三十九話 上陸
「見えてきた!」
一面に広がる青い世界。散らばる雲と千切られた波だけが全く異なる色を持っている。
島を出てどれほど経っただろうか。一心不乱に飛び続けたクレインの目に、ようやく陸地が見えてきたのだ。
大陸まではもうすぐ。と言いたいところだが、上空からその姿を視認できたに過ぎず、距離にしてみればまだまだ先は長い。だが空と海しか見えない中をひたすら飛び続けてきた彼には、手を伸ばせば届く希望の光のように輝いているのだった。
「あと少し! もう少しだ!」
力強く羽ばたく。
クレア曰く、自分達のような人の姿であっても長時間の滑空飛行ができるのだという。だがクレインにはまだそこまでの技量がなく、こうして頻繁に羽ばたかなくてはならない。
その分体力を消耗する事になり、既にクレインの息が上がってきていた。
「出発する前に二つ。必ず生き残る事。これは分かっているね?」
「うん。食われちゃうもんね」
「いや、まあうん。そこまで弱肉強食の世界じゃないんだけども……まあいいわ。もう一つ、普段はその角と翼の姿で生活しないこと」
「見られるとまずいの?」
「あの姿だと魔力の消費が大きいみたいだし漏れてもいるみたいなのよ。坊やの場合は魔力が枯渇した時にどうなるか分からないしねぇ」
「普通の人はどうなるの?」
「当然魔力を使うことはできなくなるし、体調も崩しやすくなるわ」
「え? 体調も?」
「魔力を多く保有するという事は、魔力そのものが生命活動に大きく関わるんでしょうね」
「ふーん」
魔力を持っていても魔法が使えるとは限らない。それこそクレインが良い例である。だが、それが無駄であるかと言えば全くそうはならないだろう。
大量の魔力を保有している。それだけでその種族は生命体として一つ秀でるポイントとなるのだ。だがそれは同時に、おまけのように付属されたものではなくなる。元から蓄えられているものが枯渇すれば、心身に障りが出てもなんら不思議ではないだろう。
「じゃあどんな時ならこの姿になっていいの?」
「必要な時になったら、かしらね」
「空を飛ぶ以外に必要になるのかなぁ……」
「もっと魔力の扱いが上手くなった暁には、その姿になるだけでも大きな武器になるはずよ」
今も漏れ続ける魔力を制御し、活用できたとしたらどれほどの力になるだろうか。どのような力になるだろうか。それはクレイン自身が生み出すものである。何者かに師事して技や術を教わるか独学で形にするか。どちらにせよこの先に定まった形があるものでもなく、クレアにもいくつかの可能性を予想できるだけで確かな事など何一つ言えないのだ。
「さあ、行ってらっしゃい。たかが一年や二年で帰ってこないよーに」
「……後ろ髪引かれる想いなのにそういう事言うの?」
「湿っぽいのは嫌いだよ。さあ行った行った。大陸までは長いんだから落ちないでね」
「怖い事を言うなぁ。ヘマして墜落はないけど体力的に問題ないかは分からないんだよ」
一度、大きく翼を広げる。
若々しい萌黄色を背景に黒い羽が輝いている。今ではこれで島を何週も飛べるほどにもなったのだ。しかしこれから飛ぶのは水平線しか見えない彼方。光り輝く空のはずだが、いざ踏み出そうと言うのであれば、一寸先も見えない闇にも似た恐怖を抱く。
「今の坊やならきっと大丈夫。自信を持って胸を張る!」
「安い励ましだなあ……」
それでも翼に篭る力が一段と上がる。
クレインにとってクレアの言葉一つですらそれだけの力がある。クレインが見る世界を構成するものの中でクレアはとても大きいのである。
その力でその世界を飛び立とうとしている。望まれ、自身でも選んだとはいえ、そこに迷いがないわけではない。ここでの生活に未練がないわけではない。それでも、飛び立つのだ。
「行ってきます」
「ええ、行ってらっしゃいな」
柔らかい笑みで送り出される。だが、すぐ僅かに顔を歪ませた。
「本当に……辛くてどうしようもなくなったら帰っておいで」
「……一体どっちなのさ」
「坊やには外の世界を知って学んで欲しい。でも、心が折れてしまったり壊れてしまうぐらいなら……あたしは帰ってきて欲しい」
目を逸らして呟くように語る。それはきっと誰かの望みに反するクレアの思いなのだろう。
言質を取った、などとは思わない。ただ押すばかりでなく引いてくれる言葉があったからこそ、クレインの顔から迷いは消えた。
「うん、そのうちには帰ってくる。行ってきます」
返事を待たず力強く飛び立つ。速度を上げ、ぐんぐんと高度を上げて青い世界へと向かっていく。小さな体には似合わない巨大な翼は雄々しく羽ばたき、空に映える黒い姿は小さくなっていった。
どこまでも飛んでいってしまいそうな力強い光景だ。
「空の果てまで……飛んで行きそうねぇ」
クレアは寂しげにその姿を眺めている。やがて点となり、それすらも見えなくなっても、その場を離れることもなく青い空を見つめ続けた。
「ちゃんと、生きて……それで……」
それ以上の言葉はなくただ見送り続けた。
「はっ!」
うつ伏せの状態のクレインが勢いよく起き上がった。全身はベトベトとしており砂まみれ。口の中もジャリ、という不快感があり塩辛さが残っている。
「うえ、ぺっぺっ!」
吐き出すように口内の異物を取り除こうとするも、だがいつまで経っても砂が残り続け、もどかしさと苛立ちを募らせる。おまけに喉はからからに乾いていた。今すぐにでもバケツいっぱいの水を飲み干したいほどだ。
「……力尽きて、落ちたのか」
まだまだ色濃い疲労が残る体で立ち上がった。あと何kmもなかっただろう地点で失墜し、海に落ちたところまでは記憶している。高所から落ちて海に叩きつけられた衝撃で気絶してしまったのだろう。そんな状態で生きて流れ着けたのは運がいい。
既に日は暮れつつあり、辺りは赤く照らされている。周囲を見渡しすと人はおらず、自分の周りにそれらしい漂着物もなかった。
(荷物は……まあないか。このあたりは誰もいないのか?)
浜辺が続いており家屋のような人工物が見当たらない。砂浜から離れたところは木々が生えているが、今からしっかりとしたシェルターを作るとなると、日が完全に落ちても完成はほど遠いだろう。
(あるのは鉄クズから作った剣と鎧。身に着けていた小道具と食料は……しょっぱそうだなあ)
必要な物を絞り、可能な限り軽量化したとはいえ少なからずあった食料を入れバックを失ったのは非常に手痛い。
(今日は凌げるだろうけど、明日は食料を集めないとか……いきなり前途多難だけども)
木々へと向かって浜辺を歩き出す。道中、落ちている流木を拾い上げ、乾いているものだけを選んで持っていき野営場所と定めた地点に集めていく。
本当に簡素で潜り込むだけの高さしかないシェルターを作り、火を起こして心細い夕食にありつく。炙った干し肉を齧るもクレインが心配した通り随分と塩辛く、眉間に皺を寄せて食べ続けた。
春とはいえ夜はまだ寒い。葉や草を集めただけの寝具に潜り込み、ゆっくりと目を閉じると体から蒸気が出るような疲労感を覚える。
久しぶりの貧しさと言っていいだろう。だが、クレインは特段苦しさを感じる様子はなかった。それもそのはずだ。久しぶりとはいえまだ恵まれているほうなのだから。
(『初め』の頃に比べれば気楽なもんだ)
やがて意識が白い靄に包まれていく。初めての大陸。その感動はなく、上陸一日目が終わろうとしていった。
上陸してから既に二週間が経つ。
漂着した浜辺周辺を拠点とし、食料の調達や周囲の探索を続けてきた。島での生活と大差ないようにも見えるが、ここに留まるつもりのないクレインはその合間に道具をこしらえたり、上空へと羽ばたいては遠方の確認を行ってきたのだ。
幸か不幸か近くに人が暮らす場所もなく、このあたりで漁をする者もなく誰とも出会う事はなかった。もしも身近に人がいるのなら、こうして空を飛ぶのは憚れていただろう。
(とりあえず進むべき方角は確認できたけども大丈夫かなぁ)
最寄の町でさえ歩いていくには随分と距離がある。そこからは街道を通じて旅をすればいいだろう。塩を作り干物を作り、町までの食料は問題ないだろうがその先は今の蓄えだけでは到底足りはしない。暇があれば分かる範囲で薬を作ってはいたものの、これに価値が付くかは分からない。もし作ってある薬が民間療法の領域であるのならば、売れるかを尋ねるだけでも恥ずかしい話である。
(これがお金にならないのなら、働くしかないけども……そんな都合のいい話もないだろうしなぁ)
空にはまだ太陽が見えず、薄っすらと明るくなってきているに過ぎない。干物を炙る焚き火を頼りにクレインは荷物をまとめていく。
これ以上は物を持っていけないのであればここに居続ける意味は非常に薄い。この朝食をとったらここを発つつもりのようだ。
(二週間……ここには世話になったなぁ)
準備を終えたクレインは感慨深げに熱々の干物を口にする。とは言え、元からここより出立する為の準備と割り切っている場所だけに、名残惜しいという事もないようだ。むしろ島での生活で拠点を放棄する、という事に慣れてしまったのかもしれない。
これから先、近辺に川はなくしばらく魚を食べる機会はないだろう。ゆっくり朝食を味わうと、クレインは砂をかけて焚き火を消した。
これでここでやるべき事は全て終わった。一瞥くれる様子もなく、クレインは背を向けて内陸へと歩き出す。
まだ日は見えないものの随分と明るくなった空の下、クレインの本当の旅が始まる。話こそ聞いているがそれも古い情報だという大陸。完全でないものの未知の世界へと進んでいった。




