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オパールの杯に乾杯を  作者: 一矢
二章 誓う者
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三十八話 いつか触れるもの

 空は重たそうな鈍色の雲で覆われており、地表はすっかり白く染まっていた。都会ならば周囲の光が反射させして、夜でも随分と明るいものなのだろう。しかし島は暗く、多くの生き物が暖かい春や寒くも明るい朝を夢見て、身を縮こまらせて時が経つのを待っていた。


 そんな中でただ一箇所だけ煌煌と明かるい場所がある。島の中央に聳える山の中腹だ。


 中では薪が爆ぜる音をBGMにクレインが難しい顔をして本と睨めっこをしている。そして彼の正面に座るクレアは苦笑しながらその光景を眺めていた。


 クレインにとって三度目の冬がやってきたのだ。しかし今までの生活とは打って変わって、お勉強の日々が続いているのだ。



「勉強?」

「そうよ、大陸に行くには大陸での常識を学ばなければならないの」

「うわあ、一層行きたくなくなるなぁ」

「仮に出て行かなかったとしても、流石にいつまでも原人みたいな感覚だけで生きていかれるのはお姉さんも居た堪れないわぁ……」


 クレインの不満そうな言葉に、随分とトーンの落ちたクレアの言葉が返ってくる。冗談ではなく本当に不憫に思っているようだ。ここまで言われたらクレインも嫌がるわけにもいかない。


「どうやって勉強するのさ。全部クレアが教えてくれるとか?」

「うちにも本があるからね。持って帰って読み込んでもいいけども……サボりそうだしうちに来て勉強会がいいか。飛ぶ練習にもなるし」


 たどたどしいものの、飛ぶ事はできるようになったクレイン。しかし、この島で飛べぶ、というにはまだまだ未熟であり目下練習中であるのだ。そんな状態でクレインとクレアの家の往復をさせようというのだから、やはり随分とスパルタである。


「んーまあここら辺の本は解説も必要ないくらいに基本的なものかなぁ。これはちゃんと自分で読み込んでおく事。秋の終わりぐらいから勉強会かな?」

「しかも寒くなってからか……」

「季節問わず飛べるようにしないとねぇ」


 やはりスパルタだ。


 本格的に冷え込んでくるまであまり時間はないだろう。クレアの性格からすれば、渡された本の内容を確認するテストぐらいありそうなものだ。読書も飛行訓練も十分に行わないと、痛い目を見る事は容易に想像できてしまう。


「……この本、やっぱり『あの人』が書いたものなんだ」

「流石にあたしは文字を書くのは苦手だからねぇ」

「いつか、ちゃんと全部話してくれるの?」

「んー……まあいつかは、ね」


 クレアは少しだけ寂しそうな顔をする。まるでその日が来なければいいと思っているかのようだ。


 そんな様子を見てしまっては、クレインもそれがいつなのかなど追求する事もできずに、分かったと頷くしかなかった。



「大陸にはいくつもの国があってそこの長、王様の事を魔王と呼ぶのよ」

「魔王……?」

「遥か昔は魔族や魔物を統べる者、束ねる者として魔王と呼んだって話。それが続いているのよ」

「ふーん……魔王ってどういう事するの?」

「国のトップだからねぇ。色んな事の最終決定権を持っていたりするから、書類仕事をしたり他国との外交だったりかしらね」

「地味だなぁ」


 クレインの中ではもっと煌びやかなイメージがあったのだが、現実はそうでもないようだ。


「あたしもそこまでよく知っているわけじゃないしねぇ」

「別世界の人、みたいな?」

「んーすごく身近ではあったのよ」

「魔王と?! すごいじゃん!」

「ただ、その人は特殊で一般的な魔王として見るのもなーって感じの人なのよ」

「破天荒とか?」

「むしろ庶民派、かな?」

「そんな人でも務まるんだ……」


 いまひとつイメージを掴みにくいらしく、クレインは首を傾げてみせる。ただでさえ贅沢をするイメージであったのだから、庶民派と言われたら混乱さえもするようだ。


「まあ、あんな人だからこそ、ていうのもあったのかな。いっぱい人がいる分いざこざも生まれる。それを上手く捌いていたわけではないけども、皆は彼の言う事をしっかりと聞いてくれていたからねぇ」

「なんだか、外の世界って面倒そうだなぁ」

「坊やは……うーん、そう思っちゃうよなぁ」


 弱肉強食の世界。協調性などヒトとしての部分が失われているわけではないものの、クレインの考え方はかなりこの島に染まっているのだ。


 事実、いざこざと聞いてクレインが思ったのは張り倒せばいい、であった。


「でも、この程度で面倒がっちゃあダメよ。国によっては敵対している国もあるの。戦争って分かるかしら」

「なんとなくは。今でも大陸じゃ戦争をしているの?」

「あー……あたしもここでの生活が長いから、大陸の内情までは分からないのよねぇ」

「えっ? そうなの?」


 修繕を行っているとはいえ、クレアの家も置いてある家具もところどころに年季を感じられる。それを考えれば、決して短くない時間をここで過ごしているのが窺えるのだが、まさか内情が分からないというほどの時間だとはクレインも思っておらず少し驚いている様子だ。


 種族によって成長速度が違うのはクレインも知っている。お姉さんの風貌のクレアは一体何歳だというのだろうか。決して聞けはしないのだがより一層謎が深まった。


「ただまあ、あんまり大げさに争う事はないと思うんだよねぇ。あたしが大陸にいた時点で多少の小競り合い程度だったし……よほど情勢が悪くなってなければ、の話だけど」


 翼を頬に当てて溜息をつく。小競り合い程度と言えども、色々と面白くない事もあったようだ。


「そんなところに僕を送り込むのか……」

「ええそうよ」


 嫌味に対して帰ってきた言葉はあまりも透き通る声だった。思わずクレインはビクリと体を震わせる。


「……もしも荒れていたら、過酷な環境だと思う。でも、坊やには知って欲しい。その上で、選択してほしいの」

「……」


 切実そうな願い。クレアとて心から望んで大陸に行かせたいわけではないのだろう。


 クレインは自分の軽率な発言を後悔しつつ、気まずそうに頭を掻いた。


「ちゃんと行くよ。その為の勉強だし。だからそんな顔をしないでよ」

「むう……坊やに気遣われるのはなんか癪ねえ」

「なんで悪く言われるんだ……じゃあ話を戻すけども、魔王ってどうやって決められるものなの? やっぱりその子供からとか?」

「世襲制、ね。大きい国だとそれだけども、国の人達で選んで決めるって方式もあるのよねぇ」

「へえーそれじゃあいきなり魔王に、なんて事もあるんだ?」

「流石に知名度が低い人はならないかな。例えばさ、もっと国の中心で働いていて有名な人とか、魔王を目指して国の為に貢献してきた人とか」

「ああ、なるほど」


 納得している様子にクレアは目を細める。ほんの僅かに迷いを見せるも、意を決したのか体を前のめりにしてクレインに顔を近づける。


「魔王にでも、なりたいの?」

「まっさかー。ただ知っておいたほうがいいと思ってさ。だって、これ知らないとか田舎者どころの話じゃないでしょ?」

「あ、ああ……そういう事ね」


 クレアは胸に溜まった空気をゆっくりと吐き出す。


 明らかに安堵する様子に気づかないはずもなく、クレインは困惑した様子で口を開いた。


「僕が王様になりたいって言ったらまずい事なのかな」

「あー……」


 ギクリ、と自らの失態に気づいたかのようにばつが悪そうなクレア。今までその心の内を見せようとはしてこなかったが、クレインの出立の準備が始まってからは隙が多くなってきた。特に今回のはあまりにも大きなものである。


「はあ……あたしもまだまだだなぁ」

「聞いてもいいの?」

「あんまり答えられないけどもね。坊やに魔王になりたい、て言われたら……正直怖いな」

「え? 怖い?」

「不安になるっていうのかな。坊やが望むのなら挑戦すべきなんだけど、あたしはその道には行ってほしくない」

「頼りないからとか?」

「……」


 クレアは言葉を選んでこそいるものの、普段の会話のテンポであった。だがそれが不意に途切れる。言葉に困る、というわけではないようだ。それどころか、少し眉をひそめて悲しげでさえある。


 これ以上踏み込んではいけないのではないだろうか。そう思うもののこの状況で変える話題も思いつかず、ただ気まずい空気の中でクレインは静かに耐えるように待つしかないのだ。


 まるで時が止まったかのよう。一秒があまりにも長く感じられる。だが、それを終わらせたのはクレアだった。


 困った様子で苦笑いをし、そっと目を伏せる。


「分からないんだ。色んな事が分からない。だから怖いんだ。坊やが魔王になって待ち受ける苦難がどれほどのものなのか。そしてそれが耐えられるものなのか。なにもかも分からない」


 ゆっくりとクレインの顔を見る。いつもの笑みはなく真剣な表情だ。


「辛いし重いよ……上に立つというのは」


 搾り出したかのような言葉は、本当にクレインに向けられたものであるかも定かではない。ただ、重々しくてクレインの胸に深く刻み込まれる言葉だった。


 それ故に彼女の過去に凄惨さが含まれる事を知る。そしてきっと自分にとって一切無関係ではない事も。だが、いつかが来るまで明かしてはもらえないのだろう。


「だから、僕は魔王になる気はないって」


 ならばこそ、今はこの事に触れずそっとしておこう。少しでも長く、クレアには笑顔であってほしい。その笑顔を見せていてほしい。穏やかな時間をより長く共有させてほしい。


 もはやなにを隠すべきかも見失っているのか、クレアは露骨にはっとして焦りだす。しまいには、茶を淹れようと席まで立ったのだ。一度落ち着いてリセットしたいのだろう。


 いつもは頼れるお姉さんであるクレアが可愛らしく見える。今はそれだけでいい。それ以上、踏み込む必要はないのだ。この先は多くを学んで、帰ってきた時でいい。そのいつかに、全てお預けにしておけばいいのだ。


 二人の様々な重いが巡る中、夜は静かに更けていく。


 春はまだ遠い。だが必ずやってくる。クレインの旅立ちもまた、同じ事である。

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