六十四話 未知
北の大陸。
そこは魔族と魔物が暮らす世界である。
いくつもの国があり、その長を魔王と呼ぶ。
かつては討つべき魔王がいると考えて渡った海であった。
憎悪と怒りを滾らせ、渡るのもそしてその先の使命も命をかける覚悟でもってだ。
そんなエルナも今は懐かしい人物の元へ行く為にここにいる。
色々と精神的に負担をかけてくれてどうもありがとう、と拳で挨拶をしたくなる思い出の数々。
だがそれと同時に、楽しくなかったなどとは口が裂けても言えない日々。
魔王クレイン・エンダーとはそんな時間を共有してきたのだ。
再会が楽しみで浮かれたり、ついつい頬を緩んでしまうのも無理からぬ話。
ほんの少し前の自分の立場を、置いてきたものを思えば心苦しくなろうとも。
むしろだからこそであり、その上での選択なのだ。
しかしようやくにして無事に陸地へ辿り着いたエルナの顔は曇りきっている。
それもそのはず。
前回の時はさ迷い続けて見つけたのだ。
無論、北の大陸を出る時はその場所から港まで行った。行ったがとても周囲を気にする心のゆとりなどありもせず。
早い話はこうである。
北の大陸到着の時点で、『何処か』に着かなければ迷子であり、そんな都合のいい事は起こらず上陸そうそう迷子となったのだ。
「……」
眉間に山脈を築くエルナ。
頬に一筋の汗が伝う。
ただの迷子である事にここまでうろたえているのではない。
「……ここは……『何処の』領土なんだ」
北の大陸では南の大陸、人間達に対して共存派と征服派がいるのだという。
もしもここが征服派であるならば自分の身の安全など程遠い位置にあるわけだ。
とは言え彼らからしてみれば、この北の大陸に人間がいるなどとは思いもしない事だろう。そもそも人間である事を疑われるのかすら疑問である。
しかしだからといって征服派の国の中心に向かって進んでいようものならば……。
早い段階で町を見つけなければ、取り返しのつかない事になりかねない。
「……前の時は誰にも見つからずに近づかなくては、なんてやっていたのになんて様なんだ」
半ば捨て鉢の前回は今よりももっと過酷なものであった。
そして実際にそれをやり遂げはしたのだ。門番のところまでは。
ならばより楽になった、苦難が減った今ならば、とも思うがその時ほどの覚悟がないのもまた事実。
「……なんでこんなに日和っているんだろう」
少し前までは他国の誰かを切り伏せる日々であったはず。
それに比べればいくらでもやりようがあるのだが。
(そうか……もう今のあたしは誰かに剣を向けるのが、そして切り殺すのが怖いんだな)
もしも敵となる人物が現れたのならば、当然生き残るためにも剣を抜かねばならない。
だが果たして相手を切る事ができるだろうか。
この北の大陸で軽くあしらわれたあの時。力不足に不調という状況。
今ならばあの戦いで負けはしないだろう。
だが相手が複数ならば? また死に物狂いで戦わなくてはいけないのならば?
「止そう……考えるだけド壺だ。今はとにかく前を向くしかない」
例え恐れや不安があろうとも。既に一度は通った道なのだ。
できない事ではない。
そう己を鼓舞するとエルナは荷物をまとめて海岸を離れていった。
そう真にできない事などそうはないのだ。
ただ物であったり時間であったり。そうした制約が課され、不可能となる場合が多々あるという話である。
かくしてエルナはどうであるかと言えば。
「集落の一つと見当たらない……」
既に三日歩いてこれである。前回の時は街道なりなんなり、それこそ遠くに居住地を見たのは二日目の昼ぐらいだろうか。
運が悪いにもほどがある。
(これ、どっちに向かえばいいんだ……? せめて道ぐらい見つからないか普通)
まだ食料に余裕があるとはいえ焦りが生じる。
今の南の大陸も同じようなものだが、北の大陸ではそこらに魔物が闊歩しているような事はない。
とすると、必然的にいざという時は野生動物を獲ったりするしかないわけだが、生憎エルナには弓がなければ狩猟経験もないのだ。
彼女も南の大陸で旅をしていた時、それなりにサバイバルな経験もしていたにも関わらずその分野は体験しなかった。
それもそのはず、根本が違うのだ。
魔物の王によって魔物化した動物達は積極的に人間に襲い掛かる。つまり現れた敵を倒すだけ、それも向こうからやってくるのだ。
「やばいぞ……こんなところで行き倒れるとか冗談じゃない」
屍を晒す事になるとしたら、それこそ周囲を通る者のいない場所。
誰にも見つけてもらえずひっそりと……想像しただけで哀れで気が狂いそうなものである。
もっとも逆に見つけられ、あのクレイン・エンダーにも知られようものなら、それはそれで気が狂うほどに恥ずかしい話だが。
そんな事を悶々と考えるエルナに向かって、揺れる影が近づいて来る。
気づいたエルナが目を丸くするも、すぐさま手を組んで神に祈りを捧げた。
まるで希望なき荒廃した世界に降り立つ救世主のように。
馬車がゆっくりとエルナの近くで止まるのだった。
「こんなところに人がいるなんて珍しい。どうかされたんですか?」
横に体格のいい男が声をかけてきた。
鎧など着ておらず、少し厚手の革製の武具を身にまとっている。
果たして満足に振れるのだろうかとは思うが、しっかりとした剣も持っているようだ。
馬車の中には無数の木箱が積まれており、その男の生業を簡単に想像させられる。
商人なのだろう。しかしエルナにとっては新鮮な姿だ。
これほど軽装で護衛もなし。魔物の王討伐後でさえ、盗賊達の襲撃という不安材料は残ったままで、相応の武装や人員を揃えるのは変わりがなかった。
「道に迷ってしまいまして……」
「それはまた随分と。この辺りに道などないのに……よほどの方向音痴ですかな」
カラカラと商人に笑われるとエルナは苦笑を返した。
本当の事を言いたい気持ちにもなるが、それが吉と出るか凶と出るかは分からないのだ。
なにより迷子であるのは違いない。
「あの……あなたは何故こんなところを?」
「商人をやっていまして首都に向かっているとこなんですが、ここは丁度ショートカットになるんですよ。街道どおりに行くと酷く遠回りなもので」
「商人の方でしたか……この辺りに町はないでしょうか?」
「近くにはありませんよ。ですが貴女は運がいい」
「はあ?」
「どうです。特に目的地がなければ同乗されていかれませんか?」
渡りに船とはこの事、と言いたいところだが困っているとは言え、流石に二つ返事で乗るわけにはいかない。
普通に怪しすぎる。乗ったが最後、奴隷として売り出されても不思議ではない。
北の大陸に来るとそんなばかりなのか?
そんな思いが表情に出たのか、商人の男が苦笑いをしてみせた。
「寂しい男の一人旅ですからね。同乗して頂けるだけでも役得というものですよ」
「……」
「しょ、食事もつけます」
「あ、いえそういうわけでは」
「まあ……怪しまれても不思議ではないですよね。ですが首都に向かっていますので、その点はご安心ください」
「どういう事ですか?」
「商売として人身売買などしようものなら、それはもう恐ろしい結末を迎える事でしょう」
少なくともそれが認められておらず厳重な監視体制がある、という事か。
しかし話を真偽などエルナには分かりはしない。
この手の情報を持ち合わせていない、と賭けての事なら完全な罠である。
(とは言え、あまり悠長な事も言ってられないしなぁ。見た限りじゃいざとなったら抵抗できるだろうし……)
話の限りでは目的地はあの国ではないようだ。
あの日、自分の身がオークションに出されたのを思い出す。
罠かもしれない上に目的が違う馬車。だが、行った先で情報を集めて進む事はできる。
しばらくうーん、と悩むとエルナは商人に深々と頭を下げるのだった。
やはり地理が分からないまま闇雲に歩くよりはいい。そういう判断のようだ。
「それにしても奴隷商、という事ですか? それを大々的に禁じられているんですね」
「うーん、最近とは言え結構有名な話なんですけどもね」
「お恥ずかしい話ですが、あまりにも田舎な育ちでして」
「でしょうなあ。あんなところで迷子、聞いた事がありませんよ」
「く、返す言葉もない……」
この三日間、道の一つ見つけられなかったのだ。
反論の余地などありはしまい。
「まさかと思いますが、そもそもこの国の事もよくご存知でないとか……流石にそれはないですよね」
朗らかに笑う商人の後ろで引きつった笑顔になるエルナ。
肯定的な返事がなかった事で、商人はエルナのいる馬車の方を振り向く。その顔はまるで珍獣を見つけたかのように驚愕としていた。
「凄い……そんな人が実在するのか……」
一体どんな未開の地で暮らしていたのだろうか。
そんな言葉を視線が語りかけてくる。
(そもそもこっちの国の名前すら一つも分からないんだぞ……)
その視線から逃れるように、木箱に囲まれたエルナは身を縮こまらせて顔を背けた。
正直に言って本音をぶちまけ、色々と教えてほしいものである。
が、流石にそれはリスクが高すぎるのだ。
とてもではないが安全であるのを確信できなければ明かせはしまい。
「えーと……そうですねえ。最近ってほどでもないですが、先代の魔王様は圧政をしたり軍事に傾倒したりとまあ国が荒れ果てていたものでしたよ」
「……あ、危なくないのですか?」
「ええ、その当時は。ですがあれからだいぶ経っていますし、今の魔王様は農産業や商業にも力を入れていて、随分と豊かな国になったものですよ。我々商人としてもやりやすくて本当に魔王様、さまさまですよ」
聞く限りでは随分と平和そうで、征服派とも思えない様子に一先ず胸を撫で下ろす。
しかし随分な方向転換である。
新しい魔王になってどれほど時間が経っているのか定かではないが、並大抵の事ではないのは確かだ。反発があったりもしただろう。
(とは言えあの食道楽の魔王なら感極まる話なんだろうな)
なによりも食事を尊んでいそうなあの男。
多分、この国とは同盟を結んでいる。そうに違いない。
むしろそれを疑う余地がどこにある、と胸中で呟いた。
「まあ厳しい面もお持ちな方なんですけどね」
「と、言いますと?」
「少し侵略してきた他国を一夜で滅ぼした、という伝説がありまして」
「で、伝説?」
「色々と緘口令が敷かれているのか詳しい話は分かりませんがね。ただ一つの国を潰したのは間違いありません。その時の被害の規模がどれほどかも詳細は不明ですが」
「……実際は政略的に、という可能性もあるという事ですか」
「武力にせよ政治にせよ、恐ろしい事には変わりませんがね」
そう一つの国を消したのは事実なのだ。
それが地図上から消滅させるほどなのか、他国に吸収されるしかない程の傷を負わせたのか。はたまた策略によってその流れを作り出したのか。
手段はどうあれ、一つの国を消したという出来事は覆らない。
(本当か……? 本当に平和な国なのか?!)
大きな不安が渦を巻く。
聞く限りでは機嫌を損ねる事をしなければ火の粉が降りかかりはしないのだろう。
しかし自分の存在は北の大陸ではあまりに異質。
その魔王が自分を知った時、どんな感想を抱くというのか。エルナには想像もつかないものである。
(いやいや落ち着け。名乗らなければバレないだろ……多分)
あまり楽しい記憶ではないが、囚われた時の事を思い出す。
自分が人間である、と明言しない限り誰もそうとは思わないようで、伝えられて初めて驚く人々が大半であったのだ。
ならばきっとやりようはいくらでもあるのだ。
「そういえばなにを売りに行かれるのですか?」
半ば結論付けて、不安を押しやるように話題を変える。
積荷はしっかりとした木箱ばかりで、多少の揺れでは蓋が動く様子もなく、中を窺う事はできない。
だが大よその予想はついている。
仄かに香る甘い香りが馬車の中に充満しているのだ。
「うちの地方で取れるフルーツですよ。いやーそう見向きされるものでもないんですけどね、件の魔王様がご試食になって、流通させるべきだと色々と取り計らってくださったのですよ」
「フルーツを……」
「いやはや、有り難い話ですよ」
ふとエルナにとっての件の魔王の姿が思い浮かぶ。
(まさか、な)
南の大陸での旅では普通に買い物をして普通に旅人をしていた。素性や立場など持ってこれないのだから当然である。
が、あの調子を国を治める者としてやったりはしないだろう。
常識的……を持ち合わせているかは別として、流石にその一線は簡単に越えられるものではないはずだ。
「しかしそれなら個人ではなく、もっと集団で売買を行ったりしないのですか?」
「それなりに田舎ですからねぇ。私みたいな物好きでもなければ、近隣を周る商人以外そう足を運ばないものなのですよ。お陰で私が独占して売買できている状態なんですがね」
はっはっはっ、と大声で笑う商人。事実愉快でたまらないのだろう。
どれほどの値で取引されているのかは分からないものの、現状ではよほど美味い商売のようだ。
「もっともこのまま行けば、そのうち別の地域でも栽培するような事もあるでしょうし、この環境もそう長くは続かないんですけどね。なので一人で可能な限り情報を漏らさずやってるんですよ」
「ああ……少しでもライバル出現を遅らせる為に」
腐ってもそこは商売人。例え協力関係にある同業者でも腹の内では出し抜きたいもの、という話である。
一時の稼ぎを増やす為に、場合によってはアキレス腱ともなる場所を晒す必要があるかないか。
この男はそれを不要と判断し、一人でこのフルーツの売買を行うことに決めたのだ。
「そういう貴女はどうしてお一人なのですか? 特別聞いてはいませんでしたが、目的のない旅なのですかな?」
「ある人物に会いに来たんですが、正確な位置も分からないので探しながらの旅なんですよ。あまりにも個人的な知り合いなので、他の友人や知人を連れ出すのもあれなのでこうして一人なんです」
ぼかしこそあるが嘘ではない。
もっとも連れ立って旅をするような仲間は、今どこの国にいるのかすら把握していないのだが。
「なるほど……見つかるといいですね」
商人がしんみりとした声音で喋る。絶対に勘違いしている。
さも一大決心をして旅に出たかのような捉え方だ。
確かにどこにいるかも分からない人探しの旅は壮大そうに見える。
「あ、いえ、ある程度調べれば分かるかと思いますので気楽なものです」
なにせ相手は一国の王だ。この大陸の国と王を調べればどこにいるのかが分かる。
あとは目的地に向かうだけ。なんて簡単なのだろうか。
その第一ステップに辿り着かずに盛大に躓いたわけでもあるが。
(気楽……そうだな。気楽なものだ)
馬車の目的地までですらしばらくはかかるのだ。
一体何時になったらゴールするのやら。
明るいが先の見えない旅路にエルナは一度深く息を吐く。
しかしそこに嫌悪の雰囲気はなく、晴れ晴れとした表情を見せるのだった。




