表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
オパールの杯に乾杯を  作者: 一矢
二章 誓う者
44/185

四十二話 見えたもの

 雨の降りが強まる中、クレインは雨具に付いているフードを深く被り、荒れ果てた町を調べていた。来た時にはあがっていた火もこの雨で勢いは衰え、直に消えてしまうだろう。


 屋内の荒れ方も酷いもので、それなりの金目のものは取り尽したと言わんばかりの様子である。だが、ある一軒にだけは荷物や金品が山積みにされていた。これが噂されている集団によるものなのだろう。むしろそれを疑わない理由の方が乏しそうだ。


 一通り町の様子を見て回ったクレインは、ゆっくりと周囲を見渡した。


 町のいたる所には死体が散乱している。男も女も皆、それこそ老若男女問わずといった有様だ。中には身包みを剥がされている女性もおり、激しい暴行の跡が残されていた。


 流石のクレインでも、彼女達をこうして襲ったのは別の理由だろう事は十分に理解している。


 だが、そうした女性の拳は骨が見えそうなほどにボロボロであった。例え命尽きようと自らの尊厳を守り抜こうと必死の抵抗したのだろう。それに手を焼いたか反感を買ったか、激しい暴力によってその命を奪われたようだ。


 それが少なからず救いのある死だったのかは今となっては誰にも知る事はできない。


 ただクレインの中でかつて感じた事のない感情が渦巻くのを感じるだけだった。


「こんな事をしなければ生きられないのか……。こんなものが本当に必要だったのか……」


 怖気が走る。恐怖ではない。だが怒りとも憎しみとも、まして悲しみとも言い切れない感情が体に染み渡っていく。


 彼には理解ができないのだ。生きる為の命のやり取りしか知らないクレインにとって、この光景を受け止める事ができずにいるのだ。


 体の内側へとなにかが染み込んでくる様な不快感に大きく身を震わせた。まるで自分の中の常識を、その心の基礎となる部分を侵食されている気分だ。


(今は……とにかくここを離れ……!)


 荷物が残っているという事は戻ってくる事が前提だ。町の外に向かって早足になったクレインだが、突如その動きが止まった。いくつもの足跡が進む先へと続いているのだ。


 浅そうだが確かに広がるぬかるみに、幾つものその姿がある。


「……」


 追いかけてなにになるのだろうか。


 もしかしたら、町の人で逃げ出した人がいるかもしれない。もしかしたら、この雨でクレインにも勝機があるかもしれない。


 だが、それがなんだと言うのだろうか。


 わざわざ追いかけていくメリットはあるのだろうか。


 人助けや人命救助? 大いに結構な話だ。しかしそれは確かではない上に成功すらも危ぶまれる。


 ならばそれをこなす意味が何処にあるというのだ。


「……よし」


 クレインは大きく深呼吸をすると、掛け声とは裏腹に肩を落とす。そのまま数秒の間、雨に打たれ続け……切り裂くように剣を抜き放った。


 だいぶ強くなった雨は多くの音を隠してくれる。周囲を警戒しながらクレインは小走りで足跡を追い始めた。


 大層な大義名分などいらない。ただ思うように、望んだように行動をする。


(我ながら酷い判断だ)


 これは彼の八つ当たりだ。この町に来てから募るこの不愉快な気持ちを払拭させる。それだけの為にこうして剣を抜いて走り出した。無策の突撃をするつもりがないとはいえ、お世辞にも軽率な行動と言わざるを得ない。


 それでも足が止まる事はなく、降りしきる雨に打たれつつも森の奥へと突き進む。


 泥を跳ね上げ、水溜りを蹴り飛ばし走っていく。その背中を揺らめく水面が映していた。



「いやああ! いやあああ!」


 所々に切り株がある林の中、女性の悲鳴が響き渡る。


 悲鳴の元では八人の同じ様な鎧姿の男達が小さな崖下に集まっていた。


 近くには倒れている人々の姿がある。武器を手にした男性や女性達だが、身にまとっている物は真っ赤に染まっていた。町から逃げ出したが追いつかれ、応戦するも彼らの手によって物言わぬ姿にされたのだ。


 男達に囲まれ、長い髪を捕まれた女性が腕を振り回して暴れている。捕らえている男は面倒くさそうに溜息を吐くと、開いている左手で女性の頬を殴りつけると、女性は小さな呻き声を上げて地面に倒れこんだ。


 飛び跳ねた泥が彼女の後ろにいた少女達の靴を汚すも、悲鳴一つあげもせずにただその場で震えているばかりである。抗う気力もなく、絶望しきった様子で立ち竦んでいる。


「結局こいつ一人とガキ三人か。ガキは趣味じゃないんだがなあ」


 男の中でも一際体の大きい者が困った様子で呟いた。その男の真横にいる彫りの深い顔をした長身の男は肩を叩きながら励ます。


「残念だったな。新入りを前に出しすぎるからちょっと暴れられたぐらいで皆殺してしまうんだ」


 チラリと後ろにいる髭と髪が伸ばしっぱなしの男に視線を送る。見られた男はびくりと肩を震わして俯いた。技量が足らないのか度胸が足らないのか、抵抗する女性を何人も殺してしまったようだ。


「そいつは当面の雑用と飯抜きにするとしてさ、こいつらどうするのさ? あまり金目の物もなかったし、売っちまったほうがよくない?」


 背が低いという事もあるがこの集団ではかなり若そうな男は手を頭の後ろで組んでいる。他の男達とは違って、かなり軽そうな鎧を身に着けていた。


「久々の女だぞ。とっとと売り払うだなんて勿体ない」


 しかめっ面をする槍を携えた男が、小柄な男を睨みつけた。そう手軽に町や村を襲っているわけではないようだが随分と慣れている様子からすると、かなりの数をこなしているのだろう。


「どちらにしても雨の中で少し無理をし過ぎた。一旦、あの町に戻って暖まらないか? こいつらに体調を悪くされても面倒でしかないしな」


 金属性の大槌を担ぐ男がそう促すと、全員の視線は大柄な男に集まった。見た目からしてもこの集団のリーダーなのだろう。


「そいつらを縛って担いで来い」


 大柄な男の指示で誰ともなく素早く動き出した。小柄な男は手先が器用なのかささっと彼女達を拘束すると、他の男達が担ぎ上げ始めた。


 準備が出来たのか大柄な男を先頭に隊列を組んで移動を開始する。大槌を持った男に毛髪が薄い男とフルフェイスの兜を被る男、そして槍玉に挙げられた髭の男が彼女達を担ぎ、最後尾には彫りの深い長身の男がついている。


 町からだいぶ離れており、しばらくはこの状態の行進が続くだろう。黙々と進む中、小柄な男が口を開いた。


「そういえばあいつ、まだ来ないんだな」

「大した物はなさそうだったが、金になりそうな物でも掘り当てたのかもな」


 目の前にいる槍を持つ男が楽しそうに答えた。


 彼らは一人を町に残し、逃げ出した人々を追いかけたのだ。ある程度、売れそうな物を集め終わったら追いかけて来る手はずなのだから、よほど高価な物か量、あるいは大きな物を見つけたのかもしれない。


「あいつは別に『目』を持っているわけじゃない。期待しても落ち込むだけだぞ」


 先頭を歩く大柄な男の厳しい評価に、槍を持った男と小柄な男がどっと笑う。どうやらそれより後ろの男達には声が届かないようだ。


 一頻り笑うと二人はそれ以上の雑談をせず、再び黙々行進を続けた。


 それからどれほど時間が経っただろうか。周囲の木々と茂みが多くなった辺りで、髭の男がふと後ろの方を振り返った。この雨の中ではすぐ傍の足音もよく聞き取れないものだが、後ろにいるはずの仲間の足音が一切聞こえてこないと思ったのだ。そしてそれは正しく、最後尾にいたはずの彫りの深い男の姿がない。


「……?」


 怪しげに思うものの足を止めもせず正面に向き直る。この集団において彫りの深い男はサブリーダーのようなものであるのだ。列から離れたのならなんらかの思惑があったのだろう。末端である髭の男が意見できる相手ではない。


 それ故に更に一手を詰められる事となる。


 髭の男が喉に焼けるような痛みを感じた時、既にその体は大きく傾き倒れつつあった。


 血飛沫を上げ、泥を跳ね上げて髭の男は地面に倒れこみ、担がれていた少女が投げ出される。いくら雨によってある程度の音が遮られているとはいえ、これが聞こえない訳がない。


 前方にいた毛髪が薄い男とフルフェイスの男が振り返り、即座に抱えていた少女達を投げ出した。


「て、敵襲だ!」


 その言葉に一瞬で空気が張り詰める。己の得物を構え、周囲を警戒する。


 草木が茂る中では大柄な男ほどでなければ身を隠す事は容易いだろう。襲われた瞬間を見ていない彼らには、敵がどこにいるのか何人いるのか、一切の情報がない。


「生き残りがまだ……?」

「だとしても、もう二人やられている。隠れていた割には強過ぎないか?」


 それも隠密に、一人目である彫りの深い男を悟られずに殺したのだ。ここまで相手をしてきた町の人間とは思えない。


「……俺が前に行く」


 フルフェイスの男がゆっくりと髭の男の方に歩み寄る。後に続く毛髪の薄い男の顔がより険しくなった。


 だが次の瞬間、その男の右目に深々と弓矢が刺さった。


「ぐ」

「なんだ……?」


 一瞬の出来事でなにが起こったか理解できていないフルフェイスの男が、背後から下呻き声に振り返る。


 毛髪の薄い男がゆっくりと倒れていく姿と、その後ろにいる仲間の驚く姿が見えた。直後、脇の下から肩が引き裂かれたかのような痛みに襲われて体勢が崩れてゆく。痛みに声を上げられず、鎧の重みもあって地面に叩きつけられた。


 その影を少年が横切り茂みへと姿を隠す。彼らが予期せぬ襲撃者、クレイン・エンダーである。


「な……」

「今のガキか!? なんなんだあいつ!」


 大槌を持った男と槍を持った男が、真っ赤な池を作る二人を飛び越えて茂みに向かっていく。ここで逃がせば再び奇襲を受けるだろうと思ったのだ。


「待て、行くな!」


 それを大柄な男が止めるも、先陣を切った槍の男の体が前のめりに崩れ落ちていく。リーダー格の男の言葉もあり、目の前でその様を見た大槌を持った男が踵を返して二人の元へ駆け出す。だが茂みから飛び出たクレインに、背後から組み付かれその首にナイフが走った。


「くそっ!」


 小柄な男がナイフを投げるも、クレインは男から飛び退いて再び茂みへと身を隠した。避けられこそしたが、もしも動かなかったならば的確に急所に刺さっていただろう。


「背中を向けず戻る! 走れ!」


 大柄の男が後方を向きつつ駆けだすと、小柄の男もそれについていく。


 二人が数歩進んだところで茂みからなにかが放たれた。


「く!」


 小柄な男が身をよじってかわすと首の側面に痛みが走る。完全には避け切れなかったが、致命傷は免れたようだ。


 だがここまでの迅速さに加え、この状況下で的確に急所を狙える技量。荒事に手馴れた二人を戦慄させるには十分過ぎた。


「弓矢か……!」

「よく見えなかった! 多分矢を黒くしてあるんだ!」

「黒い矢……あいつのか」


 大柄な男が苦々しそうに顔を歪める。町に残らせた一人がそうした矢を使うのだ。たまたま同じような物を使っている、などと暢気な考えなどできるわけもない。


 間違いなくこの襲撃者に襲われたのだ。


 二人とも同じ結論に達し身を震わせる。


「篭城だ」

「ジリ貧じゃないの?」

「荷物がある場所ならしばらく持つ。ある程度開けた場所なら勝機もある」


 先ほどの場所からは随分と離れた。追ってきているにせよ、その様子が見えないとなるとそれほどの速度ではないはず。だとすれば彼らとクレインとの距離もまた開いている事になる。弓矢であっても一切避け切れない、とはならないだろう。


 その調子でしばらく進むと、走ってきた道に対して木々が遮るようになってくる。大柄な男はここぞとばかりに完全に背を向けて全力疾走をし始めた。一気に町まで駆け抜けるつもりだ。


 小柄な男は一瞬だけ不安そうにしたものの、その後を追いかけていく。


 彼らの判断は正しかったのか、それ以上の攻撃を受けることなく二人は町へ辿り着けたのだった。


 二人はある一軒へと向かい、扉の四隅が傷つけられているのを確認すると、中に転がり込むように入っていった。


 そこには彼らの荷物と町から奪った物が集められている家で、二人はようやっと大きな息を吐いた。


「くそ……なんなんだよあいつ」


 小柄な男がしゃがみ込みながら頭を抱えて呟いた。それもそのはず、この短時間で半分以上が命が落としたのだ。それも何者とも知れない上に子供と思しき人物にである。


「これからどうするんだ? 火をつけられたらどうする?」

「この雨だ。いきなり火をつけようとしないだろう。出来ればこのまま夜になってくれりゃあいいが……ダメならどこかのタイミングで打ってでないとな」


 大柄な男は冷静に荷物を整理している。具体的な作戦はまだだがその先を見据えているのだろう。


「それにしても何者なんだ……」

「さあな。ただ一つだけ言える事があるとしたら……相手が組織だって動いているのなら、俺達はもう終わりだろうな」

「……」

「まあ、あの状況で伏兵もいないのなら相手は一人だ。逃げるだけならまだ手はある」


 大柄の男は整理も終わったのかゆっくりと近くの椅子に腰を下ろす。流石に疲労の色が見え、一度深く息を吐いてみせた。だが、周囲の警戒は怠っておらず、緊張そのものが途切れた様子はない。


 その姿に小柄な男は今一度、身を奮い立たせて周囲に集中する。この雨では建物の傍まで近づかれてもそうは気づけないだろう。それもここまで自分達を追い詰めてきた相手だ。気づかせてもくれないだろう。


 会話が途切れ静かになって何分、あるいは何十分と経っただろうか。緊迫した中で時間間隔が狂っている二人には判断がつかない。突如バリンと窓ガラスが割れる音と共に、なにかが投げ込まれた。


 木の枝のような屑で作った球状の物体。そこからは煙が燻っている。


「な……!」

「動くな!」


 慌てて近づこうとする小柄な男に静止の声がかかる。


(なんだ、これは……)


 大柄な男は落ち着いて相手の意図を探りだす。


 これならばすぐさま火災にはならないだろう。


 火元を取り除きに動く事を期待しているのであれば、割れたその窓からか、突如入り口から押し入るか。流石に押し入っても刃物の間合いには程遠い。ならばどちらも矢による攻撃だろうか。


 しかし入り口の扉は施錠してある。ここまでやった相手だ、なにかしらの方法で確かめているはず。だとすればこの窓の先に敵がいる。


 ならば逆に入り口から外へ逃げ出す好機にも見えるが、これだけの事をしてきた相手。罠の一つあって然るべきと考えるべき。


 状況を整理し、対策を決めると身を屈めていた大柄な男は、小柄な男の方へと顔を向けた。


「壁際によれ。あの窓から絶対に見えない位置だ」


 二人は両側の壁へと移り静かに周囲を窺う。依然として雨の音ばかりで中からでの索敵など意味をなしていない。完全に相手の思う壺ではないかと小柄な男が不安そうな顔をする。


 そこへ大柄な男が顎で彼の傍にある階段を示した。


(お前は上から敵を探せ)


 その意図を把握した小柄な男は、表情を引き締めて強く頷いた。


 割られた窓からは階段が見えない。安全に二階に登れる上に相手はこの上下の範囲を警戒しなくてはならないのだ。決して楽なことではないし、大柄な男も相手を誘導しに動くだろう。それは大きな隙となる。


(これでお前も終わりだな)


 小柄な男がそろりそろりと階段を登り、姿が見えなくなると大柄な男も動き出す。窓の近くまで来ると、手に持った鏡を外へと向けて周囲を探る。当然ながら未だに姿を見つけるには至らなかった。


(賭けだが、やるしかあるまい)


 敵が投げ込んだ物によってこちらが動くのを待ち構えているのは目に見えている。恐れるべきは敵の次の一手だ。だが、火のついた物をこのまま放置していれば本当に火事になる。水をかけてからにすべきなのだろうが、わざわざ火をつけているのだからそこまで含んだ罠であると怪しむべきなのだろう。


 しかし、投げ込まれた物を投げつけて割れた窓から出すにはその穴は小さい。押し出すにせよ排除するには少なからずその身を晒す事になる。


 それもまた相手の思惑通りなのだろうが、それは同時に相手の注意を引く大きなチャンスでもあった。それを小柄な男に託し敵の発見と奇襲を行わせるというわけだ。


 静かに今も煙があがる巣のような塊に手を伸ばし、大柄の男の体は床へと倒れていった。



「え……!?」


 身動きが取りやすいよう屋根から回り込もうと、玄関側の窓を静かに開けていた小柄な男は思わず声を上げてしまった。追い詰められているとは言え、まさかあのリーダー格がやられるなど想像もしておらず、階下から聞こえた倒れるような音に反応してしまったのだ。


(どうする……どうしたら)


 気が動転しているものの、判断力まで失っているわけではない。だが、知略に長けるタイプでもない彼には、敵の行動が全く読めないのだ。


(この階段は外から見えない……。少しだけ、少しだけ下の状況を確認するんだ)


 そっと窓を離れて静かに階段を降りていくと、いい加減火として燃え出しそうな屑の傍で大柄な男が倒れこんでいた。


 血溜まりも見られず顔は窓の方を向いており、一体なにが起こったか理解する事もできない。ただ一つ分かっているとしたら、恐らくもう大柄な男は死んでいるという事だ。


(まずい。きっと敵の罠に嵌ったんだ。少なくとも隊長の読みは完全に敵の狙い通りだったんだ)


 絶望的な状況に小柄な男は青ざめる。どこまで相手は読んで行動しているというのだろうか。裏をかかなければ確実に命を奪われるだろう。


(ここで走って外に逃げていっても……いや、さっきの状態で隊長がしなかったという事はそれも危険だからだ。だとしたら道は、ある……のか?)


 この町の建物は密集しているわけではない。先の玄関側の窓から出て、建物を伝ってここを離れるなんて事は不可能である。だとしたら、これは恐らく完全に取り囲まれたかのような状態じゃないだろうか。


 取るべき行動が分からず微動だにできずにいると、ふと微かな音が上から聞こえ見上げる。


 黒い影が迫ってきている。なにが降ってきた。


 だがその正体も分からず何一つ対応もできず、彼の意識は途絶えるのだった。



「……」


 男へとナイフを構えて飛び降りたクレインは血を拭いながら立ち上がった。


 もうこの建物にクレインを除いて誰もいない。警戒する事もなく音を立てて二階の窓から外へと出て、地面に降りていく。他の家にあった梯子を使ったとはいえ、多少の道具さえあればこの程度、クレインなら難なく登る事ができる。よっぽど島での木登りの方が大変だったぐらいだ。


 割れた窓ガラスを更に大きく割ると、雨水が溜まった容器を床へと移りつつある火へとぶちまけた。


(試した事はなかったけども、結構強力な毒なんだな)


 倒れたままピクリとも動かない大柄な男をちらりと見る。肌の色は薄く紫がかったものになっていた。


 これまでに採取した物の中にもしもの為にと毒草も多くあったのだが、実際に使うのはこれが初めてであった。島の本による知恵だが内容以上の効力に寒気を覚える。ある意味で絶対的な信頼感を持っていては、いつか自分も足元をすくわれるのだろう。


(長居しても文字通り体に毒か)


 そこから離れた建物の中に置いておいた荷物を回収すると、町に背を向けて歩き出していく。その体には彼が持っていなかった弓とナイフが身に着けられていた。



「な、なんだ! なんなんだよお前は!」


 後方などに全く注意を払っていなかった男は、足を切りつけられ逃げ出す事もできず、クレインに剣を突きつけられていた。


「なんで町を襲っているんだ」

「は、はあ?」

「町を襲わなければ生きていけないのか? 女性を襲わなければ生きていけないのか?」

「……はっ! ヒーロー気取りか?! そんなわけないだろうが!」


 そう言うが否や、男は地面の泥をクレインへと投げつけ、地面を転がり距離を取る。そして体を起こすと同時にクレインに向けて矢をつがえて放ったのだ。


 だが、クレインは横にそれてかわし、剣を振り上げて男の腕を切りつけた。


「ぐあ!」


 弓を取り落とした男は蹴られて、地面に頭から突っ込んでいく。そしてその頭部は力強くクレインに踏みつけられた。


「道楽や快楽の為に襲ったんだな」

「ま、待ってくれ! それもそうだが金も必要なんだ!」

「避けはしたけど……弓の腕、いいじゃん」

「え……?」

「金の為とは言えこんな事でなければ得られないのか?」

「……」


 男は答える事も身じろぎ一つする事もできなかった。自分を見下ろすものの存在が発する殺意が、一切の抵抗も許されない環境がそうさせていたのだ。


「……」


 しかし沈黙が続くばかりで動きが一切ない。緊張が続く中、男が一瞬だけ気を緩めた。


(もしかして、見逃……)


 希望が見えたように思えた瞬間、頭にかかる圧力が消え強い衝撃と共に視界が反転していく。それらが収まるよりも先にその視界は暗転していき、遂に男が状況を理解する事はなかった。


 クレインは体を屈めて男の体に触れていく。弓とナイフを回収して立ち上がると、足元の泥が赤く染まっていた。


 見下ろす彼の淀んだ瞳に、それはどう映っているのだろうか。



 その目が一度、町を振り返った。


 今や無人の町。もしかしたらクレインが助けた四人が帰ってくるかもしれない。二人に逃げられた後、一度引き返して彼女達の拘束を解いて町に戻ってきたのだ。だがこの凄惨な状況の中、本当にこちらに戻ってきているのかも分からない。


「これが世界か……」


 クレインの目には酷く湾曲して見えた。


 あの生きる為に戦う世界が、死の島での生活や在り方、あそこにいる命ある者達の生き方が酷く純粋で真っ直ぐなものに思えるのだ。


(歪んでいる……だがそれは彼らだけの問題ではないんだろう)


 振り返った足元には水溜りが出来ていた。とうに雨の寒さで足の先の感覚は麻痺しているのだ。そこに足を突っ込んでしまった事にも気づいていなかった。


(この世界は歪んでいるんだ。そしてそれに内包される俺達もこうして……)


 死の島が楽園に思えた。望郷によるものだと思った。


 だが何一つ違わなかったのだ。世界から隔離されたあの孤島にいられたら、どれほど幸せであっただろうか。


 クレインは自らの姿を絶え間なく波紋が広がる水面から見つめていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ