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オパールの杯に乾杯を  作者: 一矢
三章 眠る者
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閑話 知らないところで

 夜の帳も降りてどれほど経っただろうか。


 漁港の都市ともなれば、朝は早く夜も早いと思われがち。事実、その一面はある。


 だがそれが全てというわけではない。


 実際に漁に出る人々の生活ですらも千差万別。


 毎日、日も明けやらぬうちから海に行く者。北の海は大型の魔物も少なく、数日がかりの遠洋の漁に行く者。近場の養殖場へと行く者。


 挙げていけば切りがないほどだ。


 なによりここは都市として、ある程度の機能が揃っている。


 学び舎はあるし、剣術や魔法を学ぶ場所も当然の話し。農業を営む者とて珍しい訳ではない。


 つまるところ、こことて他の町や国と変わらず、夜であっても相応の活気があるのだ。


 特に人通りの多いところは、街灯の明かりが周囲を照らし、行き交う人々の賑わいをより強調させる。


 そんな他と変わらぬ様相の街路をとある女性が歩いていく。


 人々に溶け込んで、いるはずもない様子であった。


 その形相は世界の全てを恨んでいそうで、放つ気配は周囲に死を連想させるほど。


 人懐っこい犬でさえ、避けて通りそうな空気を身にまとい、しかし肩を落として背を丸め、とぼとぼと歩いていた。


 エルナ・フェッセル。南の大陸であれば、その名を知らない者などそうはいないほどに、知れ渡っている英雄、とされる人物。


 そんな彼女が何故、このような状況なのか。


 それは遡る事、数十分前。クレインと二人で取った夕食によって引き起こされた。



 潮風の国二日目の夕食。隠れた名店、という訳ではないが評判がいいそこへと赴く二人。大衆食堂に近いところで、家庭的な味や雰囲気が人気の店だ。


 シェフの日替わりきまぐれメニュー、と言えば聞こえはいいが、要するところ漁師のまかない飯を二人が注文をする。


 やがて運ばれてきた料理は、魚介の宝石箱のようなものだった。


 ぶつ切りの身がふんだんに乗った海鮮丼。赤身に貝やイカととても豪勢に見える上に、その量も惜しみのないものだ。


 汁も魚介のもので、当たり前のようにあら汁である。大きな白身が入っているが、骨もついている。どうやらそうした下処理は、あまりされていないようだ。しかしカニや貝の類も入っていて、こちらも随分と豪華である。


 そして野菜の和え物がついてくる。これは気持ちばかりの存在だ。


 ボリューム満天。だが安い。おまけに一口食べれば美味いと叫びたくなる味。


 文句などない料理に舌鼓を打つ二人。


 特にエルナは米食にあまり慣れていない事もあり、新鮮であったのだろう。一口一口を、かみ締めるように味わっていた。


 やがて器の底も近づいてくる中、クレインに戦慄が走る。


 しかし沈黙した彼に気づかないエルナは、まだ残っている汁をすすっていく。


 ようやくそちらの中身も少なくなり、なにかの貝だと思っていたものの姿が露になる。


 先に気づいたクレインが、未来を予想し、回避するルートの模索さえも諦めた代物。


 エルナと、エルナに衝撃を与えたカメノテとの邂逅が果たされたのだ。


「……美味しかっただろう? いい加減、機嫌を直さないか? ほら、あそこで串ものを売っているぞ。なにか買わないか?」


 クレインからしても、なにが使われなにが作られるか知らずの料理。なんの非もない。


 しかし可能性こそありえると思っていただけに、少なからず責任を感じて慰めているようだ。


「肉を与えとけばいいとか思ってないだろうな」


 ジロリと睨みをきかせるエルナ。その瞳は潤んでいる。泣くほど嫌だったらしい。


 しかしこうもずっと不貞腐れているわけにもいかず、エルナは大きな溜息を吐くと、宿のほうへと向きを変えた。


 それでも不機嫌であるというオーラが漂うエルナ。その後をクレインがついて歩いていると、ふとその足が止まる。


 エルナの気迫が薄れたのだ。喜ばしい事であるが、突然のそれにクレインはいぶかしむ。


「どうしたんだ?」

「……帰りたくない」


 振り向きざまにポツリとエルナがそう零す。


 世の男性ならば、意中の相手からこんな台詞を言われたらどうだろうか。


 きっと舞い上がる気持ちを、逸る気持ちを抑えるのに必死になるだろう。


 だが、クレインは底知れない感情、どちらかと言えば恐怖に近いものを感じた。


 なにせエルナの表情は、先ほどよりだいぶマシになったものの、今も形相と呼ぶにふさわしい。


「……もう一回改めて聞くが、どうしたんだ?」


 もはやその気持ちは凶報に身構えるようなもの。


 一体、彼女の口からどのような言葉が発せられるというのか。


「……あの宿に戻るのが恥ずかしい」


 エルナが顔を隠し深く息を吐く。呪詛さえ覚悟させた雰囲気とは、随分とかけ離れた言葉である。


 意外とまとも、というより恐ろしい内容とは無縁のもの。一先ずは安心だとクレインが胸を撫で下ろす。


 クレインとてエルナのその気持ちは分からなくもない。


 なにせ昨晩、事に及んだわけであるのだ。勿論、自分達の荷物のタオルなどを敷いたり、できる限りの

対策をしたとは言え、そんなものは気持ちばかりの抵抗である。


 ただでさえそうした目的の宿ではないのだ。


 もっとも普通の宿で情事が絡む事などよくある話。向こうも対応は慣れているもの。


 ただ少し多めのチップなりを置き、更には生暖かい眼差しで出迎えられる。そんなサービスを受けるだけだ。


 クレインはなるほど、とうんうん頷くも、エルナの様子に好転は見られない。


「あの、さ。昨晩、アレだったじゃん?」

「分かってる分かってる。絶対バレてるだろうから、という話だろう?」

「……いや、朝さ。出る前に宿屋の奥さんがいたから、ちょっと汚してしまったから自分で洗う、と申し出てみたんだ」

「え?」

「そうしたら、別にこっちで処理するから大丈夫、て凄い面白そうというか……とにかく妙な微笑みで言われたんだ」

「……」


 束の間の安心であった。


 クレインは叩き落されるように、非常に精神的によろしくない話が降ってくる。


「なんで自分に追撃をかけたんだ」

「いやだって! その、あれを向こうに洗濯してもらうとか、めちゃくちゃ恥ずかしいだろ!」

「どうみてもその回避行動は恥の上塗りだけどもな……」

「うっ……じゃ、じゃあどうするのがよかったんだ!」

「少し高めに料金を払うとかが一般的だな。向こうは向こうで飽くまで仕事だ。確かに申し訳ない事をしているが、だからってこっちが手を出すのも邪魔になるだろ?」


 あぁ……、と納得やら後悔やら。なんとも形容しがたい感情で、エルナが声を漏らした。


「まあ、なんにせよ……」


 クレインが改めて、利用している宿屋のほうを向く。


 ここからでは建物は見えないそれを、苦々しげに睨んだ。


「俺達二人は、帰ったら微笑ましく出迎えられるわけだ」


 ただでさえ、そうした対応を取れるのが予想される。その上、エルナの言動を知った今、宿屋の人と会ったら、平静な態度を取り繕えるだろうか。間違いなく無理だ。


 どうあっても変な顔をする自信さえ、とクレインは諦めの境地を垣間見る。


 しかし避けては通る事などまかりならん。それは過酷な試練、あるいは使命へと続く道であるかのようだ。


 エルナにいたっては、自分達では辿り着く事さえできず、その当時は姿すら目にしなかった魔物の王の城を彷彿としていた。


 そして二人揃っての大きな溜息。


 やがて、どちらともなくゆっくりと歩き出し、その場所へと向かっていくのだった。



 その晩、二人がベッドの上で枕に顔を沈め、頭を抱えて身悶えたのは言うまでもない話である。

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