四十四話 岐路
長い夢を見ていた。訳の分からぬまま目覚めたあの日からもがいた日々。初めて触れた温もり。その淡い思い出。好奇心が満たされていく充実感。そして苦渋ながらも選択した別れ。
やがて未知なる世界の感動を知った。初めての事ばかり。見たくも知りたくもないものに触れた。誰に、なにに向ければいいか分からない憎しみと怒りを抱いた。そんな歪んだ感情のまま泥の中を這い続けた。
そんな長い夢を見た。
空はとうに暗く、広がる雲からはしとしとと地雨が降り続いている。
時刻と天気が合わさってか、農商国家の城下町でさえ聞こえてくるのは雨の音ばかりであった。そんな中を雨具を被った姿で歩く人物がいる。やや早めではあるが駆けるわけでもなく、真っ直ぐに城へと向かっていた。
フードは妙な盛り上がりを見せ、背面も異様に膨らんでいる。町の者が見たならば、帽子か何かを被った有翼の種族と思うのだろう。ここ農商国家は有翼の種族が多く、見慣れたものである。だが、それは確かに有翼と言える種族だが、彼らが初めて見るであろう存在だ。
(なんだかな……。人生の転機や岐路って時には雨が降ってるイメージだ)
雨の中を行くクレイン・エンダーは静かな笑みを浮かべる。
懐かしくももがき苦しんだ記憶と、忌々しくもがき苦しんだ記憶が鮮明に脳裏に浮かんできた。どちらも体を芯から冷やすような雨の日だ。忘れようもしないが、多分この先思い出す事はないのだろう。
一歩進む度に過去を振り返る。走馬灯ではなく自らの意思によって掘り返される記憶。しかし、それはクレインにとって別れを告げているようなものである。決して届かぬあの場所あの人への決別。ないとは言えない未練へのけじめだ。
この先にあるのは彼にとって死地であるのだから。
町を過ぎ広がる草原を越え、ようやく城が目前へと迫ってきた。
もうしばらくすれば見張りの兵士も見えてくるだろう。クレインは雨具を放り投げるように脱ぎ捨てその姿を雨にさらす。
二対の角を生やし黒くも光沢を浮かべる大きな翼。あの島を出て以来、一度もなる事のなかった本当の彼の姿だ。賊狩りとして行動する時でさえ一度と求めなかった力と姿。まだ島の残り香があるような気がして、クレインは愛おしそうにその角と翼を優しく撫でた。
(全力を出したとて、荒ぶる魔王と対峙して生きて帰れる保証はないな)
既に決めた覚悟をもう一度確認すると、クレインは剣を引き抜いて翼を大きく羽ばたかせる。仮に奇襲が効果を与える相手であってもこそこそと向かうつもりはない。正々堂々と正面から殴りこむつもりなのだ。
(……さあて、行くとするか)
地を蹴り力強く羽ばたくとクレインの体がふわりと浮かび上がる。更に羽ばたいていくと加速していき、鎧に身を包んだ者とて飛びついて止めるのを躊躇する速度へと加速していく。
見張りの兵士は夜も深いからか集中を途切れさせてしまった様子だ。ぼんやりとその場にいるだけに見える。そんな彼らがクレインに気づいたところで、突如の事に静止の声を上げる間もなく城門の前まで侵入を許してしまうのだった。
(まずは……)
クレインは高度を下げながら減速し、自らの足で走れる速度で着地しながら体ごと扉へとぶち当たる。これでびくともしないようなら別の進入場所を探すしかない。だが施錠はされていないようで重々しくも扉が少し開いたのだ。
すかさず体を捻じ込ませて無理やり中に入ると、驚ききっている兵士と目があった。初動で襲い掛かってこないとなると、賊が飛び込んでくるなどという事態は彼らにとっておよそ想像した事もないものなのかもしれない。
無用な戦闘をするつもりのないクレインは、再び羽ばたき広い廊下を飛んで行く。呆然と見送ってしまった兵士はすぐさま正気を取り戻して、喉が擦り切れるのではないかと思うほどの声を上げる。
「侵入者だ!! 止めろーーー!!」
不意を突かれたとは言えここは魔王の城。瞬時に警鐘が鳴り響き、通路から兵士達が集まってくる。次第に有翼種の兵士も増えていき、クレインの進路を阻んでいった。
(流石に無血で通り抜けるのは無理か)
そもそも魔王の正確な位置までは知らないのだ。勢いに乗じて混乱を与えて探索しようと思っていたのだが、あまりにも杜撰な作戦であったと苦笑せずにはいられない。
こうなってしまっては力で抗う事になる。だが、目の前にいる者達は自らの職務をまっとうしようとしているだけだ。今までクレインが奪った命とは違う。己の責務と信念に身を捧げている者もいるはず。それに剣を向けようとしているのだ。
選択した事とはどれほど気分が悪い事か。
「俺は魔王を討ちに来た! 立ち塞がるのならば切る! 命が惜しい者は、今の体制に命を捧げる覚悟がないのなら引け!」
やはり自分はあの島を出るべきではなかった。そう思うとこんな場面であっても思わず口元が緩む。今までの選択に対する後悔が生まれ、選んだ自分が情けなくなる。
一体今、どんな顔をしているのだろうか。ただ自分の発言によるものかもしれない。だが前方にいる兵士の顔に、別の緊張感を持つ様子を見るとそう思わずにはいられなかった。
一瞬の隙を突き、クレインは眼前に壁をなそうとしていた兵士達を押しのけて先へと進む。しかし既に集まってきた兵士は厚く、抜けた直後に一人がクレインを切りかからんと向かってくる。
相手も有翼種。空中で対人との戦闘はクレインにとって初めてである。更に相手は兵士。考えるまでもなく随分と分が悪い話だ。
(受け流して突破……ぐ!)
クレインの消耗を避けようとした行動は、浅はかであると言わんばかりに兵士が受け止めた。払いのける事もできず、完全に失速した上に刃を打ち合わせたバインドの体勢では宙に留まる事もできず、二人とも床へと落ちていく。
「今だ!」
どこからか一人の兵士の声が上がると、クレインの着地に合わせて周囲の兵士がなだれ込むように飛び掛ってくる。四方八方からこの物量で迫られては防ぐ事すら叶わない。
(温存したかったが……出し惜しみはできないか!)
全身に力をこめ、魔力が嵐のように吹き出し全身を駆け巡るイメージを浮かべる。すると、瞬時にクレインの体をふつふつと沸き立つものが行き渡っていった。
魔法介さず身体を強化。それが今、兵士達の目の前で瞬き一つの合間に行われたのだ。
彼らはクレインを間合いの内に捉える寸前に、吹きすさぶような魔力に曝された。これほど暴力的な魔力の知覚など、およそ体験した事のない感覚だっただろう。あと一歩、次の一歩を踏み込んで剣を振るえば、この唐突の賊を切り裂く事ができる。だが大半の兵士は、その一歩にこめるべき力を奪われていた。
一瞬の恐れや戸惑いの隙にクレインは迫ってくる兵士達を潜り抜けると、まだまだ立ち塞がる彼らに次々と飛び掛っては剣を振るっていく。
兵士達の悲鳴と血飛沫が上がる中、一人の侵入者が驚異的な瞬発力で襲い掛かってくる。それも獰猛な獣でもこれほど機敏ではないという動きだ。もはや相手が人なのかすらも疑わしい。彼らにとってはさぞ悪夢のような光景だろう。
(悪く思うな、とは言えないよな。だが通らせてもらうぞ)
それから数度、兵士達が壁となって襲い掛かってくる。クレインはその度に間隙を縫って進んでいった。大きな通路を優先して進むもそれらしい場所には辿り着けずにいる。
流石に魔王の位置を特定しないままの突入は無理があり過ぎたか。
そう後悔し始める頃になると不思議と兵士達の姿は見えなくなり、代わりに思わず体が震え出しそうなほどの威圧感に襲われた。
この先に鎮座している。寧ろそこに居るから早く来いと呼んでいるのでは、と思えるほどに隠す気のない圧迫感。どうやら迷いながらも近づいてはいたようだ。
「……少しぐらい、休憩していってもいいか」
周囲に誰かがいる気配はなく、クレインは床に腰を下ろして大きく息を吐いた。無傷の大立ち回りであったが、それは単純に強化された身体能力の差でしかない。そこに大きな技量の差のある兵士達が相手となると、無傷と引き換えになるのは体力だ。
独学というのもあり剣術は仕方ないにしても、体にはそれなりに自信のあるクレインだが、強い疲労感を感じずにはいられなかった。
(消耗を抑えるどころじゃなかったな)
しかしこれによって戦えなくなったわけではないし、よしんばそうであっても今更退くわけにもいかない。呼吸を整えると誘われる先へと向かい進みだす。
(それにしても……相手は本当に化け物だな)
肌を刺すような感覚。死の島で大型のドラゴンに襲われたってこれほどではない。世界を滅ぼさん、という気概の殺気なのではないだろうか。そもそもそんなものを普通の生物が放てるものなのだろうか。
(自分で言うのもなんだが……逸脱した存在だな)
きっと兵士達もクレインに対してそう思ったに違いない。なんとも皮肉な話である。
なによりクレインにしてみれば、疑うまでもなくこれから対峙する相手のほうがよほど度を越えていると判断できる。何故そんな相手と剣を交えようなどと思ってしまったのだろう。自らの死に、人生に箔がつく? 一瞬でその命は消し飛び打倒の打の字もなく、惨めな終わりをするのではないか?
後悔などありはしないものの、自分の考えがいかに短慮であったかを思うと再び情けなくなる。だがそれもここまでの話。城門ほどでないにしろ細かい意匠が施された大きな扉の前に立っていた。
ゆっくりと重々しい扉を開いていくと広い部屋が姿を現す。部屋の脇にはいくつもの燭台が等間隔に並べられて火が灯っている。しん、とした空間はまるで人がいないように思えるが、奥の中央には巨大な玉座に、熊の様な巨大な男が座っていた。
丸太のような腕で頬をついており、蓄えた髭は揺れる事もなくただそこに居る。今も尚、押しつぶされそうな威圧感を放っているものの、さしてクレインに興味がある様子でもない。そもそも、明かりに薄っすらと照らされる顔は、目を閉じているように見える。
(それにしてもでかい……あの島のよりもだ)
思わず背筋に寒気が走る。それこそ体格差でみてしまえば、幼き日に死闘を繰り広げたあの大熊とそう大して変わらないだろう。
クレインがまじまじと眺めていると、荒ぶる魔王ゴート・ヴァダーベンがゆっくりと立ち上がった。その姿はまるで強大な岩石のようで、王として民衆の前に立ったらどれほど人々に安心感を与えてくれるだろうか。もっともそれは善き王であるならばの話だが。
「小僧、なにをしに来た」
「……話をしに参りました」
ただの一言だけでも気圧されそうになる中、クレインは心中で渇を入れて笑ってみせる。
そしてなにも持っていない手でゆっくりと鞘に手を当て、柄を掴む仕草をしだした。それはただの振りではなく、あたかもそこに本当に剣があるかのようである。すると突如紫色の輝きが放たれると右手に柄、それが離れていく左手の先からは刀身が姿を現していった。最後に抜き放つと左手から抜けるように生じた切っ先がゴートに向けられる。
魔力を制御する中で覚えた新たな力。魔力を物質化させるもの。今のところ剣しか生み出せないが、振るえば周囲を焼き払う事も巨大な物体を切り飛ばす事もできてしまう。正直、クレインからしても手に余るもの。だが、今はそれでも足りはしないだろう。
「ほう……面白い力だ。それに道理が分かるようだな。いいだろう、存分に語り合おうではないか」
髭を大きく揺らし目じりが上がる。このクレインが生み出した光景にさえ動揺一つない様子。
死に場所を求めてはいるが自殺をするつもりはない。油断しているなら好機である、とクレインが駆け出した。まともに打ち合えば力負けをするどころではないのだ。ただの一撃を凌げるかすらも自信を持てない相手。ならばこそ、この先手必勝を逃す理由はない。
魔力の剣を両手で握り、切っ先を左下方へと向ける。フェイントもなにもない逆袈裟の構え。この剣ならば相手に防御をされたところでそれごと断ち切る事ができるだろう。その意表をつくことに全力をかける。
(ただ一太刀さえ与えられさえすれば……!)
さながら魔王の間とも呼ぶべき部屋は広い。強化されたクレインの体でもゴートまでの距離はまだ数歩とかかる。
それでも立ち止まる事はできない、とクレインは更に強く地を蹴る。が、突如猛烈な悪寒が全身を駆け巡った。それはまるで本能による警告のようで、クレインは咄嗟に構えや体勢など形振り構わず右へと跳ねる。
「ぐう!」
直後、猛烈な痛みが走る。まるで左腕が弾け散ったかのようだ。
バランスを崩したクレインは床の上を数度、盛大に転がっていく。ようやく止まるとすぐさま体を起こして左腕を見ると、前腕の中ほどから先がなく勢いよく血が出ていた。更に手にした剣の刀身も半分ほどになっている。
あの一瞬、なにが起こったかも分からぬまま切られたというのか。あまりの出来事に動転する中、魔王を見てみれば今も悠然と玉座の前で立っている。唯一違う事といえば巨大な剣を右手に握っているという点だけだ。
(あの位置から……? どうやってだ……くそ、本当に化け物だな!)
再度魔力の剣に意識を集中させて刀身を生み出していく。だが、今度はそれを待つ気もないのかゴートが剣を大きく横に薙いだ。
すかさずクレインはその場を飛びのいて地面に伏す。直後、とてもつもない速度で頭上をなにかが通過していく。少しでも体を起こしていたら、左腕のように両断されていただろう。
(剣は駄目だ! 直す余裕がない!)
柄と残っている刀身が煙のように消えると、クレインの体へと吸収されていく。これで戦うのを諦め魔力として回収したのだ。勝機などクレインには微塵にも感じられない中、限界まで身体を強化してゴートに突っ込んでいく。
その様子に荒ぶる魔王は大きく顔を歪めて剣を投げ捨てた。クレインに応えて同じステージに立とうというのだ。どこまでも戦いを好む狂戦士という事なのだろう。
だが剣一本であれだけの力を持つ相手。決してハンディキャップが科されたわけではない。むしろ懐に飛び込んでも間合いがほぼ等しい今では、その行為はそれほど有効的ではなくなったのだ。不利な条件が形を変えただけで、状況はなにも変わってはいない。
(だが、こっちには強化能力がある!)
手先に魔力を溜めて硬化させていく。握れば鉄の拳に払えばドラゴンの爪へと変わるだろう。捨て身で急所を狙わんと巨岩のような男へと飛び込む。
無論、ゴートもそれを容易に許すつもりもなく、暴風のような拳が繰り出される。それを体をよじってかわしたクレインに、激しい頭部の痛みが襲う。
「な……に?」
痛みに視線が泳ぐ中、振り抜いたはずのゴートの拳が既に彼の前で構えられているのが見える。その手にはなにか細い棒のような物が握られていた。片方の先端は鋭利でもう片方からは血が垂れている。
よろめきかけたクレインの顔の左半分を生暖かい物が湿らせていく。ここでようやく角を引き抜かれたのだと理解した。
(なんて馬鹿力……だ!)
投げ出した右足を地面に叩き込むようにし崩れかけた体を支えた。体格差から素手での先手は取られたが今はクレインからも届く。爪を立たせた手がゴートの首に食らいつこうと飛び掛る。
だがそこに到達する事もなく、すぐさまゴートはその手を払いのけると右手でクレインの首根っこを掴みその胴に深々と膝を沈めた。その威力たるや凄まじく、クレインの体が大きく浮かび上がるほどであった。
(まず……い)
一瞬にしてクレイン視界が歪む。腕に頭部、そして腹部と激痛ばかりでどこが痛いか正確に知覚できなくなってきていた。
膝を折るまいと足腰に力を入れて体勢だけは維持する。だが、反撃にでれるほどの余力もなく、腕が上がるよりも先にゴートの拳が飛んでくる。払うような拳が顔を殴打し、突き上げる拳が顎を捉える。必死に踏みとどまるも、鎧の胸元を掴まれ大男が大きく頭部を振り下ろした。
一撃が当たる度に血飛沫が跳ねて玉座の周りを染めていく。何度となく圧倒的な暴力を浴びたクレインは遂に重力に引かれるがまま、地面にひれ伏してしまった。
(これは……死ん、だな)
もはやなにも捉えられない靄に包まれた視界の中、ゆっくりと意識が消えていくのを感じる。このままでは本当に手も足も出せないまま朽ち果てるのだろう。
(なら……どうせ、だ……残った魔力、くれてやる)
沈みゆく意識の中、自分の体から魔力が溢れだすイメージを浮かべる。それは濁流となって自らの体を内側から粉々にしていくだろう。そうして部屋を満たし、魔王を飲み込み城内を駆け巡る。勢い止まらぬまま、城下町へと走りありとあらゆる物をなぎ倒し飲み込んでいく。そんな荒々しい光景を脳裏に映す。
クレインの魔力制御はイメージが確かであればあるほど明確に作用する。体内を満たし燃え上がるような想像をしてみれば身体を大きく強化した。剣へと変貌していく光景であればああして魔力の剣となる。だが今はただの魔力が暴走するものだ。なにより当の本人にはもう殆ど意識が保てていない。
ようやく動かなくなった侵入者を前に、ゴートは鼻で笑い背を向けた。彼にとってしてみれば、威勢だけであって満足するに足りる相手ではなかったというのだ。だが、爆発したかのように噴出した魔力を感じてなにを思っただろうか。かつてこれほどの力を感じた経験を、この荒れ狂う魔王でさえもないのだ。
振り返ってみれば全身から紫色の炎のようなものを発しており、肉体を正確に見る事すらできない。その上、揺らめく影の中でも分かるほどに両腕が肥大化しており、異形の姿となっているのだ。
(まだこれほどの力を……)
思いも寄らぬ展開にゴートは目を丸くする。恐らく誰一人として見た事の表情だろう。それも一瞬で、すぐさま大口を開けて満面の笑みを浮かべるのだった。
「ならば、我が全力でもって過小評価の侘びをいれようではないか!」
その言葉に反応したのか、クレインの体がゆらりと動く。
ゴートは目を輝かせて、握り締めた巨大な拳を大きな踏み込みと共にクレインへと振り下ろすのだった。
「……く」
瞼越しに注がれる光に、クレインはゆっくりと目を開ける。
随分と長い夢だった。懐かしく嬉しく……そして苦々しい夢であった。
もしかしたらこれが走馬灯というものなのかもしれない。しかし不思議な話である。なにせ死後に見るものだとは知らないのだからだ。
しかしまどろみの中にあった視界と意識がはっきりしていくと、そこがまだどこかの室内である事に気づく。随分と天井が高い。まだ魔王がいた部屋なのだろうか。
(どう、なったんだ)
全身が千切れるのではないかという程の痛みに耐え、起き上がろうとするも胴体が悲鳴を上げて体を起こす事すらできなかった。あれだけ強烈な膝打ちを受けたのだから、内臓や肋骨に異常があるのだろう。
クレインは寝返りを打ってうつ伏せになると、よろよろと右手と膝を突いて這い上がるように体を起こす。その度に走る激痛に、しばらくは立ち上がる事も難しい事を悟ると正座を崩したような座り方、鳶足の座り方をして一度呼吸を整える。
ようやく顔を上げると自分が置かれている状況を知る。しかし理解にはあまりにも程遠く、ただ呆然とその光景を見つめるしかなかった。
クレインの前には大勢の者達が片膝を突いて頭を垂らし平伏しているのだ。鎧姿の大勢の兵士から始まり、武装をしていない者も多く見受けられた。恐らく城の為政者達なのだろう。
一際目を引くのがその集団の最前列、中央にいる者だ。日の光に照らされ輝く金髪を垂らしている。伏せているが故に顔は分からないが随分と小柄、というよりも少年というべき体格をしている。
呆気に取られたまま、クレインがその少年を観察していると不意にその顔が上げられた。幼そうであるも繊細な顔つきにやはり少年のようにしか見えない。その者が口を開くと容姿を更に引き立てるであろう、清んだ声が部屋に響く。
「魔王ご就任おめでとうございます!」
まだ夢を見ているようだ。長い夢は終わっていない。だが、もしかしたらこれから見るのは、随分と暖かいものなのかもしれない。
その先に幸福というものがあるのだろうか。確かな事などなに一つありはしない。だが、自然と頬を抓ってしまっているクレインは、そう思わずにはいられなかった。




