れたのだ。喜ばしい事であるが、突然のそれにクレインはいぶかしむ。
「どうしたんだ?」
「……帰りたくない」
振り向きざまにポツリとエルナがそう零す。
世の男性ならば、意中の相手からこんな台詞を言われたらどうだろうか。
きっと舞い上がる気持ちを、逸る気持ちを抑えるのに必死になるだろう。
だが、クレインは底知れない感情、どちらかと言えば恐怖に近いものを感じた。
なにせエルナの表情は、先ほどよりだいぶマシになったものの、今も形相と呼ぶにふさわしい。
「……もう一回改めて聞くが、どうしたんだ?」
もはやその気持ちは凶報に身構えるようなもの。
一体、彼女の口からどのような言葉が発せられるというのか。
「……あの宿に戻るのが恥ずかしい」
エルナが顔を隠し深く息を吐く。呪詛さえ覚悟させた雰囲気とは、随分とかけ離れた言葉である。
意外とまとも、というより恐ろしい内容とは無縁のもの。一先ずは安心だとクレインが胸を撫で下ろす。
クレインとてエルナのその気持ちは分からなくもない。
なにせ昨晩、事に及んだわけであるのだ。勿論、自分達の荷物のタオルなどを敷いたり、できる限りの
対策をしたとは言え、そんなものは気持ちばかりの抵抗である。
ただでさえそうした目的の宿ではないのだ。
もっとも普通の宿で情事が絡む事などよくある話。向こうも対応は慣れているもの。
ただ少し多めのチップなりを置き、更には生暖かい眼差しで出迎えられる。そんなサービスを受けるだけだ。
クレインはなるほど、とうんうん頷くも、エルナの様子に好転は見られない。
「あの、さ。昨晩、アレだったじゃん?」
「分かってる分かってる。絶対バレてるだろうから、という話だろう?」
「……いや、朝さ。出る前に宿屋の奥さんがいたから、ちょっと汚してしまったから自分で洗う、と申し出てみたんだ」
「え?」
「そうしたら、別にこっちで処理するから大丈夫、て凄い面白そうというか……とにかく妙な微笑みで言われたんだ」
「……」
束の間の安心であった。
クレインは叩き落されるように、非常に精神的によろしくない話が降ってくる。
「なんで自分に追撃をかけたんだ」
「いやだって! その、あれを向こうに洗濯してもらうとか、めちゃくちゃ恥ずかしいだろ!」
「どうみてもその回避行動は恥の上塗りだけどもな……」
「うっ……じゃ、じゃあどうするのがよかったんだ!」
「少し高めに料金を払うとかが一般的だな。向こうは向こうで飽くまで仕事だ。確かに申し訳ない事をしているが、だからってこっちが手を出すのも邪魔になるだろ?」
あぁ……、と納得やら後悔やら。なんとも形容しがたい感情で、エルナが声を漏らした。
「まあ、なんにせよ……」
クレインが改めて、利用している宿屋のほうを向く。
ここからでは建物は見えないそれを、苦々しげに睨んだ。
「俺達二人は、帰ったら微笑ましく出迎えられるわけだ」
ただでさえ、そうした対応を取れるのが予想される。その上、エルナの言動を知った今、宿屋の人と会ったら、平静な態度を取り繕えるだろうか。間違いなく無理だ。
どうあっても変な顔をする自信さえ、とクレインは諦めの境地を垣間見る。
しかし避けては通る事などまかりならん。それは過酷な試練、あるいは使命へと続く道であるかのようだ。
エルナにいたっては、自分達では辿り着く事さえできず、その当時は姿すら目にしなかった魔物の王の城を彷彿としていた。
そして二人揃っての大きな溜息。
やがて、どちらともなくゆっくりと歩き出し、その場所へと向かっていくのだった。
その晩、二人がベッドの上で枕に顔を沈め、頭を抱えて身悶えたのは言うまでもない話である。




