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オパールの杯に乾杯を  作者: 一矢
二章 誓う者
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三十三話 名前

 島を白が包み、萌黄色に満たされ、深い緑が溢れる。その景色に降り注ぐ照りつく日差しも大分弱まりを感じられるぐらいになった頃だった。もうしばらくもすれば、少年がこの島で目覚めてから一年が過ぎるだろう。


 彼はあいも変わらず様々な失敗を繰り返しながらも気ままな生活を送っていた。大量の叡智の結晶とも呼べる本があるとはいえ、順風満帆な日々にはなりえないのだ。それでも少年は独自の工夫でもって、成功へと繋げる努力を怠る事はなかった。


 サバイバルの環境下において、失敗から学び工夫によって成功を獲得する知恵は極めて重要な要素である。そしてそれは、こうして知識の補助がある少年にとっても同じなのだ。


 もっとも工夫の余地がない失敗もあった。キノコや野草の判別の誤りだ。真冬の寒さもあわさり、少年は地獄というものの片鱗を味わう事となる。更にはこれによって食料調達もままならず、保存していた干した果実や肉を食らい尽くし、最終的にビタミン欠乏症になりかけるというとても笑えない連鎖を起こしたりもした。


 夏場には酷い悪天候が、芽生えた傲慢を摘み取りもした。家作りも随分と慣れてきたもので、多少の不便はあるが岩山の家を失っても問題ない、と少年は気楽に考えていたものだ。だが夏の半ばに発生したひどい嵐によって多くの家を失う事となる。少年は自分の考えと、その時に岩山にいた幸運を噛み締めたのだった。


 この頃は自信も知識もついてきて、あまり本に頼らない生活をしていたものの、この嵐の一件から再び貪欲に知識を得ようと本を片手に過ごす日々が再び始まる。


 その中で遂に知識ではなく、岩山の主の痕跡を見つけ出したのだ。本棚の手に取りやすい位置にある本はサバイバルにおける知識に関するものだが、下段には日記と思しき本が多くあるのだった。冊数だけ見ても、決して短い期間でない事が窺える。


 だが、肝心の内容は殆ど読めずじまいであった。それまでの本が特別な加工がされていたのか、日記のほうの文字は随分と時間経過を感じさせる擦れたものばかり。更には理解できない語句が今までとは比較にならないほど多い。知識とは違うその本の熟読に挑戦する少年の心を、思う存分に折ってくれたというわけだ。


 その為、辞書らしきものが見つかるまでは特に日記に触れる事もなく、今までどおり島の探索と生活を続ける方針を打ち出した。つまりはこれまでどおりである。


 これまでどおりと言っても島の探索は随分と進んでおり、少年なりの地図も作成していた。勝手に決めた各地の名称、そこここの森の環境、海岸近辺の様子。洞窟とも呼べない天然の穴を利用した倉庫の位置。本にもあるが各地の採れるものなど。島の南半分はかなり書き込まれた地図だ。


 島の全長は20kmはゆうにあるのだろう。距離の感覚が乏しい少年はそのぐらいに考えているが、実際はそれすら甘いと言えるほどの距離がある。特に島の北側は遠方から眺めているに過ぎず、それも島の中央の山に阻まれての様子に過ぎない。


 各地に森や草原に小高い山があり、場所によって生活する生き物達が違う。上手い事住み分けられているようだが、様々な淘汰の結果がこうして落ち着いた景色を見せているだけなのだろう。島の中心地には北側を隠すような一際大きな山がある。周囲の上空を巨大な飛行生物が飛び交う姿がよく見られる場所だが、随分と禿げの多い荒れた山だ。


 山の麓の近辺には大きな肉食の動物が多く生息している。島の北部に関して今も遠めに眺めるだけなのは、彼らが北への探索を困難にさせている要因であるのだ。


 それでも少年は果敢に挑戦し、ようやく山へ進めそうなルートを見つけ出す。あまり収穫は期待できないものの最大の目的は島北部へのルート開拓。少年は中央の山への探索へと準備をし、遂に足を踏み入れた。


「くっそ―……あんのトカゲどもめ」


 のだが、獲った獲物を奪った巨大な爬虫類の怒りで、山への到着を感動する様子はなかった。トカゲ扱いしている相手こそ、今までも恐れていた巨大な爬虫類ではあるが、随分と知性があるらしく少年の事を追い回しこそするもあまり執着せず、こうして彼の成果を横取りする事に集中していた。


(かといって逃げなかったら逃げなかったで食われるだろうしなぁ)


 干し肉を齧りながら周囲を見渡すと、巨大な爬虫類も獲物になりそうな相手も姿が見えない。彼らに横取りされる心配はなさそうだが、そもそも襲い掛かるべき相手がいなくては意味がなく、少年は大きく肩を落としながら食事を続けた。


 危惧していた空を飛ぶ大きな生き物も随分と近い。というよりも、彼らの直下を歩くことが少なくないのだ。だが、彼らは飛んでいる獲物か、少年を付けねらう大型の生き物を集団で襲うかが主な食料獲得の方法なのだろう。少年に向かってくる様子はこれまで一度となかった。


(気が楽と言えばそうだけど……ところどころにある林や森っぽいのはどうかな? 食べられる物あるかなー?)


 まだまだ遠くに生える木々を眺める。あそこで食料がろくに確保できないのであれば、この山の探索は一旦打ち切りだ。食料が現地調達できず、持ち出しのみとなると相当の用意が必要となる。その見極めを兼ねたものが今回の探索だ。


(ダメなら山を越えて向こうに行くルートは難しそうだ。周りを通るにしても、あいつらが多いから面倒なんだよなぁ)


 食事も終わり荷物を担ぐと、先にある青々とした地形を見据える。愚図ったところでなにも変わらないのは少年も十分理解しているのだ。ならば今自分がすべき事はなんなのかも。


(とにかく行くだけ行ってみないとだな)



 高さ4mほどの崖がある。そこの一部は抉り取られたかのような穴ができており、まるで大きく口を開けた顔のようであった。だが今その口には歯があり、かみ締めているかのようだ。木の枝で組まれ、草や葉がかけられている。立派なシェルターだ。


(本で読んでいたとは言え、本当にこうも違うんだなぁ)


 その中では焚き火に照らされる少年の姿があった。今は火の明かりを頼りにここでの探索を書き留めている。


 ちょっとした森となっているその場所は、野草や少年がハート芋と呼ぶハート型の葉を持つ芋が多く見つかり、食料で困ることはあまりないだろう。そこまではよかったのだが、ネズミやそれを捕食する小型の肉食の生き物や鳥も多いのだ。中型や大型の生物が少ない様子のこの山は、こうした小型の者達の生息地となっているのだろう。


 ネズミの捕食者達は脅威というほどではないものの、縄張り意識が強いのか逐一少年を威嚇しに行く手を阻む。彼らの行動は少年にとっては新鮮で、初めこそ楽しんでいた。だが作業を邪魔される事も多く、軽い苛立ちを覚えさせられるに至ったのだ。


 そういった理由から森の中でシェルターを作るのも億劫であり、何よりネズミに襲われた場合の感染症を恐れて、少年は森から離れたこの崖に拠点を作ったわけである。


(この様子だと草木が多い場所は似たようなものかも。シェルターの材料の運搬も楽じゃないし、離れたところじゃないと作れないのはちょっと面倒だな)


 それでも最も危惧していた食料が得られない、という事はなさそうだ。ならば手間こそ増えるが、このまま島の北側まで探索を行える。恐れていたものに比べたらよほどましな話だろう。


(とは言え、あまり得られる物もなさそうだし、飽くまで向こう側へ行く為の道として寄り道しないで突っ切ったほうがいいかな)


 だいぶ経験を積んだものだが、ここまで大きい山を登るのは初めて。おおよその形状は頭に入れているとはいえ、実際にその地を歩いてみるとまるで違って見えるものである。木々がところどころで群生しているような状態だから、普通の山に比べれば格段に迷いにくい。それでも想定した最短ルートを辿るのは難しいだろう。


 なにより山の裏側の様子は一切分かっていないのだ。北側へ抜けるだけでもそれなりの日数を要するのは避けられないと考えられる。最も急いで進む理由もなく、それらを理解した上で少年は楽天的に考えていた。


(ま、食べ物が尽きる事はなさそうだし、進む分には問題なさそうだ。ようやく向こう側の探索が叶いそうだな)


 ぐーっと大きな伸びをすると、持ってきていた小さめの毛皮をかけて横になる。一頭の毛皮をまるまるなめして正解だったようで、余っている部分で冬場以外でも使えるサイズに仕立てたのだ。


(一週間で山を下りられたらいいなぁ……)


 まだ見ぬ世界を夢見て、少年は静かに寝息をたて始める。時折、焚き火から爆ぜる音がするのみでとても静かな夜であった。



 それから三日後、少年はようやく山の向こう側へと到達しようとしていた。だが今は先を進むのでもなく、しきりに周囲を探索している。


 というのも先日の朝にこの近辺から飛び立つ、例の存在を目撃したのだ。もしかしたらこの辺りを根城としているのかもしれない。あるいはちょっと眠る為の拠点なのかも。どちらにせよ、あれをより理解する痕跡を見つけられる可能性が高い。そう思ったら居ても立ってもいられなくなったのだ。


(くっそー……今日はまだ飛び立つところは見えないからいると思うんだけども。気づかない間に飛び立った? それで帰ってきてない? それともそもそも昨日はここに帰ってきていない?)


 今いる場所は起伏の激しい斜面で、少年のようにシェルターを作っていたとしても必ず目につくというものではない。もしかしたら、既に通り過ぎてしまっているという事もありえる。なにせ少年の真横には1mを越える壁の様な崖が立っているほどだ。周囲をしっかりと調べるとしたら、あっちに回ってこっちに回ってと日が暮れても終わらないだろう。


(失敗したかな……これなら一日、観測に集中していた方がよかったかも)


 詰めの甘さを実感する。思い返せば大抵の失敗はそこに集約されている気がしないでもない。だが、今は後悔している場合ではない。いくら食料の余裕があっても無駄にはできないのだ。探すなら探すで、諦めたり方法を変えるのならすぐにその行動に移すきだ。


 だがここに至っても迷ってしまう。そもそも相手が危険な存在かもしれないのだが、知性や理性をもつかもしれない相手に出会えるかもという希望が、少年を葛藤させるのだ。


「ぐううう! くそっ!」


 歯痒さのあまりに声あげて地団駄を踏む。だが、それが思わぬきっかけを与えた。


「……驚いた。こんなところに誰かいるなんて」


 綺麗な声が頭上から聞こえてくるのだ。少年は首がもげるのではないかという速度で見上げると、傍の崖の上から人の顔が覗かせているのが見えた。声に違わぬ綺麗な顔立ちをした女性だ。


 少年の動きに頭上の相手は頬を引きつらせて、少し顔を崖に隠してしまう。もしかしたら自分を獲物として見ているのでは、と誤解を与えたのかもしれない。


「あ、あの……! 言葉、分かるんです、よね……?」

「ええ、勿論。むしろあたしのほうこそ、貴方が言葉を理解してくれてほっとしているわ」


 誤解を与えていたようだ。しかしそれに気づく様子もなく、少年は舞い上がらんばかりの笑みを浮かべてはしゃぎだす。


「すごい! やった! うわああ! やっぱりちゃんと人がいたんだ!」


 正に狂喜乱舞の様子。だがそれとは対照的に女性は困った顔をしてもぞもぞと動くと、立ち上がったのか上半身が姿を現した。衣服を身にまとってはいるものの、肩から先は鳥の翼のような姿をしているのだ。薄っすらと黄味がかっており、陽に照らされてキラキラと輝いている美しい羽である。


「ごめんね。あたしはこんな姿なんだよ」

「え? う、うん……うん?」


 ばつが悪そうな女性に対して、少年は戸惑った様子で首を傾げる。女性からしてみれば、少年が求めていたのが人間のような存在なのだと解釈したのだろう。だが少年がいう人とは、会話ができ意思疎通がとれる存在としての事だ。無論、そこまで深く考え理解した発言ではないのだが。


「……別にショックじゃない?」

「は、はい……。むしろなんでそんな風に言われたのか分からないというか」

「ま、それならよかった」


 女性は柔らかい笑みを浮かべると、ばっと崖から飛び降りる。少年は一瞬、息を呑むも彼女は危なげない様子で地面に着地した。見れば足も太ももから先、それも随分と足の付け根あたりからは鳥のような姿であった。


 飛び降りた女性はすぐさま立ち上がると、唖然とする少年をジロジロと嘗め回すよう見つめる。一見、品定めをしているようにも見えるが、どこか愛おしそうな様子だ。


「あ、あの……」


 流石に居心地が悪いのか、身をよじる様に半歩下がる少年。だが女性は特に気にするでもなくうん、と一つ頷いてみせた。


「特に悪そうなところもないようだし安心したよ。こんなところで立ち話もあれだし、近くにあたしの家があるからそちらにおいで」



 少年がいた地点からだいぶ離れたところに文字通りの家があった。太目の木の幹で作られた家だが、樹皮を剥いだものを使っている。恐らく木材としてちゃんと加工されたものなのだろう。シェルターではなくちゃんとした家。少年の小屋型のシェルターならば一体いくつ入ってしまうのだろうか。そのぐらいの大きさはあるのだ。


 中にはイスやテーブルがあり棚まである。土器や少年が作るそれらしい、というものではない。実に洞窟の部屋以来の精巧さのある家具だ。


「す、すごい……どうやって作ったんですか?」

「んー作ってもらった、かな?」

「え?」

「まあまあ、あたしの事より坊やの話が聞きたいな。あたしはクレア。坊やは?」

「あ、えと……」


 イスに座るよう促され、戸惑いながらも腰をかける少年。名乗るべき名もなく、なにを話せばなにから話せばと少年が悩んでいると、クレアと名乗った女性は部屋の隅でごそごそとなにかを用意し始める。


 ようやく話すべき内容が頭の中でまとまってくるとクレアが戻ってきた。彼女の羽の上には、トレイにティーポットとティーカップが乗せられている。随分と器用なようだ。


「君からしたら下品だと思うけど許してね?」


 クレアは足を大きく上げて、その鳥の爪のような先でポットを掴むと慣れた様子でカップへと注いでいく。仄かな香りが鼻腔をくすぐる琥珀色の液体は、なにかしらのお茶なのだろう。


 記憶のない少年にとっては初めて飲む物だ。感動こそありそうなものだがそれ以上に、足の問題もあり短いショートパンツ姿である女性がこうして足を大きく上げていると、子供ながら目のやり場に困るようで顔を逸らしている。


「いやだったかな?」

「そ、そんな事はないんですけど、その……」

「うん? ……ははーん」


 クレアは少年のどぎまぎする様子に察したのか、意地悪そうな笑みを浮かべる。このままでは言及されるのでは、と恐れた少年はクレアの言葉を遮るように口を開いた。


「ぼ、僕は記憶がないんです。どうしてここにいるのかも、自分の名前も……。去年の秋ぐらいに気づいたというか」

「記憶が……」

「はい。その時にはもう島にいて訳が分からないけどもなんとか生きてきました。少し離れたところにある岩山に、入り口が小さい洞窟がありましてそこを中心に……」


 クレアは時折、相槌を打つも話を遮るような事はせず、少年が言いたい事、伝えたい事を全て吐ききるまで静かに、静かに聞き役に徹してくれた。


 生きていく事に絶望したり、洞窟の奥の部屋を見つけた時の感動、狩猟やシェルター作りに探索。約一年近くの出来事をひたすら話し続けた。今までの思いがむせ返るのではと思うほどに胸が詰まる。なによりこうして誰かに伝えられる。これだけでも嗚咽を上げて泣きむせぶのを堪えるので必死だ。


 最後にはその通りになってしまうも、クレアは優しく少年を抱きしめて落ち着くのをずっと待ってくれていた。


「落ち着いたかい?」

「う、うん……」


 ようやくして少年は泣き止むも、気恥ずかしさと求めて止まなかった温もりに離れがたい様子で、クレアに抱きついたままだった。彼女は彼女で気にするでもなく優しく頭を撫でる。


「よく頑張ったね。すごいもんだよ」

「……うん」

「でも、ちょっと不便だねぇ」

「え?」

「君には名前がないのだろう? どう? あたしにつけさせてくれない?」

「……うん、いいよ」


 少しだけ戸惑うも、少年はしっかりと頷いた。思えば自分に名前が必要なかったのだ。だがこれからそういうわけにはいかない。共に傍らで生きていく、とまではいかずともクレアがいるのだ。いつまでも名無しではいられない。


「あたしのクレアって名前はね、ある人から貰った名前なのよ。その人の名前から取った、というにはちょっといい加減なんだけどもねぇ」


 懐かしむように目を細めた。その人物と共有した時間は在りし日の頃で、もう手が届かないものなのかもしれない。


 その様子に、少年はふと部屋の主の存在を思い出した。


「そうだねぇ……クレイン、てのはどう? クレイン……エンダー……。坊やの名前はクレイン・エンダー。どう?」

「え? あ、うん。じゃあそれで」

「反応薄っ」


 気を取られていた少年は思わず生返事で返してしまった。思ってもみない返答にクレアはぷーっと頬を膨らませる。大方、名前が気に入らないという意思表示と受け取ったのだろう。


「ご、ごめん。ちょっと違う事を考えてて」

「自分の名前の話なのに? マイペース過ぎやしないかい?」

「ごめんってば。うん、いいと思う。僕は……」


 クレイン・エンダー。


 生きていく事が絶望視される島で、記憶がなく目覚めた少年の名前である。

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