七十話 里帰り
北の大陸より南西。絶海に囲まれて浮かぶ島がある。
ある人は怪物の住処とし、ある人は万物が狂った異界の地とし、理由は様々だが一様にして立ち入れば生きては帰れぬ場所、死の島であると言う。
こうしたものは往々にして噂話である、ものだがことこの島に関しては大体の話には実績があるもので。つまりは実話であるのだった。
太古の姿を色濃く残す凶暴な生物の数々。渦巻くように流れる激しい魔力。そうした異常な自然環境と生命達の食物連鎖が殆どの島。
かつては調査の名目で近づく者もいたのだが、云百年ほどはこの島に訪れる者はおろか島そのものを目にした者さえ一人といないのだ。
元から生活をしていた者を除けば、であるが。
そして今日、長きに渡り来訪者のなかった島に一人の人物が訪れる。数十年前に出て行った出身者、クレイン・エンダーであった。
大きな黒い翼を羽ばたかせ、島を眼下に眺めながら上空を大きく、そしてゆっくりと旋回している。
かつてはどれほど恋焦がれただろうか。望郷の念にかられたか。
今では逃げ出したかった当時の辛く苦しい日々の記憶も薄れつつあり、忠実に思い起こして気持ちを再燃させるのは難しいもの。
しかしこうして島の上空に着き、胸を込み上げる感情に心のどこかには残っていたのだな、とクレインは安心した。
「それにしても……意外と小さい島だったんだな」
暮らしていた頃は南部に生活の拠点を置いており、また今ほど達者に飛べもせず。
その為、北部に行くには島の中央にそびえる山の何処かしらを越えなければならず、少なくない準備が必要でそう簡単に行き来できるものではなかった。結果、北側は半分も探索できないまま今に至る。
無論、山から北の果てを見てはいたもののその海岸に着く事もなく、実はどこまでも大地が伸びているのでは、と思ったりもしたものである。
今となっては遥か上空を飛ぶのも当たり前になり、様々な世界を見てきて戻ってみると、記憶に比べてかなり小さく感じてしまう。純粋に自身が成長したのもあるのだが、それを差し引いても島そのものが縮小したのではないかとさえ疑う。
「懐かしいものだ」
苦々しい思い出も多い故郷。一番古い記憶など一喜一憂なんてバランスの良い日々ではなかった。一つ喜べば五つ憂うようなもの。あまりにも思いどおりにいかない毎日の連続だった。
だが時が経てばそれも減り、次第に喜びが上回り遂に出会う事ができたのだ。
「クレア……」
そびえる山の一角に建つ家の前へと降り立つ。
今も変わらずそこにある。あってくれた。
だが家主はどうなのだろうか?
謎の多い女性だ。クレインにとってみればお姉さん、といった雰囲気だが果たしてそうだろうか。あの時、クレインの目に映り感じたものがそのとおりだとは到底思えない。
彼女は今でも生きているのだろうか? 自分を無理にでも送り出したのはもしかしたら……。そんな不安がクレインを襲う。その背中に、
「おや? もしかして坊や……? 随分と久しぶりだねぇ!」
変わらぬ声と口調にクレインは瞼が裂けて目玉が飛び出すのでは、というほどに見開いた目を後方に向けるのだった。
「あんな泣きじゃくってた子が今じゃ魔王様ねぇ」
「待て、その当時はまだ出会ってなかっただろ」
「んー? 我慢はしていたようだけど、この島を出て行きなさいって言ってからは、随分と心の中でわんわん泣いてたんじゃないのー?」
非常に愉快げに語るクレアに、クレインは頭を抱えて机に突っ伏した。まさかそんな事までお見通しだったとは。いや、年齢と言動を考えれば想像するまでもないのだが、隠せていると思っていただけにダメージが大きい。
おまけに先ほどの表情でも冷やかされ、どんな思いであったかを話せば女々しいと一蹴される始末。クレアと遭遇してからここまでの間、痛い思いしかしていなかった。
「……まあ、正直に言って自分でも驚いているさ。流石にもう慣れたが」
これ以上は不毛な傷も負いたくなくクレインは話を現代に戻す。多少冷やかされようが、まだこの話題のほうがいいようだ。
「そうかい? あたしは……いや、うん。魔王様姿の坊やを見たいとは思ったけども、叶うとは流石に思っていなかったわね」
まさか討ったら魔王になるとか。そう苦笑しながらクレアが零す。こと常軌を逸する世界で暮らす彼女から見ても、逸脱した魔王就任の方法なのだ。
「でもまあ、元気そうでなによりだよ」
「ここまでの話を聞いて本当にそう思うのか……?」
今でこそ心身ともに健康だが、北の大陸に渡ってしばらくは荒れに荒れたものである。その辺りも正確に伝えたのだ。数え切れない命を奪った事さえも。
それもこれも、どうしようもなくなったら、というクレアの言葉はあったものの、それこそが枷となり帰って来れなかったのが数ある理由の一つであった。
「でも、だからこそ今の坊やがいる。多分それがなかったら全く別の人物になっていたんじゃないかな? 坊やは今の自分が嫌いかい?」
「好きも嫌いも、不可抗力を含めて見舞われた過去が、そして己の選択が今の自分を築いている。どうであろうとなんであろうと、貴女と暮らした日々も、辛かった日々も、今の生活も否定する気はない」
「これも一種のストイックなのかねぇ。まあ、自分が嫌いというよりは随分ましか」
「……」
「どうしたんだい? やっぱり嫌いな点が見つかった?」
「いや、ちょっと南の大陸で思うところがな」
「え? このタイミングで南?」
ふとその枷で思い出す。
自分はまだ他にも理由があったのだからその場に留まった。だが起因するところの多くが、一つの枷から生じていたであろう彼女は今どうしているのだろうか。
あれから二年。そろそろ南の大陸でも争いが起こり始めてもいい時期である。
どんな立場でどう行動しなにを思うのか。できれば、健やかな日々であってほしいがきっとそれも難しく、だからこそ彼女に移住を提案したのだ。
しかし結果は振られて終わった。せめてもう少しの気の利いた言葉が言えたならば、また違った未来になっていたのだろうか。
人生の良し悪しなど当人の受け取り次第であるのはクレインとて重々承知している。だがそれでも容易に予想される行き先よりも、もう少しはまともな道へ導けたのではないのか。
そう後悔しない日のほうが少なかった。
「……ほー? もしやもしや、件の旅で気になる人でもできたのかなー?」
なにを悟ったのかクレアがニヤニヤと楽しげな笑みを浮かべ始める。
姉の様な立場でもあった彼女にしても随分と気になる内容だ。
「そんな反応されると複雑なんだがな……」
「ふふーん、恥ずかしいんだ? へーー」
「微塵もないわけではないが……むしろ初恋の相手に全く気にされてなかったというのがな」
「……恥ずかしげもなくよくそういう台詞が言えたもんだ。あーー、あの可愛らしい坊やに戻って欲しいっ」
「さっきその当時の想いをぐっちゃぐちゃにかき乱してくれた人がそういう事を言うか?!」
別れに秘めた思いを晒されたのだ。今更幼少時に抱いた淡い恋心、その相手であったクレアに語る事など躊躇するまでもない。
その後も一頻りこれまでの経過を含めた話に花を咲かせると、クレアは改まった様子で口を開いた。
「それで? わざわざここ数十年の出来事を語りに来たんじゃないんでしょう?」
「半分くらいはそれが目的なんだが。征服派そのものの消滅もそう遠くないだろうし、もう魔王としてやる事があまりないしな」
「いやー? 本来は山積しているようにしか聞こえない経歴だったと思うんだけどなー?」
「俺が政治をやってどうするんだよ……。俺の手が届く範疇で、すべき事がないって言っているんだ」
「……部下の人、本当に可哀相だわ」
かなり真面目な声音でクレアが同情をする。
一体彼女の中で、クレインが魔王としてどのように振る舞い、周囲がどのようにして接していたと解釈しているのか。明確には分からないものの、恐らくきっと現実に近いイメージをいていそうだ。
「……それなりに頑張って、俺でも思ってもいない高みに辿り着いた。大した事をしてきたつもりはないが、これは誇ってもいいもののはずだ。そんな場所まで来た。色んな世界を見てきた。今度は、クレアの番だろ?」
「……」
「話す、と約束したよな」
クレインが自らを自覚してからは一度として途切れる事のなかった疑問。
自分は誰なのか。なんなのか。
それらを知っているであろうクレア。
クレインが辛くても島に帰ってこれなかったもっとも大きな理由。それを知りたかったからこそ、なにも成せずに諦める事ができなかったのだ。
真っ直ぐな視線に射止められるクレアは大きな溜息を一つ吐くと、その瞳に向き直る。
「……坊や」
「……」
固唾を呑むクレインの前でクレアは悲しげな表情を見せた。
「説明を求められていつかは、とは答えたけども、帰ってきたら話すだなんて約束はしていなかったと思うんだけど?」
流れた歳月は同じでもクレインは幼少。悲しいかな、成長を加味した時間の流れは記憶を湾曲させていた。出来事から湾曲まで非常に短くも思えるが。
逆にクレアは正確に覚えている。むしろ忘れるわけがなかった。
クレインと過ごした日々。その仔細を忘れるはずもない。
会話の前後すら覚えているクレアの言葉に、クレインはその場で崩れ落ちて膝を突くのだった。
「んー……まだ話す時じゃないかなぁ。大丈夫大丈夫、寿命がどうのとか心配する要素はないし、とりあえず帰郷を満喫しなさいな」
恥ずかしさといたらなさで落ち込むクレインは、励まされるように尻を叩かれ再び島の空を飛んでいた。
「帰郷と言ってもなぁ」
他の用事らしい用事と言えば、クレインが過ごした岩屋にある書物を調べるぐらいなもの。しかしそれとて何十年も放置したのだ。果たして今でも満足に読める常態か否か。
そんな事を考えながらも、かつてできなかった島の空の遊覧飛行をしているところである。
時には高く、時には滑空しつつ低地を切り裂くように抜けて飛び回っていく。稀に空を飛ぶ怪獣に襲われるもヒラリとかわしたり、拳を振り下ろして叩き落したり。
何度かそんな事をしてから上昇していく時、あるものが目に付いた。
「なんだあれ……線、か?」
今いる高さから見下ろすと木々の合間から、大地に線の様なものが見えるのだ。
獣道だったり大型の生き物が通るが故の跡なのかもしれないが、正に描かれているように見える。
どうせ時間もあるのだ、と高度を維持しながらクレインはそれを辿っていく。
途切れたり、完全に見失ったり。すると今度は別の線を見かけたり。
長く暮らしていた島に思わぬ発見をしたからか、童心に帰ったクレインは延々と探索を続け、やがて日が沈んでいった。飛ぶだけならこんなに時間は掛からなかったのだろうが、それを地図にし始めたが為に、こんな時間までかけて尚、完成はしていない。
辺りを照らす主な光が太陽に置いてけぼりにされた夕焼けという中、現状の地図を手にクレインは酷く嫌なものを見たような顔をしている。
途切れたり見つけられなかった線を補正してみたらそうだろうか。それは所謂魔法陣と呼ばれるものであった。
おまけに中心地と思しき地点は、クレインにとって忘れようがない思い出がある。岩屋から少し離れたところ、木々はあるものの比較的開けている場所。
「俺が……目覚めたところか」
あまりにも大掛かりな魔法陣。その中心の自分。未だなにを意味をするかは分からないものの、己の存在がヘタに触れる事すら許されないものであるのを自覚する。
「……思った以上に重たそうだな」
かつて抱えた事もない重圧がひたりひたりと近づいてくる気がした。
だがそれでもクレインは歩みを止める事はできない。自らがなんなのか、それを知らずにはいられない。
むしろ知らなければならないのだろう、とさえ思う。
恐らく全ては一本の線で繋がっている。自分の事、クレアの事……そして魔法陣にせよ岩屋を作った者、クレアがかつて言った彼女の主の事。
「俺になにをさせようって言うだろうな」
夕焼けにさえも置いていかれ、頼りない淡い明るさの空と迫る夜の空。それも間もなく夜に染め上げられ、星星が瞬きだすだろう。
クレインは僅かに残った明かりの中、足早にかつての家、大よその始まりへと向かうのだった。




