三話 魔王の旅立ち
エルナの私物が運び込まれ、支度を進めている中、一度別室に移った男二人が額を着き合わせていた。
「という訳で、しばらく人間の大陸に行ってくる」
「勝手な事をぉ……」
側近の立場であるはずだが、カインはギリギリと歯軋りをしつつ、魔王の襟元を引いて自らの額をゴリゴリと魔王の額に押し付けていた。
「痛いんだが……」
「痛くしているんですよ。大体なんですか、あれは。急に悪役気取りですか? 思春期ですか?」
「いやだってあれだぞ? 憎悪が半端なかっただろ。誤解があるとすればそうは解けないし、探る必要があるのは事実」
「……確かに、変に言い繕うよりはスムーズかもしれませんが、心証が悪すぎて誤解も解けないのでは?」
「それはこれからの努力次第だな」
努力と言っても、人間を脅かしている事への確かな否定がなければ始まらないだろう。ならばそれは、言葉よりも証拠のほうが圧倒的有力。あちらの大陸に行ってそれが果たせるのだろうか。
正直なところ、カインはこの件は失敗という意味で終わった、という気分になっている。
「それと、流石にこれは他が黙っていませんよ」
「適当にあしらってくれ。戻ってきてから俺が動く」
「当たり前の事を、なにを偉そうに言っているのですかっ」
更にゴリゴリと押し付ける。魔王は少しだけ軽率な発言だった事を悔いるも、他に思いつくものもなく、一切反省はしていなかった。
「とにかく、俺は南の大陸を見てくるから任せるぞ」
「……分かりました」
ようやく諦めたのか、カインは溜息一つと共に身を引いた。溜息をつくと幸せが逃げると言うが、それが事実ならこの魔王が就任して以降、カインの幸せは随分と駆け足で逃げていっている事になるだろう。
「出兵は間もなくできるかと。船の方はまだ時間がかかりますが、港へ着く頃には終わっているでしょう」
カインが資料を片手に、魔王と打ち合わせを行いながら、エルナの元へ戻ってきた。ちょうど話している内容が、より一層エルナの気を重たくさせる。
(倒せないどころかこんなにも早く、それも奴隷として戻るのか……)
どんな顔をして、と呟いた。ただ、その瞳の光は失われていなかった。ご丁寧にエルナの私物は全て返された。剣も含めてだ。一度、鞘に触れてから、こちらを気にする事なく話し続ける魔王を見据える。
(精々隙を見せていろ。卑怯だろうとなんだろうと、必ずお前を……)
着々と準備が進み、その日の内に馬車で出発。翌夕方までには港に着くだろうとの事で、今は各自が分担し、野営の準備を始めている。
「当たり前のように野営か」
王の立場なら野宿など嫌がりそうなものだが、と思うエルナの胸中に反して鼻歌交じりにテントの用意を行う魔王。思わずその背にエルナは声をかけた。
相変わらず読めない行動に、逆に自分の心に隙ができるのを感じる。だが、それが餌をつけた釣り針になってくれるのなら、と敢えて受け入れる事にしたのだ。
「一人であれば今頃、港の宿にでも居たのだろうがこの人数の移動だ。致し方ない事だろう」
「で、テント張りか」
「人数が過剰にいるわけではない。空いている手を使わぬ理由はなかろう」
至極最もな意見ではあるものの、エルナにとってはイメージしている魔王という存在からはずれており、それが歯にものが詰まっているようで、どうにも不快感を募らせる。
「そういえば」
今度は魔王から声をかけられ、エルナは不快感から目を逸らして魔王に視線を合わせた。
「一人で来たらしいが、一体どのようにして海を越えてきたのだ」
「ああ……小型の船を使って渡ってきた」
「船? ああ、不審船が停泊していると言う報告を……待てよ」
納得しかけた魔王は記憶を手繰り寄せる。作業の手を止め、エルナに振り返った。
「随分と小さい船だと聞いたが間違いないか?」
「ああ、恐らくそれだろうな」
「沖合いで漁をする船ですらないと聞いていたのだが……。よく海を越えようと思ったな……」
魔王は呆れと驚きを隠せない表情で、あどけなさの残る顔をして鎧を纏う目の前の少女を見つめた。自信家なのか、恐れ知らずなのか。あるいはただの楽観家か。退くに退けない状況であったとはいえ、満身創痍であっても立ち向かってきた事を考えれば、きっと彼女は強かなのだろう。今のところ、中々談笑などできない魔王にとっては、彼女を知る貴重な情報である。しかし、それとは別に気になる情報にも気づいた。
「まともな船を提供する者や、協力してくれる者はいなかったのか」
「共に旅をした仲間はいる。ただ、流石に海を越えようという話には猛反対を受けたから、こうして無理をしてでも一人で来た。仲間でさえそれだ、他人で協力する奴なんていないよ」
エルナは悠長に喋っているが、その目は僅かに鋭さを残して魔王を見据えている。彼女にとって魔王討伐はまだ続いているのだ。今はただ魔王と言う存在を少しでも理解し、如何なる時を狙うかを謀っているに過ぎない。
(彼女は魔王を討つ命を受けた者なのに、周りは非協力的なのか)
彼女の思いも他所に、魔王はまだ見ぬ南の大陸の姿を探っている。
これから向かうところは一体どんな世界なのか。様々な事への期待や関心が湧くのも当然の事。しかし、それを決意と覚悟でもって臨んだ彼女が知ったら、馬鹿にしているのかと激昂しそうな話である。
「まあ、帰路は魔王がいるんだ。船もその道中も問題ない航行になるんだろうな」
南の大陸において、全て魔物は魔王の配下であるものと考えられている。ならば、海の魔物の襲撃を恐れる必要もないのだ。だが魔王はと言えば、煮え切らない態度を見せた。
「まあ……臆する事はないな」
その微妙な空気にエルナは軽く首を傾げた。
捕らえられてから数日、オークションまでの間は質素で冷たい食事が提供されていた。そして今、日持ちのしない食材で作られた鍋が、目の前で湯気を上げている。エルナにとって南の大陸を離れて以来の暖かい食事だ。
葉物の野菜を味わったり、ごろりと入っている肉を見つければ顔を綻ばせる。そんな無邪気な振る舞いを見た兵士達が、頬を緩めているのにはまるで気づかずに、エルナはひたすら食事に集中し、味を堪能するばかり。誰が見てもそれはとても和やかな雰囲気だった。
談笑こそしなかったものの、満ち足りた夕食に英気を養ったエルナは、明日に向けてゆっくり休むだけだった。だが、そこへ魔王が顔を出した。
「何か用か?」
寝支度を進めているエルナは冷たい視線を差し向ける。だが、魔王はお構いなしといった様子で、窮屈そうにその場に座った。
エルナが使うテントは、女性二人ならまだ余裕をもって眠れるだろうという大きさ。流石に鎧を着込んだ男が一人いるだけで、急激に圧迫感が増していく。せめて鎧を脱いでくればいいだろうに、とエルナは胸中で呟いた。
「ごたごたとしていて、まだ名乗ってもいない事に気づいてな」
「……必要か?」
「不要か?」
「お互い、名前で呼び合う間柄じゃないだろ」
「ふむ、なるほど。それでは仕方がないな、呼ぶ時には性奴……」
「エルナ・フェッセル!」
とんでもない呼び方をされそうになり、被せ気味にエルナは答える。一瞬だけ、捕らえられた時に名前ぐらい答えておけば、冗談でもこんなふざけた呼称をされなかったものを、と僅かに後悔をした。
「エルナか、良い名前ではないか。改めて、私はクレイン・エンダーだ。どうとでも呼ぶといい」
魔王が人間の名を褒める? 何を考えていればそうなるのだろうか。やはりエルナには、魔王ことクレインという男をそう簡単には理解できない存在である。
「エルナはもう休むのだろうか?」
早速名前を呼ばれ、エルナはどす黒い塊が胸から上がってくるような感覚に襲われた。それを無理やり飲み込みつつ、あからさまに渋い顔を作ってみせる。
「……嫌か」
「当たり前だろう」
「ふむ、では仕方がないな。フェッセルさん」
今度は大量の虫が背筋を這うような怖気に襲われた。それはもう、名前を呼ばわれるよりも酷い不快感である。
「待て、それは駄目だ。止めろ」
「こちらの方がよほど嫌そうだな……」
思いがけない反応に、クレインが困惑気味に訊ねる。エルナはしばし考え、ゆっくりと口を開いた。
「何ていうか、他人行儀過ぎる。いや、それでいいはずなんだけど、社交辞令的と言うか……。ビジネスライクの関係があるみたいで、それはそれでなんか凄く嫌だ」
つっかえつつも、できるだけ言葉にしていくエルナ。だが、唐突にはっと手を叩く。
「あとあれだ。魔王というイメージから対極過ぎるんだ。だから酷い違和感があって余計に気持ち悪いんだ」
「そうか……ではフェッセルでいいのだな」
「……いや、やっぱり名前でいい。家族丸ごと侮辱されている気分になる」
「ああ、そう……」
重ね重ね酷い言われように、クレインは顔をしかめてこめかみに手をやる。軽く溜息をつくと、顔を上げてエルナを見つめた。
「それとだな。エルナの立場を考えれば、言わんとする事は分かる。だが私は仮にも束ねる位置にいるのだぞ。礼節のない存在なわけがなかろう」
エルナが酷く感心した表情を見せると、クレインの顔が今度は渋そうなものに変わっていった。
彼女にしてみれば、クレインは悪の象徴のようなもの。しかし、言われてみればその通りで、至極もっともな話なのだ。
「そうか……そうだよな」
一人納得して、頷いている彼女にやや呆れた様子のクレイン。それに気づいたエルナが、ややばつが悪そうに居直る。
「それだけの為にわざわざ来たのか?」
「あとはこちらが聞いてばかりであったからな。これからいくらでも時間があるとは言え、エルナの方から聞きたい事などはないだろうか、と思ってな」
「聞きたい事か……」
エルナは軽く腕を組んで考え始める。ないと言えば嘘だが、果たして答えてくれるか。そんな様子に、聞いていい内容の範囲について悩んでいるのだろう、と考えたクレインは両手を広げておどけてみせる。
「何でも聞くといい。分かる事であれば答えてやろう。だが、細かい財政とかはノーだ」
「……仮に自由の身だとして、あたし一人であそこの経済に打撃を与えて転覆できるとでも思っているのか」
「いや、詳細が答えられないだけだ」
「おい、束ねる位置」
こういうところがあるからよく分からない。エルナは頭をかきながら、胡散臭そうにクレインを見つめた。それともこれは彼の余裕の表れなのだろうか。
「じゃあ、どうしたらお前は死ぬんだ?」
「致死量の血を失ったり、相応の傷を負えば死ぬだろう」
「……どういう毒が効く?」
「それは試した事がないな。というよりも、そんな事しか思いつかんのか」
それは死んでくれればどんなに嬉しいか。むしろそれ以外に何が必要だろうか。
うーん、と考えるエルナは、ふと頭の片隅に追いやっていた事柄を思い出す。
「そういえば、お前もそうだけど普通に人の姿の奴も結構いるんだな」
「なに?」
「いや、南の大陸は動植物を元にした魔物ばかりだろ。あれって尖兵とか先遣隊とかって事なのか?」
「……」
南の大陸と北の大陸。エルナが想像した北の大陸こそ、今まで戦ってきた魔物が闊歩するものだと思っていたが、実際は人間の姿に近い者ばかりがいる世界だ。
それどころか、この魔王であるクレインという男は、姿だけで言えば人間そのもの。打倒魔王の思いを取り除いたとしたら、この事ばかりが思考を占領するのも仕方がない話だ。
だがクレインはと言えば、沈黙したまま口を開く様子がない。何かまずい事を聞いてしまったのか、とエルナは少し身構える。
「……説明が面倒だな。まあ、そういうものだと思っていてくれればいい」
「あ、そう……」
返ってきた答えにエルナは、強張った体から急速に力が抜けていくのを感じる。この男と真面目に話しても、時間の無駄なんじゃないだろうか。エルナはそう思わずにはいられなかった。
「もういい、休みたいから出てけ」
「そうか? ではまた明日、おやすみ」
クレインはそう言うが早く、テントから立ち去っていった。
「……おやすみ」
とうに居なくなった背中へ、エルナは困惑気味に挨拶を返した。