六十一話 荒ぶる魔王
「状況はどうなっているんですか!」
「近隣を巡回していた兵士達も集まり迎撃に成功! ですが兵士、村人共に死傷者が出ている模様です!」
「……アニカは?」
「警戒態勢の強化の為、他の兵士達を連れて既に出立しております!」
「……そうか」
「ま、魔王様……? 落ち着いて下さい」
緊迫する中、妙に落ち着いた様子のクレインに、カインは危うげなものを感じ釘を刺す。
だが果たしてそれがどれほど効果があるというのだろうか。
疑問を問う必要もない。
カインが改めて見たクレインの姿は、角と翼を生やしているのだった。
「カイン、お前はここに残って指揮をとれ」
「なりません! 冷静でないのはご自身でもよく分かっているはずでしょう!」
「だとしても、俺がここにいたところでできる事はないだろ」
「……考えにくい事ですが、本当に侵略を目的にしているのであればここが狙われます! 最大戦力である魔王様がいなくなられては困ります!」
ありえない話である。
カインの言うとおり、それが目的ならばわざわざ遠方で攻撃など仕掛けず、一切の暇を与えず大将首、魔王の命を狙うべきなのだ。
特にこの、戦いでもってその座を決めた荒ぶる魔王に対しては。
だがそれでも、本当に僅かな塵ほどの可能性であったとしても、クレインを引き止められれば、という苦肉の考えからそれを口にしたのだ。
「仮に狙われたとして俺を倒すのは前提だ。農商国家の支配だろうと国家転覆だろうと……それこそどちらであれ、隙を突いて達成したところで、ゴートを殺して成り上がった俺による報復は……考慮しない理由はないな。だからこそ城を叩くつもりなら迅速に気取られる前に、俺を排除する必要があるわけだ」
「ま、魔王様……」
「後は任せるぞ」
言うが早いかクレインは翼を大きく広げる。
カインの制止の甲斐もなく、引き止めようと伸ばした手も宙を切り、その黒い姿は雨の中へと消えるのだった。
厚い雨雲に覆われた深淵の底。焚かれたかがり火が周囲を僅かに照らす。
あまりにもか細く頼りないそれは、しかし遠くから確かに見える煌煌と輝く光である。
その明かりに吸い寄せられるようにクレインが降り立つと、周囲はまるで葬儀のような空気が支配していた。
ある者は未だに信じられない様子で亡骸を抱き、ある者は早過ぎるその者の死に涙を流し、またある者は悪意によって引き起こされたそれにただただ憤怒の思いを募らせて。
クレインがそこに現れた事にすら気づかない様子であった。
「く、クレイン様?!」
だがその場に加わっていない一人、アニカ・ゲフォルゲが主君の姿を捉える。
「早いな。もういるのか」
有翼種でない彼女となると、その足は馬などに頼らざるを得ないのだ。
それが出遅れていたとはいえ、空を飛べるクレインよりも先に着いたとなると、馬を使い潰したのだろうか。
「何故、こちらに……」
「むしろ俺が城にいても仕方がないだろ。それで状況はどうだ?」
「襲撃してきたのは十数名。うち三名を撃破。ですが村の者が十名以上、兵士も七名亡くなっています」
「……大損害だな」
曲がりなりにもこちらは正規の兵士である。
無論、手傷を負わせているのだろうが、村人を除いたところで被害の大きさはこちらの方が上だ。
「私が着いた時には敵は撤退済みでした。だからこそ、幾つかの行動が完全に裏目に出てこの被害……いえ、この程度で済んで良かったとも言えますね」
「なにがあったんだ?」
「……襲撃者達は、こちらの増援が来た直後に撤退。そこを追撃に打って出て手痛い結果となったのです。誘いの罠に乗らなければ良かったのですが……」
「なるほどな。それにしてもよく増援が間に合ったな」
「消耗を気にせず、空に向けて魔法を放ったそうですよ。お陰で近くを巡回をしていた兵士達が気づいたようで」
元々不穏な話を聞いていた彼らも、この雨の中でこそ有事が起こり得ると身構えていたのだろう。
だからこそ、いち早く駆けつけられたのだ。
厳しい結果になってしまったが。
「相当浮き足立っていたでしょうし、同士討ちを避けて救援を求める機転。高く評価されるべきですし、これがなかったら今頃どうなっていたか。正直、肝が冷えますよ」
「そうだな。もしかしたらこれ以上の被害を被っていたかもしれない。その者達にはあとで考えてやらないとだな」
「……可能であるのでしたら彼らの家族へ」
「……そうか」
アニカの言葉にその顛末を悟る。
結果はどうあれこの場を守る為、尽力してくれた事には違いない。
だがその感謝ももう直接伝える事は叶わないようだ。
「しかし……この襲撃は一体どういう事だ?」
「私には皆目見当がつきません」
これが先代荒ぶる魔王時代であればまだしも、クレインが魔王となってからは露骨なデモンストレーションまで行ってきたのだ。
手を出せば一切許しはしない。そんな意図がありありと伝わるようなものを。
それでも尚、こうして害意をあらわにしてしてきたというのは、荒ぶる魔王を、国を挑発する行為に他ならない。
言ってしまえば簡単なものだが、それは無謀にもほどがある。
ならば一体どんな企みがあったのだろうか。
「相手の死体は?」
「なにか手がかりがあれば、と向こうに運び込んであります」
「その様子だと、なにもなかったかそこまで手がついていないかか」
「残念ながら後者です。今は周囲の警戒を厳重にしていましたので」
「俺もなにが分かるってもんじゃないが見せてくれ」
クレインの言葉にアニカはその場所へと案内する。
村の外れだが、東側に位置している場所。なにか相手にとって不都合な事があり、死体の回収を企もうにも、そう簡単には上手くいかないだろう。
かがり火に照らされる三つの死体は似たような金属の鎧を着用している。
全身までは覆われてはおらず、あまりしっかりとした作りにも見えないそれを着込む賊。鎧の他には皮で作った防具を身につけており、何箇所にも滲んだ血の跡が窺えた。
随分と激しい戦いをしていたのだろう。
「……」
「どうでしょうか?」
「向こうの、特に鉄の国にいる賊、としか言えないな」
「それはどこで判断されているのですか?」
「鎧だよ。連中がどうやっているかは知らないが、この鎧は奴らがよく身につけているものだ」
「……おかしくないですか? 何故、彼らが統一された防具を持っているんですか」
「……」
アニカの指摘にクレインの思考が止まる。
確かにそうだ。むしろ不自然だ。
ならば何故、それに気づかなかったのか。
なんて事はない。クレインにとって遭遇してから今まで、『そういうもの』という認識があったからだ。
つまりそれは……随分と以前から、全体を見れば統一性のある防具を身につけていた事になる。
「待て、確か……軍の装備が盗まれたり横流しされたり、て話をよく耳にしていた。多分、それなんだろう」
「今までに斬った賊のうち、この鎧であった者達は?」
「……七、八割ぐらいはいた」
「聞く限りではこれまで百や二百は斬っていますよね? それだけの数が盗まれたり、横流しされた上に、わざわざ彼らが身につける。明らかにおかしな話です」
アニカが視線を落とした先は、物言わぬ姿になった敵達。
彼らの身につけている鎧はそれほど高価そうにも見えず、かといって機能的に非常に優れているかと言えば、これよりも上等の物を探すのに苦労する、という事もない。
純粋に防具として見ると特別な価値はなさそうだ。
もしかしたら安価なのかもしれない。簡単に調達できるのかもしれない。
しかし示し合わせたかのように、これほど同じ物を使うものか。
「それで兵士のふりをして、軍や商人を襲ったりしていたのですか?」
「軍は聞いた事がないな。商人は……一部で被害があるとは聞いていたが、それでもゴート時代のここより出入りしていたし稀だったんだろう。あとは村や町を襲ったり……だが町々を巡回する兵士はいないから、兵士姿の集団の時点で不審なものだ」
そこまで言いかけてクレインが止まる。
かつて戦った彼らはどうであったか。
初めて自らの手を、人の血で染めあげたあの日。
荒くれ者らしく人々を襲っていた彼ら。その背後をクレインが襲ったあの時。
道が狭いとは言え、指揮されるでもなく一列に隊列を組んではいた。
他の者達も兵士のような統率こそないものの、ただの無法者の集まりとは違う様子で。
「そうか……そういえば鉄の国は中央も腐っているんだったか」
「それがどうしたんですか?」
「こいつ等は元は兵士だったんだろう。賄賂が足らなかったのかなんなのか……元々真っ当なものではないにしろ、そこからも落ちこぼれた。そういう手合いの成れの果てが彼らなんだろう」
真面目ですらないから他へ移される事もなく。
あるいはそれを不服としてか。
彼らにその素質があるにせよ、その地位にたらしめているのは他ならぬ鉄の国そのものであるのだ。
自らの国の町や村が被害にあっているのも無視し、さも被害者ぶって。
「大方、依頼なりなんなり、金をチラつかせてゴートの時代のように端の町や村を襲えと焚きつけられたのだろうな。仮に失敗して賊どもが白状したところで、国の名を騙られたと言えば済む」
「クレイン様! お待ちください! 本当にこれが鉄の国の意思であるかはまだ分からないんですよ!」
隠す事のない怒りと殺意を滾らせるクレイン。
その主君の腕を取り、アニカが引き止めた。
しかし、一歩たりとも動く事はなく、クレインの腕が僅かに中に浮いただけである。
「もはやそこは論点ではない。この事態を引き起こしているのが国であるというのが問題だ」
「その確証だってないはずです! 例えそうであったとしても動かれるのは!」
「買い被るな。これだけの事をされ、それも原因は相手の国だと? それで心穏やかにしていられるほど、俺は聖人ではない」
終ぞその腕を振り解き、翼が翻るマントのように広がった。
「それにこれは探りだ。ここで俺が動くか否かを……舐められたものだ。安い挑発だし、俺自身大したプライドも持ってもいない。が、これほどの屈辱、見過ごしてなるものか」
更に憎悪が膨れ上がり、暴風のような魔力が渦巻く。
アニカでさえ、クレインへと伸ばす手を自分の方へと引き寄せるほど。
そんな威圧感を放ちながら声を荒げた。
「確証など必要はない! 俺が鉄の国に向かえば終わる! もしも無関係であれば他国の魔王として丁重に対応されるだけだ! だがこれを企てたのならば……大義名分ができたと、これ幸いと俺を討とうと動くだけだ」
ばんっと空気が振動するほどの羽ばたき一つでクレインの体が中に舞う。
多くの者が固唾を呑んで見守る中、抑揚のない静かな声音で呟いた。
「戦意を持って向かってくる者全てを斬ればいい」
その夜、空を一筋の光が走るのを多くの者が目にした。
雨の降る雲の下で。月星が輝く空の下で。
流星の如く紫色の輝きが流れていった。
夜の闇に溶けてしまいそうな話であるが、強い光を放っていたそれは誰の目にもはっきりと映るものであったという。
およそ、殆どの者が見た事もない光景。ほんの一瞬出来事であったものの、幻想的なものである。
見る者全てが心を鷲掴みにされるような、気圧され息も吸えなくなるほどに美しかったと言う。
しかしその光はそれほど絢爛な存在ではなかった。
憎悪を胸に宿した人物によるもの。己の力を制御できず、溢れる魔力が放出され……輝きを伴ったのだ。
だからこそ見た人々は圧倒される感覚に陥り、それを感動と錯覚してしまった。
もしもそれが間近で起こったのであれば、発狂するほど恐怖を感じていたのだろう。
そんな光も最後には消えていく。
正確には一際大きな輝きを放つのを最後に失せたのだ。
突如として現れた燦々と輝く光源に対し、鉄の国の首都は半ばパニックに陥った。
そんな中、鉄の国の長である貪る魔王ボイル・スティールンが、本来の姿である雷をまとう飛龍となって光へと向かって飛んで行く。
まるでそれを打ち砕かんとする勇姿。
恐怖に駆られるも、人々はその姿にどれほど希望を持ち歓声をあげたか。
しかしそれも僅かなもの。
光が膨らみ弾けると、凄まじい衝撃が首都を襲い、ついで飛龍の首と胴体が落ちてくるのだった。
「……」
机とイス。そしていくつかの棚があるだけの殺風景な部屋の中。
ただ静かに待つクレインと、不安そうな様子を隠す事ができないカインがいた。
場所は水の都市、魔王城の一室。
今は数ヶ国の魔王が集まり、緊急での協議が行われているところである。
たった一夜にして一国の首都に甚大な被害をもたらし、その魔王を滅ぼした者。荒ぶる魔王への処遇についてだ。
「……魔王様、なんでそんな落ち着いていらっしゃるんですか」
「命まで取られるにしてもカインまで取られる事はない。お前こそそんなうろたえたところでどうにもならないだろ」
「それはそうですが……」
「大体、俺はとっくに死刑判決を待つ囚人の気分だからな」
「魔王様……」
カインが顔を崩して目を伏せ、唇をきつく縛り拳を奮わせた。
理不尽、とは言えない。大罪を犯した事には間違いないのだ。
クレインの言葉通りの結果だとしてもおかしくない。
だがそれでも、納得しなくてはならない事は分かっていも、カインには到底受け入れがたい話である。
「そんな顔をするな。それだけの事をした自覚もあるし、事実そうだろう。今更足掻こうとどうしようと、なるようにしかならない」
「そうですが……ですが、魔王様だけに非があるわけではありません。確たる証拠はありませんが、鉄の国そのものにも大きな責任の一端があるはずです」
「それごと潰してしまったのは俺だからな」
とは言え、仮にも他国に押し入って捜査したところで、そんなものを掴ませてくれるぐらいならば、今日まで拗れている事はないだろう。
どちらに転んだところで、非常に痛い思いをするのは避けられない。
もっとも、その中でも特別に痛い道となってしまったが。
「お待たせしました」
再び沈黙が支配しかけた部屋に、水の魔王リリア・スフェスターが入ってくる。
どこか憔悴した様子を帯びているものの、胸を張り静かに語るその姿は流石というべきか。
「今回の一件、荒ぶる魔王からなにかございますか?」
「……言い訳のしようがないな。考えていたつもりだったが、こうして結果を見ると全て悪手だったのだろうな」
「悪手……?」
「先代であるゴート・ヴァダーベン時代の状態を維持しようと行った行動。そもそも自分の存在を明確にするべきだった。恐らく俺をただの有翼種としてしか見られていなかったんだろう。特別な力を持たない一介の種族として、な」
「……ありえると思いますが、それならそもそも先代荒ぶる魔王を討つ事など到底叶わなかったのでは?」
「だからだ。なにかしらの方法で陥れた。あるいは絶対に姿を現せない何者かが背後にいて、俺はその傀儡であるとか。つまりは俺の行動全てがパフォーマンスであり、俺自身がウィークポイントと思われたのだろう」
その探りと隙を突くのが今回の発端であるならば。なんとも滑稽な話か。
それ故にクレインは責任として死を、と言われるのであれば、それを受け入れるつもりでいた。
それだけの事をしたのだ。
例えどんな思惑であったにせよ。この結果を手繰り寄せる行動を自発的にしたのは自分自身である。
「今回の一件に関しては情緒酌量の余地があると見ています。正直なところ、悪事を働いていた彼らには手を焼いており、非常に助かりました……と言わざるを得ません。無論、西の国々におけるそうした者達の問題の一部が消滅したに過ぎませんが」
「だろうな。流石に鉄の国の外で拠点は置いている様子はなかったから、他の国のは純粋に賊なんだろう。それを理解できていたならば、付け入る隙も埋めていたんだが、慣れと言うのは怖いな。全く疑問にも思わなかったよ」
なにか一つでも違えば回避できていた事。
だからこそクレインは悔しく、またその責任をいっとう感じているのだ。
そんな心情を知ってか知らぬか。
水の魔王はゆっくりと首を横に振る。
「例えどれほど悔やもうとも、結果を変える事もできません。だからこそ私達は学び、二度とそのような事がないようにしないとならないのです」
「……次があるのか?」
「二度目はありません。今後、貴方の行動は一挙手一投足において、多くの者が見張っているものだと思って下さい。その力は貴方が思うほど以上に、そして我々が思っていた以上に脅威であり、なにより実際に振るってしまったのですから」
抑止力としての力ではない。行使する力。
これがどれほど恐ろしい事か。
それもあまりにも強大で、果たして止める事ができるか否かも疑問視されるほどのもの。
可能ならば放棄したい代物だ。
「……」
「納得できないと?」
「逆だ。それは寛容すぎないか?」
「貴方と貴方のいる環境を知る者達による、と考えていただければ幸いです」
「……ご迷惑、おかけしました」
深く頭を下げるクレインに続き、カインもまたそれに倣う。
水の魔王は一度、会釈をすると静かに部屋を出るのであった。
「魔王様」
水の都市を出たクレイン達の後を追うように、後方で数台の馬車がついて来る。
緊急で手配できた人員。監視の目なのだろう。
「当然の措置だ。しばらく農商国家は多くの国の者達が出入りするだろう。本来喜ぶべきではないが、今の農商国家がどうであるか。それを伝えるには手っ取り早いな」
あの馬車の中にいる者達はどんな思いだろうか。
どうであろうと穏やかなものではないはずだ。
ならばせめて、不自由なく農商国家の滞在を満喫してもらいたいところである。
「カイン、一つ決めた事がある」
静かな声音の言葉に、カインは次の言葉を待つ。
「無くそう。あんなふざけた事。今後一切起こさせない。俺自身も……俺のような暴走も含めて。お前は今までのように国を守ってくれ」
「魔王様は?」
「俺は国の外で戦う。と言うと物騒だが、今の情勢を変えていくつもりだ」
「……」
「勿論、まだまだ国の事に集中すべきである事も分かっているし、今すぐになにができるという事もない。まずは各国に対して信頼を得なければいけないしな」
「咎めるつもりはありませんよ。私は貴方を主君とすると決めたのです。貴方が考えた上で決められた事ならば……全ては仰せのままに」
「……ありがとうカイン」
クレインは静かな微笑みを浮かべると、ふとなにかを思い出したかのように、がさごそと馬車の中を漁り始めた。
何事か、とカインが黙っていると、一つのボトルが手にしたクレインが顔を上げる。
ガラス細工のそれは薄い水色の着色がなされており、当然ながら中からたぷたぷと水の音がしていた。
「料理もなければこれしかないが、今の俺には十分過ぎるな」
曲がりなりにも魔王が乗る馬車。
クレインは嫌がったが、それなりの物が備えられている高級なものだ。
これまで一度と使わなかった、クレインには似つかわしくないグラスを二つを取る。そこにボトルの中身を開けると一切の濁りのない、無色の液体が注がれていく。
「これは契りだ。達成されるその日まで。この大陸の各国が手を取り合える環境。全ての国が共存派となり、そして南の大陸と共に歩む未来まで。我々はこの身を捧げる」
「……仮に実現できたとしても、それで本当に争いがなくなるものではないのでは?」
「ああ。だが手を取り合えるようになれば、今よりも遥かにマシな世界にはなる。少なからず、今回ほどの事は起こらない。だから起こさせない為にも……な」
「珍しく魔王らしく見えますね」
「悪かったな。だがそれを形式上ではない主君と決めたのはお前だ。さあ、グラスを持て」
カインは両手で受け取ると、片手を添えて僅かに掲げてクレインの方へと差し出す。
その様子を見て、一度頷いたクレインは静かで、しかし決して揺らぐ事のない炎を瞳に灯した。
「不条理な争いや略奪が行われない、行わない世にすべく。各国が調和されるその日まで。我々は戦い抜く事をここに誓って……乾杯!」
「か、乾杯っ!」
クレインの掛け声に慌ててカインが続く。
意図を理解していると思っていただけに、クレインが目を丸くして驚く中、カインが呆れた視線を投げつけてきた。
不満そうな色も含んだそれに、クレインは僅かにたじろぐ。
「何故乾杯なんですか。いえ、確かに全く間違いではありませんが、口に出してやる内容ではないでしょう?」
「だからこそだ。事ある毎にこうして杯を鳴らす。忘れないためにも、戒めの為にも……この契りが果たされるか、我々が果てるか。あるいはその先まで」
「事ある毎に……確かに常々機会はあるでしょうが。はあ、まあこれも魔王様らしいと言えばそうでしょうね。まさかそんな大きな契りをこんな場でやるとは思いもしませんでしたが」
料理もなければ酒でもなく。
それも揺れる馬車の中。落ち着きすらもないのだ。
むしろ本当に決意をしているのかすら怪しいもの。
だが、そこを疑う余地はない。
出会って数年とない関係であるが、どれだけ言葉に重みを持って語っているか。それこそ言葉にする必要もないほどカインは理解している。
「先ほどは失礼しました。それでは改めまして」
「……それじゃあ簡略に」
再度二つのグラスが掲げられる。
揺らめくそれは何処まで透き通っており、まるでグラスの中が空のようで。
だが確かにそこには満たされているのだ。
「我らの志。この誓いが達成されるその日を願って」
「乾杯!」
二つの声とグラスを打つ音が重なる。
か細く小さなものだが、それはまるで金物を打つ音のようで。
たった一つの、不確かな未来に向けて。
誰かの願いでもなく。自らが望んで。
もしかしたら自ずと辿る未来であるのかもしれない。
だが、二つの意思が意志となってその果てを見据えた瞬間であった。




