五十三話 忠誠
「こんなものかな」
額に浮かぶ汗を手の甲で拭ったクレインは満足そうに頷く。
その手には大きなブラシが握られており、眼前にいるのは栗色の毛が美しい馬であった。
城を囲む城壁。その周囲には様々な施設が立ち並んでいる。
特に多いのが兵士の為のものだろう。兵舎に訓練場などなど。
馬小屋や運動場も広い土地を利用して作られている。
当然ながら馬の世話をする専門の者達がいるのだが、乗馬の練習をする以上馬の世話になるのだから、とこうして世話の一部を買って出ているのだ。
そんな理由からここ最近のクレインは、よくこの場所に出没してはこうして過ごしていた。
どう見ても暇人である。
「やはりこちらでしたか。何時までもここで遊んでいられては困りますからね」
「真面目にやっているだろ」
「責任感の有無の話ではないですからね?」
近くにいた世話係の者達が苦笑しながら顔を伏せる。
彼らも同様の事を思っていたようだ。
「だいたい、今日は乗馬の練習日でなかったのでは?」
「いやー……なんか面倒臭そうだったからな」
「なにかお願いしたりしていませんし、するつもりもありませんでしたが」
「凱旋! みたいな感じで城に入ってきたのがいただろ」
「ああ、彼らですか。そういえばお話した事がありませんでしたね」
馬に乗った鎧姿の一団。
六名からなる彼らは兵士達よりも装飾のついた鎧を身にまとい、多くの者に歓迎される中やってきたのだ。
他国の使者だろうか、とクレインは厄介ごとから逃げ出すが如く、城に入ってきた彼らと入れ違いになるようここに来たのである。
「各地を巡回し、問題の解決や伝言役などをしてもらっているのですよ」
「そういうのもいるのか……」
「僻地の町ですとどうしても支援の手が届かなかったりしますからね。まあ、本来ならばもっと増員して、各地を密に巡れるようにしなくてはならないのですが……」
「あー……」
西からの賊による攻撃に晒されようとも、一部の小さな町や村を切り捨てた先代ゴート・ヴァダーベン。
どんな流れがあったのかは察しがつく。
「帰ってきたって事は今度は別グループが出るとか、一時休暇を取らせるとかか?」
「一先ずは休暇ですね。そもそも今は他にいませんし」
「……一組だけで全域をカバーか」
「まあ、今後は各地に連絡役を置く事も視野に入れて動いてますので、彼らの働き方も変えていけます」
「ぜひそうしてやってくれ」
今までカインから話を聞かなかったという事は、彼らはその職務を問題なくまっとうしてくれていたのだろう。
しかしクレインから見ても、随分と投げやりな酷い任務である。
鬱憤の一つや二つ募らせていてもおかしくない。一月、二月の長期休暇を与えてもまだ足らなさそうだ。
「というか……帰ってきたら魔王が変わってるとか、彼らからしたら迷惑な話だな」
「あ……」
ふと気づいてぼやいた言葉に、カインの顔色が悪くなる。
彼らは先代となにかを約束でもしていたのか、とクレインが怪訝そうにしていると、
「一波乱あり得ますね」
あまりにも物騒な言葉を投げかけられるのだった。
兵士達の人だかりの中心にいる人物。
鎧に身を包み、後ろで結わえたシルバーブロンドの髪が光を浴びて輝く。すらっとした立ち振る舞いは優雅であり、ただ一つの仕草さえも目が離せなくなる。
遠征部隊のリーダーを務め、努力家であり実力だけで地位を上げ、周囲からの人望も厚い。
彼女こそが魔王の座にふさわしいとまでに噂されるほどの人物だ。
「それがアニカ・ゲフォルゲです」
「納得の人気者だな」
自身の部屋の窓から、彼女の様子を覗き見ているクレインが相槌を打つ。
気品と美しさを兼ね揃え、凜とした佇まい。周囲の者に向ける柔らかな笑みは、ただそれだけで心惹かれるものがある。
「剣の腕前にしてもトップグループです。ただ特別な家柄ではないので、軍上層部には煙たがられていますね」
「え? なに? ここ、家系とかそういうのが絡むのか?」
「真面目な方もいらっしゃいますが、軍部はまあ……ゴート様の影響を大きく受けて人員も変わり、そうした出身を重要視する方が多くなってしまったので」
「あーそういう事か。そこら辺、どうにかしないのか?」
むしろそんな状況でカインが一切動いていないわけがないだろう。
だが、現在進行形で語っているのを見るにまだ取り除かれてはいない。
ならばどういった思惑があるというのか。
「今のところは監視の目を光らせてるぐらいですね。挿げ替えるのもいいんですが、上層ですと政治が絡みますので、単純に評判の良い兵士達を昇格させれば、というものでもないので」
「それ故に腐敗もし易いわけで正に先代で証明された、と」
「ですがまあ、賢しい悪知恵が働くぐらいには優秀ですので、悪さをさせないよう縛っておけば便利なものです」
随分と大胆な発言であるが相応の手腕がカインにあるからこそ。
敢えて口にしてはいないが一番煙たがられているのは、カイン自身であるのは想像するに難くない。
「話を戻しますが、そういった背景もありまして周囲からの信頼は非常に厚いです。カリスマ性にしても農商国家の中では一番高い人物と言って差し支えないでしょう」
「だろうな」
「一、番、カリスマ性のある方だと言って……」
「二度も揶揄しなくても言いたい事は分かるわ!」
皆まで言わずとも、である。寧ろなにをどうしたら自分にそんなものが生じるのか。
なんならそれを問いたいぐらいだ。
「で、そんなアニカちゃんがどんな騒動を起こすって?」
「簡単に言えば魔王様が舐められます」
「ぶっちゃけトーク過ぎる」
ちらりと見ただけでも、規範や規律を重んじるタイプに見える彼女が、そう簡単に他者を軽んじるのだろうか。
だが、カインが断定しているのだからなにかしらの確信があるという訳だ。
「剣を交えた事こそありませんでしたがゴート様もお認めになっていまして、彼女も純粋にあの方の力を敬していました。なので、どうせ卑劣な手を使って勝ったのであろう新魔王を下してやる、と思っていてもおかしくありません」
「あー……まあそうだな。未だに俺もあの大男を討ったのが信じられないし」
「……流石にそれはもう少し自信を持って下さい」
もうすぐ一年前が経とうとしている。だが、それでも実感など湧かないのだ。
なによりゴートはクレインが剣を捨てた時、己も剣を捨てて受けて立った。
クレインに一切の抵抗を許さずに殺せるだけの技を持つ剣をだ。
ただでさえ大きなハンディキャップがあったにも関わらず、その後も滅多打ちにされたのを今でも鮮明に思い出せる。
あそこから逆転? 無理無理。絶対第三者が加担したって。
正直、クレインにとってあの戦いの感想がこれである。
「その話は置いておくとして……じゃあなんだ? 決闘を申し込まれるとか? クーデターか?」
「いえ、鼻を明かしてやろうと手合わせぐらいはある、程度を想定していただければよろしいかと。これで魔王様が負ければ、彼女の評価は更に上がり、なんであの人が魔王やってんだろう、と魔王様は影で囁かれ……」
「お前、ホント最近隙あらばいびるよな」
再び話が脱線しかけ、修正がされるより先に扉をノックする音が部屋に響く。思わず二人は動きを止めて、互いに顔を見合わせるのだった。
現在地は暫定魔王の部屋である。
正確に言えば大臣などのような役職の者に与えられる個人の部屋であり、別に魔王専用の部屋が設けられている。だがそこはゴート好みのなんとも言えない有様で、討った直後の意識不明のクレインは空いているこの部屋に担ぎ込まれたのだ。
飽くまで仮住まいとしての利用だったが、特別不便もないが為に引っ越すでもなく、全ての国の中でもっとも小さい魔王の部屋の誕生となった。
そこに用がある者はさて誰だろうか。
基本的にクレインに伝えたりする役はカインが担っている。無論、火急の用件であればその限りでもないが、そうした様子は感じられない。
なにより、クレインに対する火急の報せ自体、今のところ一度としてない。
掃除などは自らが行い、呼ばない限り侍女も来ない。
単純にカインに用事があって、ここに来た可能性も大いにあるが……普通に考えたら扉の向こうの人物はただ一人。
「アニカ・ゲフォルゲと申します。クレイン・エンダー様、以後お見知りおきを」
恭しく礼をする件の彼女に他ならない。
「ゴート様を討ったと聞いております。是非、手合わせを願いたいものです」
にっこりと、だが敵意と宣戦布告の入り混じった双眸が、クレインを真っ直ぐに射抜く。
(おい、いくらなんでもドンピシャ過ぎるだろ)
(私もここまで露骨に来られるとは思いもしませんでした)
そう目で会話する二人。
カインでさえ困惑した様子に、あまり引き伸ばしていい状況でないのを悟り、
「そうだな。それなら二日後辺りはどうだろうか? 今日の明日では疲れもあるだろう」
目と鼻の先に予定を立てたのだった。
カインは元より、アニカも予想外の答えであったのか目を丸くする。
だが、すぐに笑顔に戻ると深々と礼をした。
「お気遣い、感謝致します。それでは明後日、楽しみにしております」
「ああ、わざわざ挨拶にきてくれてこちらこそすまなかったな」
挑戦的な笑みを浮かべたアニカが退室すると、クレインとカインは大きく肩をついて肺に溜め込んだ空気を吐き出した。
「最後、絶対化けの皮を剥がしてやろう、て顔だったな」
「ですね。しかし、あそこまで敵意剥き出しとは……私も甘く考えていました」
アニカの己に鞭を打って切磋琢磨する姿はよく知られている。
上層部からのちょっとした圧力とて、どこ吹く風と跳ね除けてきたが、一度としてあそこまで反抗的な態度を見せた事はない。
個人的な付き合いこそないものの常に注目の的であった彼女の、このような姿はカインでさえ一切知りえないものである。
「……なんだかんだで彼女はゴートに忠誠を誓っていたのか?」
「どうでしょうか。ゴート様自体、他人との接点が薄い方でしたので……」
「彼女の上司とか先輩にあたる人物へは?」
「良好な関係だとは聞いていますが……なにか気になる事でも?」
「うーん……まあいい。それより手合わせの方だ。ここでの手合わせっていったらどうやるんだ? まさか治癒魔法を頼りに本当に切りあうとかじゃないだろうな」
「……やっぱり考えがあっての二日後じゃないんですね」
もしかしたらただの思いつき程度かも、と思っていたが正しくそうであった。
確かに真剣に捉え過ぎかもしれない。
所詮は手合わせ。命を懸けた戦いとは違う。
だが、戦力としての実力主義が存在する国である以上、クレインが負けようものなら魔王交代のムードが生じるだろう。
(確かに彼女が魔王である事には問題はありませんが……)
彼女とて政に精通しているわけではない。
クレインと比べたら、求心力がありリーダーシップが高く、兵士達に羨望される存在というだけだ。城の内外問わずファンも多い。
むしろクレインよりいいのではないか? 間違いなく人材としてはより適正である。
(安定を取るならば逸材でしょうが、恐らく……未来への期待はあまり高く望めない)
彼女は適所適材を理解し、自ら手を出す分野は理解のある部分だけにするだろう。
パンはパン屋。確かに正しい。だがそれは、国を立て直した先に新しい道を見出すのには向いているとは言い切れない。
既知にはない考え方、行動。仮にそれを理解していても行えなければならないのだ。
例えそれが多大なる迷惑を振りまき、周囲に疎まれると分かっていても。そう、腹立たしくもクレイン・エンダーのように動かなくてはそう変わりはしない。
「色々と説明はしますが、ちゃんと勝って下さいよ」
「……意外だな。とっとと負けて彼女に魔王の座を渡して下さい、ぐらい言われるかと思ったんだが」
「私は貴方が魔王である事で、切り開かれるであろう未来を目指すと決めたんです。確かにアニカさんが魔王であれば、日々のストレスも憤りも、果ては呪詛へと発展しそうな憎しみさえもないでしょうが……それでもこちらの道を進むと決めたのです。そう簡単に切り替えるつもりはありません」
「そうか……ありがとうな」
「……」
「……」
どこか気のせいである可能性が非常に高すぎるも、しんみりとした空気が流れる。
多分きっとそれは気のせいなのだろうけども、シリアスな静寂が部屋を包み込む。
「他に言う事はないんですかね?」
「ナチュラルに罵倒されたけど納得済みなんだろ? いやー良かった良かった」
「いっそ呪った方がよさそうですね……」
その道の途中、自分が憤死してはいないだろうか。
カインは己の将来に不安を抱かずにはいられなかった。
二日後、件の時間までもう少しという頃、一人の術者と共にクレインとカインはとある個室に来ている。
部屋の中央には兵士の鎧が飾られており淡い光を放っていた。
「それでは魔王様。説明していきますね」
「あの……このような事を聞いていいか分かりませんが、何故当日に行おうと思ったんでしょうか」
「どうせ出たとこ勝負だからな。直前に頭に入れればいい」
「まあ、説明といっても大したことはないので、昨日であってもなんら問題はなかったんですけどね……やる気を出していただけない以上時間の無駄ですし」
呆れ顔をするカインだが、気を取り直して説明を始める。
兵士達の間における試合。
ごく普通に剣を交えるものと、こうして魔法をかけた防具を用いる二種類がこの国の主流となっている。
魔法は切りつけられた際のダメージや衝撃を緩和させると共に、強く発光するというものだ。
この発光した数、即ち攻撃を命中させた回数で勝敗を決め、通常の剣での打ち合いとはまた違った訓練となっている。
「防御と審判か……随分と都合のいい魔法があったものだな」
「昔、多額の予算をつぎ込んで開発されたそうですよ」
「魔法の開発……か。そのうち、使えないまでも魔法についても学ばないとだなー……」
クレインにとって未だによく分からないものの一つである。
書物を読んでもまるで頭に入ってこない、というのも一向に進まない理由であった。
しかし、先に気にするべきものは目前にある、と苦手意識を持つそれから目を背ける。
「とりあえず全力で切ってみるか」
「……少し避難しておきましょう」
カインが術者を促して部屋の隅に移動するのを確認すると、クレインは大きな深呼吸を一つ。
直後、目が潰れんばかりの光が室内に走る。
一瞬の事に視界が失われる中、金属が鋭く打たれる音が響く。
やがて視力も回復し、クレインの前に尚も固定されて鎮座する鎧へと近づいて見てみれば、
「完全に刃が通ってますね」
「ただの一撃で魔法ごと……流石、ゴート様を討たれたお方だ……」
「というかこれ、着てたら中身も切れてるな……」
三者三様。目の前の出来事に誰にともなく呟いた。
「絶対に気をつけて下さいよ。これで彼女をばっさり切る事があれば、本当に寝首を掻こうとする者が現れます」
「負けるな本気を出すなと無茶を言いやがって……言わんとしている事は分かるんだが、だいぶ難しいぞ」
「しかし、実際に戦っている場で今ほどのお力が出せるものなのですか?」
「ここまでは無理だろ。まあ、一番怖いのは余裕がなくてこれに近い力加減になる事なんだが」
「逆に一度それを成功させれば、彼女も溜飲を下げるかと思いますが……できるんですかね。勿論安全にですよ」
「……逃げ道がなかったとはいえ、安易に受けて立たなければよかったなあ」
なんでこんな事になってしまったか、とどこか遠くを見つめるクレイン。
しかして理不尽な話ではあるが、原因は自身にあるのだ。
誰も同情はしてくれまい。
「既に魔法を施した装備は準備されてます。急ぐ必要はありませんが着替えておいて下さい」
「これに魔法をかけるんじゃダメなのか?」
「装備したままではかけられませんし、この場合は身に着けてる物での差異を出さないようにと、兵士の防具で執り行うものなんです」
殊更、面倒くさそうなクレインであるが、自らの言葉通り逃げ道はないのだ。
肩を落としながらも準備へと向かう背中に、二人は安易な言葉も掛けられず黙して見送る。
「大丈夫なんでしょうか……。私としてはようやく城内も落ち着いてきたのですし、また何事か騒動にならなければいいのですけども」
「……まあ、どっちに転ぼうとも大丈夫ではあるでしょう」
「お傍にお遣いするが故の信頼でしょうか?」
「いえ。単純に殺し合いになった場合、殺される可能性は低いでしょうから」
その言葉に術者がぎょっとした顔で驚く。
しかしカインは、だからこそ性質が悪くもあるのだ、と頭部に手を添えて感じる気がする頭痛に耐える。
いっそ普段から強者の風格があるのならば、無用な問題も起こらなかろうに。
しかし現実はこれであるのだった。
「なんだこのギャラリー……暇なのか」
訓練場には大勢の兵士達が集まっており、まるでなにかのイベントを開催したかのような有様となっていた。
思わず苦言を呈するクレインに傍に控えていたカインが溜息混じりに呟く。
「事実はどうであれ、少なくとも魔王様にそう指摘される謂れのある者はいないでしょうね」
「常に暇を持て余してるつもりはないんだがなぁ……」
「否定するのに『常に』が対象として挙がっている時点で駄目なんです。さあ、頑張ってきて下さい」
促す先には悠然と佇むアニカの姿。準備万端といった様子である。
「待たせたな」
「いえ、魔王様にこのような事をお付き合いをさせてしまい恐縮の限りです」
恭しく礼をするが、果たして伏せた表情は如何なるものか。
飽くまで表面上は敬う姿を欠く事のない彼女にクレインは苦笑する。
「さて、ルールはどうする?」
「盾はなし。三点先取でどうでしょうか」
「了解だ。お手柔らかに頼むぞ」
「それはこちらの台詞ですよ」
一度、お互いの剣を交差させると数歩退く。
束の間の静寂も、審判役を担う兵士の開始の合図と共に打ち払われる。
「な……!」
十分な間合いがあったはずだが、響く金管楽器の音が消えるよりも早く、アニカはクレインの目前へと迫っていた。
クレインが息を呑むのと同時に、彼女から銀の輝きが水平になぎ払われる。
寸でのところでバックステップでかわし、着地した足に更に力を込めて距離を取っていく。
(随分な挨拶だな! やはり本気で取りに……!?)
開いた間合いもほんの一時の事。
クレインが体勢を立て直すよりも早く、アニカの追撃がその身を捉えた。
しかしクレインとて、潜った修羅場は少なくない。
即座に剣で受け止めると更に退く。
その直後の追撃を警戒して受ける構えのクレイン。だが、アニカは構え直しただけで、
(くそ、試されて……?!)
一度、呼吸を整えようとしたその瞬間に、再びアニカの剣が牙となってクレインに襲い掛かる。
一太刀、また一太刀と間合いを空けた直後に襲い掛かる。離れる事を許さぬと言わんばかりの猛攻。
その激しさに始めの一撃こそ、沸いた観衆は今や固唾を呑んで行く末を見守っている。
(なら、追撃に合わせてこちらも出るだけだ!)
例えクロスカウンターであったとしても、この猛攻を一度挫かなくては反撃のチャンスすら掴めない。
地を強く蹴って後方へと体を送り出し、着地した左足をバネのように力を込めた。
だがその時には既に、クレインの視界からアニカの姿はなかった。
動きが読まれたかどうかは問題ではない。
既に別の手段で仕掛けられている事実に、咄嗟に右足を突き出して体を止める。
(何処に……まさか!)
殺気と変わらぬ気配に視線を下げる。
姿勢を低くしたアニカの姿があった。
地に伏せんばかりの大股での踏み込み。
その一瞬の動作で視界外へと消えると共に、再び間合いを詰められたのだ。
(足狙いか!)
一瞬の逡巡を経て、攻めを捨てて一度攻撃を受けるべく剣の切っ先を下げる。
だが、
「つあああ!」
初めて上がるアニカの気合と共に、左足で強く踏み込み、体を大きく捻りながら剣を切り上げた。
確実にクレインの体を捉えたであろう一閃は、しかしほんの刹那の差でクレインの剣が間に合う。
「ぐうっ!」
抑える事無く呻き声を上げて凌いだクレインは、その勢いに押されて後方へとよろめいた。
アニカも捨て身で懐に飛び込んだ一撃であったようで、今度こそ追撃が『できない』ようで、構えなおして呼吸を整える。
(あの体勢から踏み込みまでして……どれだけ体が柔らかいんだ)
反射的に動いたからこそ防げたものの、今の一撃はやられたとクレインすら思っていたのだ。
(分かっていたが剣術勝負じゃ話にならないな。力ならこちらに分があるが、技と速さで普通にやってたら追いつけない……)
所詮、クレインが通ってきたのは殺し合いの道であるのだ。
どれほど残虐に痛めつけるのも、一生障る事になる傷を負わせるのも、何一つ躊躇わない世界。
殺さず下す。そんな考えは二の次である。
だからこそクレインは強く、それが故に弱いのだ。
(ただでさえ勝ちたいところ。それが無様に負けるなど許されないだろ。というか)
膠着したかと思われた場は、アニカの猛攻によって再び激しさを見せる。
(余裕なんかないな! これは!)
続くアニカの攻撃を受けるクレイン。
だがその顔は確かに笑っていた。
凡そ、試合など初めての彼にとってどれほど楽しい事か。
ルールが定められたステージとはいえ、これ程までに自分を追い詰めてくれる存在がいるとは。
簡単にオーバーキルを叩き出すゴートとは違い、この瀬戸際を凌ぐひり付く緊迫感がクレインを高揚させるのだ。
(手加減こそ無用、失礼な話だったな!)
初めこそ気づかなかったが、これだけ打ち合えば分かる。
彼女ならばクレインが退く暇を与えずに、更に仕掛けられるのだ。
だがそれはしようとはしない。
一切の力もなくゴートを討ったわけではない、とそれなりには評価し、今こうして少なくとも過大評価でない事を確信しているのだろう。
ならばこそ、一気に畳み掛けずに相手を消耗させ隙を生じさせる。
『わざと』退かせて体勢を立て直す前に打ち込んでいるのだ。
ならばそれを崩すだけ。
ある一撃を受け止めると、クレインの呼吸が変わり重心が前へと寄る。
(ようやくジリ貧と気づいたか。だが……それも罠だ)
即座にアニカが構えを変える。
退けば追い詰め追撃をし、出れば受け流し反撃をする。
ある意味、狩りであった。
冷静に判断したところで意味はない。ここまでの攻撃を凌ぐだけであった腕では、彼女のカウンターの上をいくのは不可能であるのだ。
だが、それは飽くまでも常識的な力である事が前提である。
直後、なにが起こったかを完全に理解できた者は恐らくいないのだろう。
観衆である兵士達の目さえも眩む閃光と、耳をつんざく金属の音が響く。
間があって、まだ物が見えない中に聞こえる剣が地を打つ音。
ようやく見えてきた景色は、横に剣を切り払った姿のクレインと、同じ方向に腕ごと剣を向けるアニカの姿であった。
しかしアニカは握る剣の刀身は半分以上が喪失し、鎧にははっきりと深い傷が刻まれている。
「……参り、ました」
圧倒的な力を前に呆然と、だがゆっくりと膝を崩し、遂には地面に座り込んでいくアニカ。
やがて、静かに己の敗北を宣言したのだった。
その様子にクレインは剣を収め、
「怪我はないか?」
と手を差し出す。
しばしそれを心ここにあらずとアニカは見つめる。
だがふと、弾かれたように動き片膝を突いて頭を垂らした。
「……如何様の処罰を」
主を試すという高慢な判断を。
隠す事のなかった己の意思を。
あまりに浅慮で稚拙な愚行を。
その罰を与えよと、クレインの前で跪いた。
「処罰……処罰か」
この手合わせの意味を周囲の兵士達も理解しているのだろう。
クレインの言葉に多くの者がピクリと反応を示す。
「良き試合に褒美を授けよ、という遠まわしかな」
「え……?」
誰一人として予想だにしない言葉にアニカは顔を上げた。
今、褒美といったのか?
と、兵士達も困惑が広がり、互いに顔を見合わせて聞き間違いでなかったのを確認しだす。
「このような場で言うのもあれだが……改めて言わせてもらう。兵士諸君、今日までの尽力に感謝する。これからもよろしく頼みたい。そして遠征部隊の活躍、心から感謝する。貴官らの働きがなければ失われた命は数知れなかっただろう」
突如の演説にアニカはおろか兵士達さえも口を開けて、ただその言葉を聞き入っている。誰一人微動だにせず、クレインの語る心の内をただただ無防備に受け止めた。
「アニカ・ゲフォルゲ。特に君はこの農商国家においてなくてはならない存在と言っても過言ではない。貴官らにはしばし休息を与える。だが然る後に、再びその剣をこの国に捧げてもらう。構わないな」
跪くアニカの前で、クレインはその力が必要であるとそれだけを語った。
尚も呆然と見上げていたアニカは、己の意思を問われた事に気づきゆっくりと頭を下げ、
「仰せのままに」
震える声を押さえつけ、確かにその言葉をクレインに告げる。
二人の言葉が途切れれば水を打ったような静寂に戻るその場を、クレインは踵を返して背を向けた。
訓練場の出入り口付近で待機していたカインは、クレインに礼をするとその背後を付き従い、やがて二人の姿は城へと消えていく。
それからしばらく、アニカも兵士達も時が止まったかのように、その場に残された余韻に縛られるのだった。
ツカツカツカ、と鎧を身にまとっているイメージを思わせる、金属の足音が廊下に響く。
しかし歩調は速めのペースであり、その主であるクレインの顔は感情が感じられなかった。
やがて自分の部屋へと入り、後ろをついていたカインが急ぎ扉を閉めると、
「ぐおおお!」
呻き声のような叫びを上げて両膝を突いてひれ伏した。
「が、ガチで負けるかと思った! マジで切ったかと思った!!」
ぶわっ、と吹き出る玉の様な汗が、彼の心境をその言葉以上に物語る。
「や、やはりあの一撃はコントロールできていたわけじゃなかったんですね」
「……剣を弾いて胸をあたりを切るつもりだったのが、剣ごと鎧も切るとか……完全に頭が真っ白になったぞあれ」
体を起こして地面に突いた手を持ち上げると、プルプルと震えていた。
その上であの演説。あそこまで自然体を偽れた自分の演技力に祝杯を挙げたい気分だ。男優賞も遠くはない。
「なにはともあれ、無事に済んでよかったです。それに彼女に限らず魔王様に対する反応もガラリと変わる事でしょう」
「だろうな……また怖がられるかな」
「あの演説の効果もあるでしょうし、敬畏といったところでしょうね」
「……暴君よりかはましか」
「それはそうですが、比較対象がそれでいいんですか?」
持ち出したものがそれならば、上の者として接せられる全てがまともな部類になりそうだ。
雑談を続けようやく落ち着いてきたのか、クレインは立ち上がると力なく椅子に体を投げ出すように座る。
ゴートを討って以来の大仕事であったと言えよう。
「今日はもうなにもしたくない……休む」
「お疲れ様です。私は自室におりますので、用がありましたらそちらへお願いします」
「クレイン様。なにかご命令はございませんか」
そうして休んだ翌日の事。
ふと早くに目を覚ましたクレインが部屋を出てみれば、目の前に跪くアニカの姿があるのだった。
「……? いや、別にないんだが……」
「分かりました。ですが、必要とあらばいつでもなんなりとご命令下さい」
「ああ、うん……うん?」
踵を返し、綺麗な姿勢で歩き去る後姿に、クレインは寝ぼけた頭をがりがりと掻きながら見送る。
一体全体どうしたというのだろうか。
そう疑問が浮かぶも、その答えは随分と早くに判明するのだった。
「クレイン様! 午後の……」
「だーもーしつこいわ!」
既に十回近くアニカの付きまといが生じている。
とは言え、別にストーキングされているのではなく、城内を巡回している彼女と鉢合わせるとこうなるだけで、そう無碍にするわけにもいかない。
が、流石にいい加減にうんざりしてきたクレインは、
「アニカ・ゲフォルゲ! 貴官に一ヶ月、特別休暇を与える! 自身に用事がないのであらば入城する事を禁じる! また、期間中城内での武装を禁じる! 以上!」
「は! 了解しました!」
ある意味で公私混同した命令を強いるのだった。
だがそんな内容であったものの、アニカは胸に手を当てて敬礼をし、颯爽と立ち去っていく。
「装備まではよろしいのでは?」
「そろそろ近寄ってくる鎧の音にアレルギーが出そうだ」
珍しくもクレインが困憊した様子で呟く。
日頃、苦しみもがけとさえ思うカインであったが、流石にその姿を目にすると居た堪れない気持ちになるもの。
どうしてこうなったかも分からないが、現状の打開策を思考する。
「何故あのような状態に……目撃した者全て、目が飛び出さんほどに見開いてましたよ」
「なんとなく予想はしていたが、それ以上の効果で俺も驚いているよ……」
「え? 多少なりとも想定していたのですか?」
「……ゴートを敬っていたって話だよ。承認欲求、みたいなものなのかな。自分が本当に認める……いや心から尊敬する上の立場の者に認められたいって気持ちがあるように思えた」
聞く限りでは物事の考え方がゴート・ヴァダーベンに寄っているとは考えられない。
それでも尚、討った自分にあれだけの敵意を向け、見定めようと試してきたのだ。
国に対する忠誠心という点もあるだろう。だが、やはりというべきか、予想の方が的中したわけである。
「軍上層部から嫌がられていたんだし、その反動もあるのかもな」
「……まさかあの話はそれを織り込んでの事だったんですか?」
「まーどう収めたら一番角が立たないかを考えたら、結局あそこに行き着いただけだ」
だが、まさか犬のように懐かれるとは思ってもみなかった。
確かにあれだけの美人に良く思われてるのなら嬉しいもの。だが何事も限度というものがあるのだ。
せめてこの休暇中に少しは頭を冷やしてくれれば、とクレインは心から願うばかりである。




