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オパールの杯に乾杯を  作者: 一矢
二章 誓う者
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三十七話 空に向けて

「これが……僕」


 風も穏やかなある日のこと。島にある大きな湖は波立ちもせず静かなものであった。湖面には千切られたかのようないくつもの雲が浮かんでいる。


 湖の端の方には小さな島のような陸地があった。湖岸からそこまで転々と石が水面より顔出している。簡易だが橋のつもりなのだろう。そんな周囲が水で満たされた場所にクレインは立っている。


 だが、その姿は異様なものだった。黒い色をした羽を生やしているのだ。黒といっても光沢があり、僅かながらも日の光を浴びてキラキラと輝いており、カラスを彷彿とさせるものだった。更には額に一対、耳の後ろに一対、計四本の角が生えている。額の角は僅かに空に向けて伸びると、まるで折られたかのような角度で後ろの方へと向かっており、耳の後ろにある角は真っ直ぐに斜め後方へと開くように伸びていた。


 そんな姿が映る水面を前に、クレインはなんとも言えない表情で眺めている。


「そう、それが坊やのもう一つの姿よ」

「真の姿……」

「真、というと語弊があるわ。どちらも正しいのよ。正確にはそういう種族なのよ」


 その言葉にクレインは僅かに戸惑う。彼とて考えに至らないわけがない。本当はクレアは自分に関してなにかを知っているのではないかと。


「……僕の事、知っているの?」

「坊やと会ったのはあの時が初めてよ?」


 今まで踏み込みきれなかった問いを意を決して投げかけるも、クレアは軽く払うように否定する。だが、次の言葉には僅かな躊躇いのようなものがあった。


「知っているのは……あなたと同じ種族の主のことよ」


 どこが寂しげで、口にするのも辛そうで。普段、クレインに見せる事のない表情だった。


「さ、お喋りはここまで。まずは飛ぶ事を覚えるっ。あそこの岸まで飛ぶのよ」


 いつもの表情に切り替わると無情な指示が飛んでくる。まだ宙に浮いた事もないクレインに、5mはあるだろう湖岸が示される。濡れたくなければ全力で飛べ、という事なのだろう。



 約束の日、クレインは意気揚々と目当ての魚を持ってクレアの元へと訪れた。


 言い出したものの、刺身を前にクレアの表情を曇らせたものだが、一切れ食べてからは目を輝かせて一切れ、もう一切れと口にしていった。


「いやー本当に美味しいものなんだねぇ……」

「でしょ?」

「うん、ありがとう。またオススメの魚があったら獲ってきてよ」

「任せて。魚獲るのだったらクレアには絶対負けないしね」

「む、そう言われると悔しいけども……まあいいわ」


 食べ終わり食器を片付けたクレアは満面の笑みでクレインに振り返り、ビシリと右の羽を空へと向けて伸ばす。


 なにがあるのか、とクレインは指し示す方角を見るもただ空があるだけだった。


「それじゃあ目指すわよ!」

「え? どこへ?」


 クレアはニヤリと更に口角を上げる。


「空!」

「え? あ、飛ぶ練習ってこと?」

「そうよ。まずは……服を脱いでもらおうかしら?」

「……はい?」


 発言の内容を理解できていないのか、クレインは目を瞬かせる。


「服を脱いでもらわないと初めの段階にいけないのよねぇ」

「それ、どういう関係があるのさ」

「んー口で言うより、まずは実感してもらった方が早いのよ。ほらほら、恥ずかしがってないで、上だけ脱いでくれればいいから」


 特に他意もなさそうに指示されては、勝手にまごつくのもより恥ずかしい。まだ納得のいってなさそうな表情ではあったものの、クレインは覚悟を決めて勢いよく着ていた服を脱ぎ捨てる。


「意外と傷があるわねぇ」

「そりゃあこんな暮らしな……んん!?」


 クレアが背中に回りこむとチクリとした痛みがクレインを襲う。


「な、なに……?」

「ちょっとした処置。そのまま動かないで」

「は、はい」


 至って真面目な声音に、クレインは抗議の声も上げられず成すがままにされる。それから数度痛みが走る。その度にクレインは体をびくつかせ、顔が引きつっていく。信頼しているとはいえ、気が気でないものだ。


 その処置とやらも終わったのか、しばらくするとクレアはクレインの前に戻ってくる。翼の先を自分の胸に当てて、静かな声音が語りかけてきた。


「以前、魔法の素質を調べた時の事を思い出して。胸の内側から力が沸き、全身に巡っていく。そして、背中と頭から渦を巻いて吹き出てくるようなイメージ……それを静かにゆっくりとイメージするの……」

「……」


 クレインは目を瞑り言われたとおりに想像する。あの日見た、紫色の輝きが体中に行き渡る。やがてそれは、光を伴う液体へと変化していく。そして遂には飛沫を上げて……。


「があああ!!」


 ビクンと大きく体を跳ね上がらせるとクレインはその場で崩れるように膝を突いた。背と頭部が弾けたかのような痛みに襲われたのだ。


「な、なに、が……」


 痛みに耐えながら身をよじる。すると、不思議な感覚を知覚した。激しい痛みの中でなにかに触れている触覚。だがそれは背中から随分と離れた位置で起こっているのだ。


「今はゆっくりと深呼吸して。慌てなくても大丈夫」


 倒れこんだクレインに膝を貸すと、クレアはゆっくりとその頭部を撫でた。それすら異様な感覚である。まるで頭になにかが刺さっており、それを触られたかのようだ。


「僕、どうなって……」

「坊やはね、ある種族なのよ。今までのような姿と、もう一つ別の姿を持つ種族。今のはね、その別の姿になる為の手助けをしたのよ。本来なら自分の意思でできる事なんだけども、まあ坊やの場合は特別だった、て事かしらねぇ」


 別の姿。ならば今感じるこの感覚は姿が変わった証なのだろう。しかし、これが毎回だというのならば、そのその姿とやらもあまり活用したくないものである。


「少し休んだら湖に行こうかねぇ。あそこならよく見れるだろうし」



 そうして今、ずぶ濡れになったクレインは焚き火に当たっている。余すところなく濡れている様子から、盛大に湖に落ちたのだろう様子が容易に想像できる。


「うーん、まあ初めてだとこんなものかしらねぇ」

「普通、地面のあるところで練習しない……?」

「より真剣になれた方が上達するかと思ったんだけどもねぇ」

「無茶振りすぎる……」


 不服そうな表情で頬を膨らませる。彼是10回は飛ばされ、その全てが墜落で終わったのだ。もう少し早めに切り上げさせてもよかっただろうに。


「……坊やはさ、その翼でどこに行きたい?」

「んー? そりゃまあいくつもある家の移動が楽になるし、もうちょっと北にも拠点を作るかなぁ」

「島の中だけの話じゃないわよぉ。島の外、大陸の話。それぐらいは理解できるでしょ」

「……そりゃまあ。でもここでの生活にも慣れたしクレアもいる。僕は別にここを出て行きたいなんて思っていないよ?」

「ダメだなぁ若い子がそんなんじゃ。坊やはね、外の世界を知るべきよ。そこで学び成長し、島に戻ってくるもよし、大陸で生きるもよし……だけど、ここを出ないという選択肢は認められないなぁ」


 まるでなにかの権限を持っているかのような言葉に、クレインは眉間に皺を寄せる。勿論、彼女の言いたい事が分からないのではないが、それでも受け入れがたい。それだけ、彼にとって今の生活が大切なのだ。


「……クレアに強制される謂れはないはずだよ」

「じゃああたしからのお願いなら?」

「卑怯だよ、それ……」


 クレアにしてみれば、なにがなんでもクレインを外の世界に連れて行きたいようだ。突き放すわけではないが、だからこそクレインは心を締め付けられる思いに駆られる。


「別に今日の明日の話じゃないわよぉ。そんな深刻そうな顔をしなさんな」

「……クレアがしなくちゃいけない事って、本当になんなの?」

「んー秘密かなぁ」

「やっぱり僕の事なんでしょ」


 クレアの返答に間髪入れず追求する。いつものクレアの朗らかな笑みは僅かに曇った。


「ま、聡い子だしいつまではぐらかせはしないかぁ」


 溜息一つつくと観念した様子でクレインの頭を撫でる。


「詳しくは話せないけどもそんな感じ。正確には坊やが坊やでなくても、てところだけども……」


 言葉を区切るとゆっくりと引き寄せて抱きしめる。いつもならば気恥ずかしさから、身をよじってでも逃げるクレインだが、この時ばかりはされるがままに受け入れた。


「出会えたのが今の坊やで本当によかったと思っているし、理由がなかったとしても坊やとならきっと、今のような関係を築きたいって思っていたはず、ううん築いているはずよ」


 静かで落ち着いた声音。はぐらかしたり茶化す時とは全く違う。


 疑う余地もない、これはクレアの嘘偽りなき思いなのだろう。


「どうしても行かないとダメなのかなぁ……」

「あたしは行ってほしい。見て触れて学んで、ちゃんとした選択肢の中から坊やの未来を決めてほしい。この閉じた世界だけで未来を決めてほしくない」

「……」


 お互いの表情は見えない。どんな顔をしてクレインに望んでいるのか。どんな顔をしてクレアの望みを受け入れようとしているのか。知ることはない。


 ただ静かに、その時を噛み締めるのだった。

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