五十八話 災い起こして罰を食う
「今日も特に問題はないようですね。改修中の橋のほうはどうでしょうか?」
「特別な報告はありませんので順調かと。しかし、なにもご自身で見回りをせずとも、申し付けていただければ我々が確認してご報告しますのに……」
「長たるもの、自らの目で確かめる事も重要です。そちらの橋も見ておきましょうか」
水路が張り巡らされた大都市。
この北の大陸においては共存派最大の国にして、最古の国の一つ水の都市。その国の魔王城が建つ場所である。
人々が忙しなく行き交い、時には悠々と語らい、または訪れる者の足を止めさせ心を打つ。少しでもこの町の中を進めば、様々な移ろう光景を目にするだろう。
そして今、その中の一人として溶け込んでいるのが、この国を治める者、水の魔王リリア・スフェスターである。
付き添う従者は男性一人のみ。
側近である彼が僅かばかりの苦言を呈したものの、こうして彼女自身が城下町を見て回る、というのは今に始まった事ではない。
が、一切の黙認をするわけにもいかず、こうして折を見ては進言をするのだが、もはや形骸化した恒例行事となっていた。
「そちらの道は市場を横切りますし迂回をしましょう」
「……やはり私がそこを通るのは駄目なのでしょうか?」
「駄目という訳ではありませんが、他国の方々が集中し易い場所ですからね。他国に来て、買い物をしている横をそこの魔王様が通られる、というのは中々心臓に悪い事かと」
「それも、そうですね……」
少しばかし肩を落とすリリア。
これとて、今日が初めての話ではないものの、やはり自身で見れないというのは楽しいものではない。
むしろ市場に行き、自ら買い物をしてみたいとさえ思っているほどだ。
しかし、立場柄おいそれと許されるはずもなく。
更にはこうして見回っている事で、ここに住む人々には彼女の顔は見慣れたもの。悲しいかなこれが仇となって、お忍びであってもあまり意味をなさないのであった。
「あちらの区画でしたら、市場ではありませんがここで暮らす人々向けの通りですので、そちらから参りましょうか」
「……気遣わせてしまって申し訳ありません」
「いえ、勿体なきお言葉です」
側近が恭しく礼をすると、リリアは少しばかし目を伏せた。
自覚している己の欠点だ。魔王としての立ち振る舞いにおいて、自らの幼さを捨て切れないところがある。
無論、実際に幼いが故の事なのだからそこまで気を病む必要はない。それどころかむしろ立派に務めているほどだ。殆どの者が驚くほどの年不相応に。
しかし、彼女にとってその言葉はなんの慰めにもならず、己の至らなさを痛感させるものである。
が、今日ばかりはそんな気持ちを払拭させる光景が広がっていた。
「もう一尾! もう一尾いけるだろ!」
「ふざけんな! 物々交換の譲歩までしたやったのにこれ以上出せるか!」
「だーかーら! このチーズを味見してみろって! この町で買ったらそれでもお釣り来るから! おまけもつけるから!」
しばらく前に初めて顔を合わせた人物がいる。
見間違える要素すらありもしない。クレイン・エンダー。農商国家の荒ぶる魔王である。
その者が店の前で声を張り上げて交渉をしていた。
なんとも荒唐無稽な話。思わず視界が揺れて倒れそうになる。
「……私は疲れているのでしょうか。幻覚が見えます」
「そうですね……チーズを片手に、店主と叫びあっている人物の事でしたら現実ですが、いかがでしょうか?」
実在していると告げられて、リリアは本物の眩暈を覚えた。
ならば目に映る光景もそれが引き起こした幻であってくれればどんなにいいか。しかし世界は無情にして非情。そんな都合のいい事はない。
「あ、あの……荒ぶる魔王、なにをなさっているのですか?」
「え? 荒ぶる、ええ?!」
クレインへ問いかけた言葉に、いち早く反応したのは彼女の側近であった。
そもそも協議の場には魔王が出席するもの。彼にとっては現在の荒ぶる魔王を見るのはこれが初めてであったのだ。
「ん? おおっと、水の、魔王……」
ごく自然に答えたクレインだが、今の状況の悪さに気づいたのか、言葉がどんどんと小さくなっていく。
「あまり、よろしくない姿をお見せした……内密に頼みたい」
「え、ええ……吹聴するつもりはありませんが、これは一体……」
「こちらの魚は美味だと聞いたもので、買い物に来た次第だ」
「……そちらのチーズを物々交換に、ですか?」
「あ、えーと……まあ、その? はははは……」
「は、ははは……はあ……」
お茶を濁すクレインの笑いに、釣られて笑うリリア。
だが、遂に到底理解できないとばかりに、彼女の聡明なる頭脳が悲鳴を上げて体がフラリと傾いた。
「リリア様!」
あわや、その華奢な体が地面に崩れ落ちるか、といった寸前に側近の男が間に合う。
その背を支えながら己の主君の容態を確認すると、ただ意識を失っているだけらしく、規則正しい吐息に深く安堵した。
「……大丈夫、なのか?」
突然の出来事に恐る恐る、といった様子でクレインが尋ねる。
リリアの側近が見上げれば困惑と不安の顔がそこにあった。
凡そ噂の荒ぶる魔王に似つかわしくないものだ。
悪意などとてもではないが感じ取れはしない。
だが、この事態を引き起こしたのは紛れもなくこの人物である。
「お引取りを」
「……は、はい」
他国の魔王、それも悪逆非道の暴君こと荒ぶる魔王に対し、強い口調でものを言うなど到底考えもつかない。
少なくとも農商国家の外では、荒ぶる魔王に対するイメージは今でもこうであり、彼とて例外ではない。
しかし、意図はどうであれ忠誠を誓う主君の害となった以上、心穏やかに対応することなどできない。
他国への礼儀など投げ捨てて、無礼非礼上等だと凄んで言葉を口にするのであった。
一方で、カインが相手ならばいざ知れず。他国の者からのその対応にクレインは急転直下、震え上がって農商国家へ逃げ帰るように水の都市を後にするのだった。
「……魔王様がいない」
ところ変わりその農商国家の魔王城。
握りつぶしかけた手紙を片手に、カインが城内を歩き回っている。
今日のクレインは仕事らしい仕事がなく、暇を持て余しては向かいそうなところをカインが虱潰しにするも結果は得られておらず。
道すがら兵士や侍女に尋ねたところで目撃情報もなく。
いよいよまたどこぞの山にでも行っている可能性が高まっていた。
「カイン殿。そのようにされていては若いうちから皺ができますよ」
「……アニカさん、ご忠告ありがとうございます。ですが、ご心配頂けるのならば貴女からも魔王様に厳しくして下さると非常に助かります」
和解してからはそれなりに打ち解けている様子の二人。
カインが口うるさく言うよりも、アニカからの言葉のほうがよほど効果があるだろう。
「しかしあの手の方は、そう簡単には収まらないからこそああいう人物だと思いますが」
「だからと言って放置もできないでしょう」
「……なにを騒いでいるんだ?」
そこへ丁度通りがかった、と言わんばかりの様子でクレインが顔を出した。
まさか今この時、この城内にいるとは思っておらず、カインがうわあ、と声を上げて驚くもすぐさま眉を吊り上げる。
「魔王様! 一体どこに……行かれて、いたのですか?」
しかし荒げた声も急速にしぼんでいく。
クレインが明らかに気落ちしているのだ。思わず心配もする。
「……色々とあって。……もしかして俺を探していたか?」
「え、ええ……こちらを」
はぐらかすのでもなく、多くは語らない姿勢に尚の事不安を覚えるカイン。
だが用件もあるのだからそちらを蔑ろにもできず、手にしていた紙を差し出した。
「……あ、鎧か」
クレイン用の装備一式。
実のところ、既に完成しており引渡しの連絡を貰っていたのだが、運ばせるぐらいなら着て帰る、とクレインが出向くと返事をしていた。
のだが、結局忘れに忘れ、要約すればとっとと取りに来い、という催促を受けたわけである。
「流石に悪い事をしたな……」
魔王に収める鎧と剣。普通の注文の様な扱いもできまい。
大きい工房とは言え保管場所にも苦労をし、丁重に且つ最善の状態を保つため日々のメンテナンスも欠かさないのだろう。
それでいてこの引取りの遅れ。いっそ嫌がらせなのでは、と勘ぐられていてもおかしくない。
「行ってくるついでに町を見て回る。夜までにはちゃんと城に戻るから心配しないでくれ」
「……分かりました。何事もないかとは思いますがお気をつけて」
普段ならば、誰が貴方個人を心配しますか、と嫌味の一つもでるところだが、今のクレインの様子を見るとそんな言葉も思考にすら引っかかりもせず。
ただとぼとぼと歩いていく後ろ姿を見送るのであった。
「……ただ事ではないですね」
「しかし、クレイン様がああまでなるとは。一体なにがあったのか思いつきもしませんね」
心配は心配だが、ならばこそそれは一体なにが原因かと考えてみたところで首を捻るばかり。
とてもではないが想像なぞ及びはしなかった。
しかし翌日。
「よう、坊主」
「え? 工房の……まさか、引き取りに行ってなにかをやらかしましたか?!」
強面の老人がカインの下に訪れた。
交流があるわけではなかったが、立場柄挨拶などで何度か会っている鍛冶工房をまとめる親方である。
「いや、そういうわけじゃない。ちょいとその時に今の魔王の相談というか……まあ話を聞いてな」
「……私のほうにはなにもお話しにならなかったのですが、どういった内容でしたか?」
「本当なら他言するもんじゃないが、ちょっと内容が内容だけにな……水の都市に買い物に行ったら、結果水の魔王様を卒倒させたらしいが、大丈夫か?」
「……ご協力、感謝致します」
カインのほうこそ卒倒する内容に、先ほどまで主を心配する側近の顔は打って変わって生気を伴わない、なにがしかの恐ろしい化け物の形相となっていた。
鍛冶師のほうは伝えるべき事はそれだけだったようで、一礼すると共に城を後にしていく。
なるほど相談したのは彼一人だったのだろう。
これでは誰かに伝言を走らせる訳にも、わざわざ書簡として認めて時間をかける訳にもいかず、こうして出向いてくれたのか。
(まずは事実確認と……あの人にはなにか理由をつけて、一度ぐらい地獄を見ていただこう)
まるで誓いのような決心を胸に秘めて、早急にすべき仕事へと向かうカイン。
それから数日した後、水の都市においてはそのような事は『記憶していない』と、なかった事とされているのが確認をとれ。
しかし罰するのをなかった事にはせず、荒ぶる魔王クレイン・エンダーが阿鼻叫喚の中で絶叫するに至ったのだが……それはまた別のお話である。




