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オパールの杯に乾杯を  作者: 一矢
三章 眠る者
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八十一話 物見

 手を伸ばせば届いてしまいそうな空。


 なだらかに続く高原。


 地面に陰を走らせる雲。


 広がる大地は豊かな水源によって緑と青を湛えた景色となっていた。


 山岳都市において最たる観光スポット。


 この広大な湿地地帯にクレインとエルナの二人はいる。


「すっごいなぁ……こんな湿原、初めて見たぞ」

「だろうな。北の大陸でも最大級の場所だ。お陰で人気も高い。まあ場所が場所だけに来られる人は限られてしまうが」


 北の大陸の東。その果てとまでは言わないものの、暮らしている場所によっては随分と遠方である。


 おまけにその更に東は険しい山々。どこからでも行けるというわけでもない。


 それ故に人気はあるものの、訪れる夢叶わず日々枕を濡らす人々も少なからずいる有様だ。中々罪深い観光地である。


「風は気持ち良いし景色も綺麗。人気があるのも納得だな」


 木材で組まれた遊歩道や脇に備えられた休憩スペース。


 その傍にはちょっとした展望スペースもあり、道は飛び石のように備え付けられた足場である。そこをエルナが軽やかな足取りで、跳ねるように進んでいった。


「今までこういうのは無縁だったし、思うところがなかったわけでもないが……初デートでこれじゃあ、逆に釣り合いが取れていないな」

「……」


 少し照れながらも、嬉しそうに笑うエルナにクレインが静かに目を丸くする。


 そんな様子を見たエルナは僅かに眉をしかめると、軽い溜息を一つ吐き出した。


「……自覚、なかったのか」


 問いただすのでもなく、漏らすように呟いた言葉に、クレインが小さな呻き声を上げて視線を逸らした。


 果たしてエルナの思考がどこまでクレインの思考に追いついているのか。


 しかし新たな疑惑がエルナの中に芽生えると、泳ぐ視線を真っ直ぐと見据えた。


「まさか付き合っている自覚すらも……?」


 お互いの胸中を打ち明けてから一晩。


 あれだけの言葉を交わして、まさか交際していないなどとあるだろうか。


 それこそ互いの気持ちは向き合っているのに、だ。


 しかしクレインは目をそらしたままで否定をする様子はない。


 再度、考え直したエルナはある結論の可能性を見出した。


「……照れくさいとか照れ隠しとか。そんな感じで意識しないようにしている、か?」

「なんなんだ!? いつから心をが読めるようになったんだ!」

「ぶはっはは! あーーはっはっはっ!」

「笑うなぁ!」


 見れば顔が紅潮しているクレインに、エルナが噴き出した勢いで大きな笑い声を響かせる。


 余程ツボに入ったのかしばしの間それは途切れる事もなく、クレインは耳まで真っ赤にし、震えながら耐えるのだった。


 やがて一頻り笑い終えたのか、エルナは目元を拭いながら大きく肩で息をする。


 呼吸も落ち着いてくると、とびっきりの笑顔を振りまいてクレインのほうに戻ってきた。


「はー面白かったぁ。可愛いところもあるんだな」


 悪戯っぽい表情にクレインが顔をしかめた。


「くそ……連れてこれなければよかった……」

「まあまあそう言わないでよ。昨晩の事にしても凄い嬉しかったんだから」

「それがこの仕打ちか……」

「あーうん、それは少しだけ反省する」

「少しだけ……」


 申し訳なさそうな様子のないエルナに、クレインは顔を歪めて呻く。


 その少しさえ怪しいものだ。


 今後も間違いなく同様の事がある、と不信を抱くクレイン。


 そんな思いなど露知らず。言葉を区切ったエルナは、少しだけ深く息を吐くと改めてクレインを見つめる。


 そこには先ほどまでの冗談さなどなかった。


「自分で言うのもなんだけども、これも信頼の証だと思ってくれ。こんな風に甘えられるのは……クレインだけだ」

「……。あ、名前」


 初めて名で呼ばれた事に気づくと、エルナは少し照れくさそうにはにかんで笑う。


「いつまでもあたしがお前呼び、というわけにもいかないからな」

「……はーーー」


 それはそれは大きな溜息を吐いて、クレインが手で顔を隠しながら俯いた。まさかの反応である。


 そんな予想外の光景を前に、エルナが顔を強張らせて恐る恐る口を開いた。


「な、なにかまずかったか?」

「いや。ただ昨晩から俺の感情はエルナに振り回されっぱなしだ、と思っただけだ」


 僅かに手を降ろし、晒した顔は耳まで真っ赤になっていた。


 それはクレインの回答が悪感によるものではない。むしろ好感であるのだ、と告げている。


 エルナにしてみればほっと胸を撫で下ろすところだが、人騒がせな態度をするなと文句も言いたいところ。


 しかし、クレインの様子からどのように感じ取ってもらえたかを思うと、なんともこそばゆくも嬉しい気持ちになるのも事実。


「前の時は散々あたしが振り回されたからな。このぐらいは我慢してもらわないと」


 それでも尚、敢えて言うのがエルナであった。


 クレインからして見れば耳の痛い話であり痛烈な言葉だろう。これも一つの意趣返しである。


「手厳しいなぁ。だがまあ……当時のエルナの心情を改めて思えば、これは嬉しい仕返しと言えるか」

「できればその当時に改めてほしかったんだけどな。それとそこまで言ってくれるなら、ガンガン攻めてやろうか」


 再度悪戯っぽい笑みを浮かべる。


「確かに嬉しいんだが、なんというか無防備な時にやられると、致命傷を受けるような感じでなぁ」

「例えが悪すぎる」

「俺にそういう耐性がないというのもあるし、もう少し手心を加えてほしいものだ」

「うん? 魔王だろ? それなりに周囲に持てはやされたりはしないのか?」

「……ないな。そもそも王家の類でないから、うちの国は魔王というポジションそのものにカリスマ性とかそういう類もないし」


 ある意味で力こそ全ての農商国家の魔王。


 先代魔王のゴートは熊や岩山のような男。


 そして現魔王のクレインはこのとおり。


 もしかしたら単に今が暗黒時代という可能性もあるが。


「……あたしとしては喜ばしい事だが、なんていうか夢がないな」

「エルナも知っているのだろうが、襲撃したら魔王になっていたわけだからな……自分で言うのもなんだが頭がおかしいだろ」

「その認識はあったんだ」

「先代魔王もアレだったが俺が魔王就任って話を聞いて、国そのもののほうがやばい、と思ったぐらいだからな」


 懐かしくも酷く困惑した記憶である。


 死闘の経て、ようやく目を覚ましたクレインにカインから告げられた言葉。そしてその衝撃。


 きっと死んでも忘れる事はあるまい、とクレインに確信させるには十分すぎた。


「それよりエルナこそなんなんだ。今までこういう事に無縁だと言っておきながら、平然とし過ぎだろう」

「別に恥ずかしいとかがないわけじゃないぞ」

「の割には酷く攻勢な気がするんだが……」

「一歩前に進んだ以上、足踏みをしている理由はないし勿体ない。であれば少しでもクレインと共有する時間を豊かなものにしたい。ただそれだけだ」


 そう語るエルナはどんな表情をしているのか。


 再び耳まで赤くしたクレインの様子から、想像するのはそう難しいものではないのだろう。



「そういえばなんだかんだで二泊なんだな」


 湿原観光を終えて出発、とはいかずに近くを観光し城下町に帰ってきた二人。


 今は泊まっている宿屋に帰ってきて、人心地ついたところである。


 お互いの想いを告げたとはいえ、環境が劇的に変わるものでもなく。今は思い思いに余暇を過ごしていた。


「あそこに行ってから出発となるとだいぶ時間が過ぎるからな。というか普通に面倒だ」

「ふーん?」


 クレインの返答にエルナがにやにやと楽しげな様子である。


 またなにを言われるのか、とクレインが身構えると、それを待っていたかのようにエルナが話し始めた。


「いやーさっき、宿屋の人と話したんだけども、今ってあんまりお客いないんだってねー」

「普段からそこまで客はいないはずだが」

「えっ。あれ? 待って、あの高原は観光地だってさっき言ってただろ」


 帰りの道中であの湿原について詳しい話を聞いていたエルナが首を傾げる。


「来られる人も限られているし、その枠にいるのは飛べるか懐が暖かいのが殆どだとも言ったはずだ。この辺りの宿屋が全部埋まる事なんてない上に、ここは立地からしても人気がない。まあ落ち着いて利用できるからこっちとしてはありがたいが」

「あー……なるほど」


 つまりはこの時期は客がいない、ではなく単純に店として予約などがないという意味だったようだ。


 納得しているエルナだが、はたと本題を思い出して終わりかけた話に待ったをする。


「別にそこが焦点じゃない! 店の人言っていたぞー。昨日、宿を取った時点で一泊延長できるか聞いたらしいなぁ」


 笑みを取り戻したエルナ。


 そう、なんだかんだと言っても、クレインはあの湿地の観光を視野に入れていたようなのだ。それも宿を取った時に確認しているとなれば、それは昨晩よりも前の話である。


「俺一人ならいざ知れず、そう見に来れるもんでもないからな。まあなんだ、この旅もだいぶ駆け足だから、それらしい観光地を寄らないのもどうか、と思ってはいたんだ」

「ああ、そう……もうちょっとムードのある考えかと思ってたのに」

「なんかすまんな」

「くそぅ……クレインの慌てふためく様とか見れると思ったのに」

(水の都市までに慣れておかないと地獄だ……)


 悔しがるエルナとは反面、クレインが心底ぞっとした顔をする。


 ただでさえこうして同伴しているだけでも、あちらこちらで色々と言われているのだ。とてもではないが、現状の醜態を晒すなどあってはならない。


 特に深緑の魔王など、未来永劫弄り続けられるに決まっている。と、クレインに危機感を持たせるほどであった。


「あ、そういえばその本はなんか大切なものなのか?」


 ふとエルナの目にクレインの荷物が映った。


 どうやら荷物の整理をしているらしく、いくつかの所持品を机の上に出して仕舞い直していた。


 その中にある一冊の本。別に本ぐらい不思議ものではない。


 問題はその取り扱いにあった。


 ここまでの道中でチラリと見かける事がしばしばあったものの、開いているところを一度として見ていないのだ。果たして使いもせず、旅で持ち歩く本とは一体なんなのか。


「なにが書かれているんだ?」

「厳密には本ではなくてメモ帳みたいなものだな。中身は件の私用に関わるものだ」


 そう言いながら開いて見せたページには、二つの絵が描かれている。


 お互いに矢印が向き合う大人と子供。輪の上下に地表と地底。そして両方の絵にはいくつもの文章が書かれているが、エルナには一切読む事ができず、なにを意味する絵なのかすら判断ができなかった。


「なんだこれ……」

「俺の出自に関わるものだ」

「……」


 エルナが心底哀れむような顔をする。


「頭をぶつけたとか、変な思考に目覚めたとかじゃないからな」

「いや、こんな絵が関わってくるぐらいなら、いっそ木の股から生まれたほうがマシだっただろうに」

「む……」


 どんな失礼な事を思われているか、と牽制したクレインであったが、思いがけずまっとうな感想に言葉を詰まらせる。


「い、いやあれだ。今一歩で頂点に立てなかった親が、我が子に自分の夢を託すみたいな。その存在の在り方というか求められているものというか……」

「どちらにしてもこんな絵が関わっている時点で禄でもないと思うんだが。そもそもなにを表したいのかも分からないし」

「……違いない」


 どう言い繕ってもやばいものはやばい。


 その結論から脱する気配のなさにクレインが頭をがっくりと垂れ下げる。


「それで? これをどうするんだ?」

「文字が古いもので読めないから解読してもらうつもりだ。剣の国は文武両道。そこがダメなら水の都市が残りの希望だな」


 他の国では手に負えない、と言わんばかりである。しかしそれも当然の話だ。こうした古い時代のものを調べる事に国として力を入れているのはおよそこの二国のみ。


 他の国々ではこれらの文字が使われていた時代、その当時の記録が残っているのかさえ定かではないのだ。


 他の当てとなると、個人で研究などをしている者ぐらいになるが、当然クレインにはそんな伝手もなく。


 結局のところ剣の国か水の都市を頼る他ないのだ。


「リアルに自分探しだな……て、殆ど空白のページだな」

「ああ、これは飽くまで写したものでな。空白なのは鳥の絵だからだ。やたらとそういうのが多いが、特に研究している様子でもないし絵描きだったんだろうな。丸々一冊鳥の絵とかあったぐらいだ」

「どれだけ絵があったのかは知らないが、その口ぶりだと結構なものだったんだな」


 一体いくつの鳥の絵を見たのやら。死の島にある本に描かれた鳥。あれにクレインでも読める字で名前が記されていたら、今頃そこそこには詳しくなっていただろう。


「話を戻すと、糸口でもいいから解読してほしい、というわけだ」

「別にやってもらえるわけじゃないんだな」

「剣の国とは交流自体がないから、一般人のフリして頼み込まなきゃならないのが面倒なものだ」

「あ、『他国の魔王だー』って押し入って頼むんじゃないんだ」

「そういうのはやった事ないからな……?」


 大概な想像をされたクレインが半眼で否定をする。


 しかしエルナは納得するどころか眉をひそめ


「樹海の国の料理屋はどうした」


 その前例を出すのだった。


「押し入ってもいないし、世間話の流れでバレただけだ」

「バラしたの間違いでは」

「とにかくそういう事情なんだ」


 これ以上続けたところで、一体なにを言われるか分からん、とばかりにクレインが話を打ち切る。


 エルナは少し不満そうにして見せるも、それほどの間も置かず、どこか申し訳なさそうな顔をした。


「こんな大事な用事があるのにわざわざ時間を割いてくれたのか。ありがとうな」

「一日ずれたところでそう変わるものでもないし、エルナに楽しんでもらえるのならこの程度お安い御用さ」


 気取る様子もなく、事も無げにクレインがそう言った。


 一切の飾り気のない本心なのだろう。


 昨晩がなくても、こうして気遣われている事にエルナはつい顔を緩めてしまう。


 今の自分をかつてクレインと旅をした自分に見せたらどう思うだろうか。


 考えるまでもない。間違いなく卒倒する。


 そんな考えや過去に思いを巡らせていると、直近のある出来事を思い出した。


「そういえば町で湿原の感想、というかアンケートみたいなのをしていたな」

「いきなり話が飛んだな……まあ他所の人を取り込む為にも、改善は必要だしやっていても不思議ではないか」

「ただ、それをしていたのがここの魔王様だったんだ」

「……うん?」

「山の魔王様、すっごい笑顔だったぞ……」


 肉眼であれば湿原での様子など、存在を悟らせずに知る事などできない。


 そう肉眼であれば。


 しかし道具や魔法を使えばその限りではなくなる。


 果たしてどこまで見られていたのか。


 クレインの顔から引いた血の気が戻るのは、これより数時間もあとの事だった。

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