七十四話 疑い
絶望する事など慣れたものである。無論、程度の差はあるが『多少の絶望』ならば挫けるよりも再起に向けて、即座に身体の芯に力を込めて立ち上がる事ができると断言できる。
例えば明日世界が滅ぶ。例えば親しい者愛しい者、皆を失う。そうしたあまりにも大き過ぎる内容でもない限り、心砕かれ失意に膝を折る事などそうそうにない。
親をも失った暴力という恐怖に怯えながら生きなくてはならなかった十数年。常識が通用しない者と歩んだ数十年。これまでの人生の大半を占める苦行と変わらぬ時間は、己を強く逞しく鍛え上げる結果となった。
それが今、崩れ去ろうとしている。
これが夢ならばどれほどいいか。しかしどうあっても覆せない光景が目の前にあった。
「魔王様。正直に言いまして教養もなければ学もなく、それを補おうという心持もありもしない。おまけに後先を考えないで行動するし、周りへの配慮、道徳や倫理も足りてない。というよりも欠落していて、本当に人としてどうなのか、と思っています」
「おう、不敬罪待ったなしの内容だが最後まで聞こうか」
「それでも私は魔王様を、貴方の事を尊敬し敬愛し敬っております」
「んんーー? そうだったかぁ?」
「それはそんな貴方の中の、数少ない善性の一つであると私は思っていました……なのに、何故ですか! エルナさんを! 女性を泣かせるようなマネを貴方が! 決して揺るがぬ、侵される事のない貴方の中数少ない信念、その砦ではないのですか!」
「え? あ、待て! これは違う! 俺が原因では……!」
ようやくなにに対して咎められているのかに気づく。
転移魔法の準備が終わったカインが二人の元に戻って見たものとは。目を赤く腫らしたエルナであったわけで。
今も鼻をすする彼女を見ればそれはもう、原因は真横の黒ずくめの男に他ならない、と判断されても致し方なし。
「罪人は皆そういうものです! かくなる上は次の協議では貴方を葬り去るために各国の協力を……!」
「冤罪だ!」
「カインさん。本当に違うんです」
カインが聞いた事のないか細く弱々しいエルナの声。
途端にカインの激情は止まり、心配そうにエルナに駆け寄った。
「ほ、本当ですか? 脅されていませんよね? 正直に話して頂いていいんですよ?」
「そろそろ俺が泣くぞ?」
信頼とはなんなりや。そうクレインが自問するも明瞭な答えは響かず。
唯一胸中で反響したのは「日頃の行いか?」という己の声であり。
おかしい。そんな類似する行いはないはず。ないよな……? 確かにない。これだけは確信をもって言える。
などと思考を巡らしているクレインに無慈悲な言葉が投げかけられる。
「魔王様への断罪はあとにしまして、準備も済みましたし城に戻りましょう」
「疑いは晴れただろ?!」
「余罪がないとは言えません」
「え? 本気で言っているのなら俺も本気で落ち込むんだけど」
演技でもなんでもなく、本当に悲しげな様子のクレイン。しかし、カインは冷静に、エルナにただ一つを確認した。
「南の大陸ではどうでしたか?」
「……ちゃんとした理由はあったがよく泣くのを堪えていた」
「ま、待てカイン、あの時の事を挙げるのは理不尽、ぎゃっ」
無言のまま棍棒で背中を殴られ、小さな悲鳴を上げてよろけるクレイン。
カインはその尻を足蹴にして前へと押しやると、エルナに対しては恭しく、エスコートするように前進を促した。
三人が馬車の周りに集まると、長々とした詠唱がカインの口より漏れ出す。小さいながらもはっきりとした声で、一定の調子を崩す事無く紡ぐそれは一種の経典の朗読にも聞こえる。
やがて周囲を渦巻くような風が包み、完全に詠唱が途切れると共に目も眩む光が地面が噴出した。
エルナは瞬時に目を瞑り腕で顔を覆うも、激しい光に目を焼かれたかのように頭の中が真っ白になる。だがそこに苦痛はなく、思考を塗りつぶすような光もすぐに感じられなくなった。
もしかしたら感覚が麻痺して知覚できないだけかもしれない。
そう恐る恐る目を開けてみれば広がる緑に灰色の城壁や城。見渡せば派手すぎない色彩豊かな町並みが見える。
「す、すごい……」
どう見ても農商国家の王城の傍である。
転移魔法など初めてのエルナ。
空を見れば晴れてこそいるが無数の雲がまばらに浮かんでいる。先ほどまでは快晴であったはずだ。これが一瞬の移動による観測地点の変化が理由か、はたまた時間経過によるものなのか。間違いなく前者であるのだが、にわかに信じられない様子だ。
「とりあえずは城に戻りましょう。魔王様には今日明日みっちりと仕事をして頂きます」
「あれ……? 一日だけじゃ……?」
「持ち出した物資も戻さないといけませんし、さあ馬車に乗って向かいますよ」
「カイン殿! ご無事ですか!?」
城に着くや否や飛び出してきたのは留守を任されていたアニカ・ゲフォルゲであった。
その顔は正に蒼白といった様子で、彼女にしては珍しく明らかに動揺をしている。
それもそのはず、出立してからそれほど日数が経っていないのだ。普通に考えれば大きなトラブルが発生して帰らざるを得なかった、と判断するだろう。
そんな血相を変えたアニカを宥めながら、カインは簡単な説明をし始める。
「道中で偶然魔王様と遭遇したのです。タイミングがずれていたら逃していたと思うと、本当に運がいいものですね」
「……」
思いがけない結果だっただけにほくほくとした顔のカインである。
だがそれとは対照的にアニカはどこか悲しげな様子で見つめていた。無論、新しい染みができた棍棒をカインが携えているから、とかそんな事ではない。
「私が言うのもなんですが、何故カイン殿はその運勢が自身の幸せに繋がらないのでしょうか」
そう幼い頃から先代の時代の下に生き、親を失いその跡を継いで今に至る。そして次代は先代よりもまともで、先代を遥かに凌ぐ異常者。
そんな星の下に生まれて尚与えられた多大なる幸運。確かにクレインの捕獲は重要な場面であったと言える。だが、その後も継続して恩恵が得られない、という限定的な好結果に過ぎないのだ。釣り合いという言葉がどこかへ行ってしまっているとしか思えない。
ようやくその真理に思考が追いついたカインは乾いた笑みを浮かべた。
「今更そんなもの……小さな事ですよ」
「その達観は痛ましすぎます」
自分よりも若い彼が、自分よりも遥かに重責のある立場で生き続ける。そのなんたるかを垣間見る。
そんな不憫しかないカインから目を逸らし、後方の二人へと視線を移した。
少しばかりであるが久しぶりに見る変わらぬ主君のクレイン・エンダー。そして目を赤くし、少しばかし鼻をすすっている。
「エルナ!」
ばっ、とアニカが駆け寄り、二人から数歩離れた位置で足を止める。
そして顔を苦しそうに歪ませて、ほんの一呼吸ほどの間だろうか。苦渋の末、アニカの手は腰に下げている剣の鞘を触れ、クレインを睨みつけた。
「クレイン様、ご説明を」
「お前もか!」
どちらかと、などと言うまでもなくクレイン側のアニカでさえこれである。
もしかして自分は誰からも信用も信頼もされていない?
そんな疑惑がクレインの頭の中でもたげている。
「アニカさん、違うんです。これはあたしの問題でして……」
「そう、なのか? 深く詮索する気はないが、それが原因でクレイン様に頼ってきたのだろう? なのにこれでは意味が……まさか子供?!」
「曲解し過ぎじゃありませんかねぇ!?」
あらぬ方向に飛んで行く誤解に、クレインも数段階ほど声量をあげて抗議した。
流石に日頃の行いがあるとは言えこの手に関しては無縁である。そろそろ理不尽だと叫ぶ権利も得られよう。
「ああ、良かった……我が主が外道に成り果てていた、と恐怖したが杞憂でしたか」
「うん、そう、良かったね。その主君を本気で疑った事になんの罪悪感がないようで俺も嬉しいよ……」
「でもエルナ、なにかあったのならちゃんと話すんだよ? 恐れる事などなにもないのだからね?」
「ここまでデジャヴ」
もう悲しみもない。クレインはカインとは別の乾いた笑いを浮かべた。
そこへ当のカインが近づき、クレインの両手をなにやらごそごそと弄繰り回す。そしてガシャン、と金属音が鳴った。
顔を伏せていたクレインも、エルナとアニカも目を丸くしてそれを覗き込む。
両手それぞれに金属の輪が取り付けられていて、二つの輪は鎖で繋がれている。まごうことなき手錠である。しかもなにやら彫られたり描かれたりされた特注品。どう見ても魔法的処置が施された一品である。考えるまでもなく解錠及び破壊を困難なものにしているのだろう。
「カイン君、ここまで本気でやらなくても、今から逃げたりはしないと思うんだけどなぁ」
「ええ、私もそう思います。ですがこれで私の決意は伝わりましたよね?」
「わあい、ぼくおしごとがんばるー」
下手に障らぬが吉、とクレインは大人しく連行されていくのであった。
その背中は一体どう見えただろうか。しょっ引かれる罪人だろうか。
少なくともエルナとアニカには出荷される家畜に見える。
そんな事を思っていると牧場主、ではなく側近のカインが振り向いた。
「そうだ。アニカさん、本日はもうお休みでいいですよ。この人が倍働きます」
「え、ちょ……あ、はい。頑張ります……」
一方には慈悲のある、もう一方には無慈悲の宣言がなされた。
「あ、ありがとうございます」
「それでは我々は失礼します。エルナさんは今までどおり、あちらの部屋を利用してください」
アニカ自身もその渦中であったが、ようやく嵐がその場を過ぎ去ると交代するように数名の兵士がやってくる。馬車と物資の片付けを命じられたのだろうか、残されたそれらを移動させていく。
ガラガラと音を立てて去っていくと、いよいよそこに残ったのはエルナとアニカの二人だけになった。
「……さあて暇になっちゃったなぁ。どうするエルナ? 訓練場にでも行くかい?」
「いやぁ……今日はちょっと身が入らなさそうなので遠慮しておきます」
「じゃあ町のほうに行かないか? 折角だしなにか買い物ついでに食事とかどう?」
「はい、それでしたらお供します」
アニカの提案にエルナは快諾すると、こちらも連れ立ってその場をあとにするのだった。
しかしエルナは僅かに表情を曇らせる。
去来するのは胸の痛みと焦燥。
この旅の目的は果たした。なら次は? これからは? まさか全てを忘れて呆けるのか?
そんな自分の声が頭の中で木霊する。
「それで、どんな用事だったのですか?」
荒ぶる魔王クレイン・エンダーの執務室兼自室にて。
しかめっ面でえっちらおっちらと書類を片付けるクレインに、素早い一定のペースで書類を片付けるカインが訊ねる。
「島に残っている資料から自分の事を調べようとしていた。が、昔の文字で解読できなくてな。これ、読めるか?」
取り出した手帳をカインに投げつけた。
予想していたのかクレインの発言については驚く様子もなく、仕事の手を止めて中身をパラパラと確認し始める。
「……魔王様が私の事を万能、みたく感じているのでしょうが、仕事を除けば魔法が天才的程度の人物ですからね?」
「自分を持ち上げているのか下げているのか分からん言い回しだな」
「その手の道に進んでいたら、名前を残すまでではなくても、相応の功績を生み出していたと自負していますので」
ただでさえ忙しい身なのに、馬車という人を遥かに凌ぐ大型のものを転移させる技量を持っているのだ。行える術者はそれなりの数はいるものの、その殆どは魔法一筋で生きてきた者達である。片手間というほどではないが、魔法の修練に費やせる時間を考えれば才能なくして到達できるものではない。
一方でそれ以外はどれほどの才覚を発揮しているのかと言えば。
「こんな文字分かるわけがないでしょう」
と、現状の課題に対して一蹴するのであった。
「私もあまり詳しくありませんが、この国ができた頃とかに使われていた文字だと思います。今でもこの字が記されている書物を探したとして果たして見つかるかどうか、というぐらいに見かけないものです」
「国の歴史について書かれていた本の原本は?」
「その当時に書かれたもので残っているのは割と最近のものばかりですよ。飽くまでその歴史を記すのが目的であって、特定の著者の直筆や文字を残す為のものではありませんからね。それになにより……」
手帳から上げた顔は陰鬱とした表情で、とても言い難そうに口を開く。
「色々と情報が欠けている時代にも使われていた文字だったはずです」
「隠された時代のか……」
以前、エルナも疑った不自然さ。
彼女の推測どおり、古い歴史を少しでも学んだ者は皆抱いている。
歴史に空白がある事。史料に多くの穴がある事。
「案外、その原因が死の島の主だったりしてな」
「……」
「思い当たる節でもあるのか?」
「いえ……まずはこれがいつ頃に書かれたものかの特定が先、でしょうか」
「プランとしてはこのあとの旅行で剣の国まで行く。あそこはまだまだなにが眠ってるか分からないからな。もしかしたら解読できる者もいるかもしれん」
「水の都市では駄目なのでしょうか?」
カインにとっては思わぬ内容に目を丸くする。
確かに剣の国については深い交流もないままだ。故に期待するのも分かる。だが水の都市が集積してきた情報とて膨大なものである。
それを差し置いて剣の国の名が上がるのは意外もいいところであった。
「以前、死の島について調べに行った時に見て回った結果だな。相当古い本まで調べたがこの文字は見なかった。だから協議のついで程度であまり期待はしていない」
「いつの間に調べものをしに他国へ……」
今更それを咎めても仕方がないものの、さてはまた無断で、とカインが睨みつける。
しかし、特に負い目もない様子で、クレインは書類を睨めたまま微かに唸り声を上げて記憶を掘り出す。
「確か私用で出かけるって行った時だったかなぁ」
「必ず食材を持って帰ってくるのでてっきりそれかと思ってました……」
「お前、人をなんだと思っているんだ」
「十割食料を抱えて帰ってくる人が言いますか?」
手ぶらで帰って来る事はあっただろうか? いいやなかった。
この三十年近くそのような事は断じてなかった。
ちょっとした周辺地域の見回りだったり、領土内の移動のみであってもなにかしらを手にして帰ってきていた。
今更疑う余地もなし。
「……他国の施設利用にも事前報告を下さい。国外の者が利用できない場所に押しかけでもしたら、苦情を受けるんですからね」
そうした利用者を制限する場所は少なからずある。当然だ。国にとって重要な場合もあるのだから。
そこに他国の魔王が来たらどうだろうか。現場は判断に困るし、下手を打てば国際問題。どれほど寿命が縮む思いをするだろうか。
今のところその手の話がカインの耳に入っていないから、そんな不幸は起こっていないようだが。
「……とにかく、なにか分かりましたら私にも報告を下さい。もしかしたら気軽に扱える情報ではないのかもしれませんし」
「気持ちは分かるが、隠された歴史に関係しているとお前は思っているんだな」
「勿論、まだ因果関係などどこにもありませんが、死の島で生きていられたというのは、それぐらい大それたものです。いっそ関係があったほうが腑に落ちると言いますか」
「なるほどな。だが最悪は俺が墓まで持っていけばいいものを、敢えて関わるつもりなのか?」
「例え先人が意図して覆ったものだとしても、いつかは向き合わなければならない時も来るでしょう。その機会を新たに闇に葬るわけにはいきません」
「真面目だなぁお前は」
「二人も特大の反面教師がいましたので」
カインが苦笑いをする。本当に辛酸を舐めさせられたものである。
だがそれだけではなかった。苦しかったばかりではなかったのだ。
それらがあったからこそ今の自分がここにいる。それを彼は誇りにさえ思っているのだ。
「自分で言うのもなんだが、仮に関係なかったとしてもくそ重たいものだ。悪いな、お前にまで背負わせて」
「それが嫌ならとっくにここには居ませんよ」
再度苦笑をする。
今の農商国家の側近という立場なら、なにもカインでなければ成り立たないという事はない。
それでも尚居続けたいと、傍にありたいと願った。
主君がこの方であるから。この方が築き直した国だから。
彼なりの幸福がそこにあるから。
離れる事などできなかった。




