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オパールの杯に乾杯を  作者: 一矢
三章 眠る者
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八十二話 潮風の国

 青い世界が広がっている。


 それは果てしなく続くように思え。


 空と海との境界線が曖昧になる錯覚さえ覚えるほど。


 行き交う船の動きは緩慢で、まるで時間そのものがゆったりと流れているようだ。


 吹きつく風は磯の香りを持ち。


 くど過ぎないそれは心地よいものであった。


 潮風の国。大規模な港町が広がる、大陸北東にある国だ。


「すごいところだな……」


 ここだけで農商国家の城と町ぐらいの規模があるだろうか。南の大陸ではこれほどの港は存在しないし、北の大陸とてここだけのものである。


「かなり特殊な国だからな。陸地の領土はここだけだ」

「へえ、あたしのところの銅の国みたいなものか」

「とも違うんだ。元々ここは水の都市の範囲だったんだが、独立したというべきか、便宜上国を分けたというか……」

「なんでそんな言い辛そうなんだ?」

「一応国なんだが、水の都市に依存しているというか共同体と言うべきか……半分水の都市、みたいな国なんだ。特区、というには権限が大きすぎるし、かといって一つの国として機能しているかと問われると……まあ非常に説明し難いところだ」


 クレインだからこそ、ちゃんと説明ができないというのもある。


 だが、その特異で一般的な定義からすらもやや異なる潮風の国。これを説明するにあたり空で言う事などカインとて無理なのだ。


 それほどに複雑な環境である。


「けど本当にこんなところに来てよかったのか? いつだったか目的地の半分は西のほうとか言っていたよな」


 エルナが北の大陸の地理に疎いとはいえ、旅の道中いくらでも話をする機会がある。名前ぐらいしか知らなかった剣の国と水の都市だが、その大まかな位置は把握した。


 しかし、今いる場所は北東。全くの逆方向である。


 それが元々計画されていたものであるならばまだしも、二泊の滞在すら渋っている様子から、ここまで遠回りを考えていたようには見えない。


「簡単に依頼できなければ本腰入れて、人を探す事になるから今回のついででは無理だ。仮に依頼できたらあとで報告を貰えばいい。というわけで剣の国には長くても三日滞在で済ませると決めたんだ」

「……ありがとう」

「俺がそうしたかっただけだ。さて、宿屋の荷物を置いたら観光でもするか。潮風で腐食しやすいから武具は置いていくぞ」

「え……」


 目を大きく見開き、なにか恐ろしいもの見た様子のエルナ。


 そのまま微動だにしないエルナの顔の前でクレインが手を振ってみるも、反応が返ってくる事はなかった。


 ようやく意識を取り戻したのは既に宿へ到着してからの事である。


 それだけの時間があったものの、未だにエルナは青ざめた様子だ。


 ポツリポツリとエルナが語ると、ようやくクレインもその事態を飲み込み納得をした。


「確かに『外出する服』というのを見た覚えはなかったが、持ってすらいなかったとは……」


 なにもそれがショックというわけではなく、ここに来てそれらが必須となる状況に耐えがたいなにかを感じているようで、


「今までずっと鎧だったんだ。それこそもう何年も。一切装備を持たずに外に出るなんていつ以来だ……」


 わなわなと震えながらそう呟いた。


 父が有名な戦士であった事もあり、そうした期待も大きかったのだろう。


 年頃の少女としての時間などそう幾ばくもなかったのが想像できる。


「とりあえずマントがあるし、これを羽織っておけ。町で服でも買ってそれを着ればいいだろう」

「普通なんだけど鎧のお前がマント持っているっておかしいよな。それ、その鎧につけていたものじゃなかったか?」

「普段の鎧なら元々外してあるんだが、こう他国への外出用だとな」

「その鎧ってマント、ついていなかったっけ? とは思ったんだが一体いつ外した、というよりいつついていたんだ」

「城の外に出るまでかな」

「記憶に薄いわけだ……」


 ほんの一時しか見ていない事になる。


 むしろよく記憶に残っていたものだ、とエルナは自分を褒めさえした。


「一応防寒にもなるんだから、ちゃんとつけて置こうとか思わないのか?」

「いざ必要になったらでいい」


 さいですか、と呆れた様子のエルナが呟いた。


 大方、予想したとおりの返答である。


 しかしその表情は次第に暗くなり、再び青ざめた顔となって恐る恐るといった様子で口を開いた。


「いや、悪いが無理だ。あたしはそんなにこっちのお金を持っていないし」

「別にこっちで払うつもりだったが。というよりもそんなんでどう生活していたんだ? それなりに城にいたような話を聞いたが……」

「……」


 視線が泳ぐエルナ。


 半ばカイン達に捕まる勢いで城に滞在する事になり、生活に必要な金銭を心配をする必要もなく。


 別に指導者として自信があるわけではないが、せめてと経験の浅い兵士の訓練に付き合えば、給料という名の小遣いを握らされ。


 少なくともエルナにとって、堂々と公言できる内容ではなかった。


「聞いておいてなんだが、そんなに動揺しなくても大方は察している。というより普通にアニカから、金を無理やり渡されたぐらいあると思っているからな」

「さ、流石にそこまでは!」

「まだ序の口の予想だったんだが……なんにせよそこまで心配する事はない」


 特別に富があるわけではないが、そこは腐っても現魔王。


 よほど金銀宝石が散りばめられた衣服でもない限り、その懐に大打撃与えるなど叶わない。


 確かに港町ではあるものの、飽くまで漁業が盛んなだけで交易品の運搬の窓口ではないのだ。そうした高級品など稀なものである。


「特注でないとならないわけでもなし。そうそう高値にはならんだろ。それになにを着ても似合いそうだしな。いや、あまり露出の高い服とかは……物にもよるか」

「……それはどういう含みかな?」

「二年経ったがあまり変わらなかったな」

「宣戦布告と受け取った。全世界の持たざる者の女性に喧伝してやるからな」

「応戦の仕方が本気過ぎるし、そこまで言ってないだろ」



 どこまで続く石造りの地面に、様々な見た目の家が並ぶ道。


 大きな店や有名店。そうしたものこそないものの、都会らしさを感じさせる華々しい町並みだ。


 この景観と豊富な魚料理を求めて、訪れる観光客も少なくないほどである。


 そんな通りを今、マントをローブのように身につけたエルナはキョロキョロと周囲を窺いながら歩く。


 勿論、景色に見とれているわけではない。


「そこまで落ち着かないか」

「完全丸腰で外に出るなんて何年もしてないし……」

「とは言え剣を振ってはいるんだ。体は鍛えられているんだしそこまで挙動不審になる事もないだろう」

「いや、北の大陸の平均まで分からないし、か弱いとは言う気はないが女だからな、あたし」

「確かに種族差はあるがそんな優秀な種族は、ゴロツキやチンピラをやる事などそうはないからなぁ。まあいざとなったらなにがあろうと守ってやる」

「むっ……」


 少しばかし言葉を詰まらせたエルナが大きく深呼吸をした。


「山岳都市での仕返しか。ただでさえ不安なのに、真顔でそんな事を言われたら……」


 ぐっと胸の前で拳を握るエルナがそう喘ぐ。


 僅かに頬が紅潮している様子で、その心には随分と効いているようだ。


 だがそれも束の間、唐突にその顔から表情が薄れていく。


「……なにがあろうと?」

「ああ、当然だろう」

「例えば軍隊が襲ってきたら」

「薙ぎ払う」

「カインさん」

「殴り倒す」

「他の魔王様」

「魔力の剣」

(やばい、これ本気の回答だ)


 表情が変わる事なく上げられる言葉に戦慄さえも覚える。


 しかも最後はかなりリアルな返答であるのだ。


 エルナも見た南の大陸の魔王、魔物の王との戦い。手加減をした上で直線状にあった建物を崩壊させ、あまつさえその先の山さえも穿った。恐ろしい一撃を放つ力である。


 魔王が相手となれば出し惜しみなどできはしない。それを考えたら、この発言に冗談は含まれていないのだろう。


「それはともかく……別に他意はなかったんだが、惚れ直してもらえたのならなによりだ」

「うーん、その分肝も冷えたんだけども」

「その分!?」

「自覚なしか……流石ナチュラルに二人やってるだけはある」

「今凄い罵倒された気がするんだが、とりあえずその話は一旦終わりだ」

「別に続けたいわけじゃない。で、どうかしたか?」

「エルナの服を買うと言っただったろうに。ほら、店に着いたぞ」


 周囲の建物と比べてやや大きい店。パステル調だがカラフルであり、服飾関係の飾りがされていた。目を引く上に一目でなにを扱っているのかが分かる。


 上品さや高級感はないものの、非常に好感が持てる店だ。


 そんな様相の店の中へと、堂々とした様子のクレインが入っていく。物怖じ、というものがないのか、そうした感覚がないのか。


 どう見ても男物を取り揃えている印象はないところへだ。もはや尊敬すべき領域といってもいい。


 一方のエルナはといえば、今までこういった雰囲気の店を利用する機会も極僅か。入店にはどうしても躊躇が生まれる。が、先陣が切られている今、いつまでうだうだと店の前で逡巡しているわけにもいかない。


 意を決して入ってみると、あまりに可愛らしい内装、というわけでもなかった。無論それらしい装飾もあるが、それ以上に落ち着いた印象を持つ店内である。


 心に余裕が生まれてくればやはりそこは女性というべきか。あれやこれやと騒ぎながらも買い物を楽しみだすエルナ。


 そんなこんなで時間は過ぎ、ようやく外に出てきた頃には日は随分と傾き、周囲を赤く染め始めている。日中に比べて気温もだいぶ下がってきているようだ。


 エルナは少し固めの生地のパンツに襟のついたパリっとしたシャツ。その上にジャケットという姿をしている。手には元々着ていた物とは別に、僅かに膨らみのある袋を持っていた。


「あれだけ悩んでいたんだ。もう少し買っても構わなかったんだぞ?」

「……旅をしている途中なんだ。あまり使わない物を買い込んでも仕方がないだろ」


 エルナにとってはただの口実だが、確かに移動中であれば装備を身につけないわけにもいかない。


 だが馬車であるからこそ、服の一着や二着増えたところでさして影響はないのだ。


 あまり上手くはない理由であったが、クレインは苦笑をしながらそれ以上は言わずに胸に仕舞う。


 そんなクレインの様子にも気づかず、エルナが改めて自分の着ている物を確認し始めた。


「こんなラフな格好をしたのも本当に久しぶりだ……」

「丸腰で出るのが久しいのなら、改めて言う事でもないと思うが。それにしても随分とボーイッシュな格好というか」

「う、うるさいな」

「いや、似合っているぞ。文句などつけようがないほどにな。ただもう少しそれらしい格好でもよかったんじゃないか? ロングスカートとか似合うと……」

「無理無理無理! 馬鹿じゃないか! 恥ずかしくて着れるわけないだろ!」

「本人の感性だし他人が口を挟むもんじゃないが、そこまで言わなくても」


 顔を真っ赤にして否定するエルナを宥めるように言うクレイン。


 勇ましくあれ。勇者という枷ともう一つ、ある意味で同質の枷。


 普段、それほど際立つ事のないそれが如実に現れる、珍しい光景であった。


「アニカあたりならば、お嬢様風の服を着て『流石は私。このような装いもばっちり決まるな』とか言って、決め顔をするだろうに」

「クレインの中のアニカさん、そんななんだ……」

「努力家と自信家が融合しているからな。だが、きちんと反省し向き合える実直さもある。あれで昔というか初めて会った時は、俺を下すつもりで手合わせを願われたんだぞ」

「えぇっ。そんな事があったのか」

「まあ色々とな。……初めて会ったと言えば、エルナだって自分の意思ではないにしても、あの時はドレス姿だったよな?」


 ふと思い出したクレインの問いに、エルナが今度こそ茹ダコのように真っ赤になった。


 それこそ顔や耳に限らず、見える肌全てがそうなったと錯覚させる勢いである。


 きっと夕日の所為ではないのだろう。


「い、い、言うなぁ!!」

「絶叫!?」

「あれは無理やりだ! 不可抗力だ! 忘れろ! 今すぐ忘れろ!」

「全力の拒絶!? いや、さる高貴な血筋の令嬢、と言われても信じてしまいそうに美しかったのに、そこまで否定するのか?」

「うつ、ぐ! ううう!」


 あまりの好評に、内心で喜びとそれでも尚否定したい気持ちがない交ぜとなり、エルナが苦悶の表情で呻きだす。


 やがて気持ちの整理もついてきたのか、眉間に深い皺を刻みつつ、嬉しそうでだが恥ずかしそうに呟いた。


「口にはするな……だけど、その、そう言うんなら覚えていてくれ」

「ああ、言われなくてもそのつもりだ」

「むうう。随分と余裕をかましやがって」

「そりゃあ昨日の今日の話じゃないからな」


 新たに悔しさも加わったのか、エルナが複雑な表情を浮かべる。それでも最後はやはり嬉しさのが勝るのか、僅かに口角が上がるのが見てとれた。


 なんとも可愛らしいものか。


 それを見つめるクレインの頬も自然と緩む。


 だからこそ、ある事だけは伝えなかった。


 美しいと言ったあの時のエルナについて。


 俯きがちでしっかりと顔を見た者は殆どいない。だが終始そうであったわけではなかった。


 僅かに顔を上げ、会場にいた全ての人に向けた憎悪。


 その形相の凄まじさたるや。クレインは見てしまっていたのだ。


(こればかりは絶対に墓まで持っていこう)


 今も尚、僅かに顔を綻ばせるエルナを幸せそうに見つめる中、一人その決意を胸に刻むのであった。



「あ~美味しかったぁ~」


 ボフン、とエルナがベッドにダイブをする。もはや見慣れた光景だ。


 赤く染まる町を巡り、宿に戻る頃にはすっかりあたりも暗く夕食を済ませてきたのだ。


 よほどエルナの好みだったのだろう。その味を反芻しているようで、うっとりと夢心地な様子であった。


「はぁ……。白身魚にトマトソース。あんなに合うもんなんだなぁ」

「南の大陸でもパスタでペスカトーレというものがあっただろう。そこまで珍しがるものか?」

「あれは飽くまで魚介類だろ。魚の切り身単体っていうのは見た事がないなぁ」


 エルナが更に蕩けた顔でベッドで大の字になり始め、クレインは武具の手入れに取り掛かった。


 しばらくはベッドの上で、その様子を眺めていたエルナが不意に口を開く。


「そんな細かく手入れしなくても、そうは錆びたりしないだろ」

「飽くまで城の備品だからな。怠っているとカインにちくちく言われるんだ。単に性分というのもあるが」


 スムーズな作業が続く。普段からやり慣れている証拠であり、エルナも幾度と見てきた光景だ。


 やがて手入れも終わり、だんだんと夜が更けていく中、二人は寝支度を整える。


「さて、そろそろ寝るかな。おやすみエルナ」

「うん、おやすみクレイン」


 そう言って横になるクレインの耳に、ゴソゴソという物音が届く。と、いうよりもそれ以上に、自分のベッドが小さく揺れ、かけていた毛布が動いた。


「エルナ、さん?」

「どうかしたか?」

「どうもにこうも……なんでこっちのベッドに入ってきた」

「……駄目、だったか?」

「いや、駄目というか……そういう媚びた感じ、できたのね」


 エルナの声音に内心ドギマギしながらも、クレインは皮肉そうに言った。


「別にいいだろ。今やお互い好きあってるし、それも分かっている。魔王だけど別に血筋とかの『そういう』立場じゃない。遠慮とかする必要もないだろ」

「それはそうだがそういう問題じゃない」

「ほー?」

「俺だって男だ。間違いがないわけじゃないんだぞ」

「はは、間違いってなんだよ。あたし達にそんなものないだろ」

「ぐっ……勝手にしろ、知らないからな」

「大丈夫、仮に間違いだったとしても受け止めるさ」

「そんな包容力はいらんっ」


 しばらくは暗い部屋で話し声が続くもやがて途切れていく。


 そして。


 一向に寝息が聞こえてくる様子はなく、小さな物音と漏れる声が続くのだった。

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