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オパールの杯に乾杯を  作者: 一矢
二章 誓う者
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二十八話 終わる島

 とあるところに小島がある。周囲は荒れた海に囲まれており、崖も多く海上から近づくには天候や潮の流れの条件が揃わなければ不可能だろうと言われている。


 空からならば安全かと言えば、その島は大きな肉食の生き物達が飛び交う世界。その上で問題なく近づき着地できるのであれば、といったところである。当然ながら、今のところその様な発言をする者は一人としていない。


 通称『死の島』。それ以外の名称すら存在しない場所。原生、とまでは言えないものの、おおよそ進化の過程より取り残された、魔物と呼ぶことも躊躇する怪物。原始の世界とも言われるそこは立ち居った者に明日を奪う。今まで数度の調査が行われるも、帰還した者の名を聞くことはなかった。


 そんな人の営みがあるなど誰も想像しえない島が、ぽつりと海上に浮かんでいるのだった。



「……う」


 湿りを帯びた草と土。そこへ顔を押し当てるように倒れていた少年が起き上がる。


 黒い髪に黒い瞳。年は十を過ぎただろうか。ところどころほつれのあるボロを着ているが、新品であればそれなりの値がつきそうな美しい生地だ。


 まだまどろみの中に居るのか、ぼーっとした表情で周囲を見渡す。森の中であるのは間違いないが、彼には見覚えはおろかどうしてここにいるのかも覚えがない。そもそもそ自分が誰なのか、名前はなんというのかすら、思い出せずにいるのだった。


 連なる木々の切れ間から谷や山が連なる姿を覗かせる。随分と距離があるはずだが、その周辺を飛ぶ生き物の姿がはっきりと見えた。よほど大きな生き物に違いない。


「ここ、どこ……誰かいませんか! 誰か……! 誰も、いないの……?」


 助けを求めて声を上げるも返答はなく、次第に少年の目は潤んでくる。しばらくすると、その場にうずくまって泣きじゃくり始めるのだった。


 それがどれほど続いただろうか。不意に遠方より届く微かな音を聞く。それが果たしてなんなのかは全く予想がつかないものの、人がいるのかもしれないと少年に僅かな希望が生まれてくる。


 泣き止んで腕でぐいと目元を拭き、立ち上がろうと地面に手をついたその時、微かであるが振動を感じた。


 少年は地震だ、と思う間もなく揺れは消えてしまった。だが、すぐさままた微かに揺れる。それは断続的であるものの徐々に強くなる。そして聞こえていた音もまた強くなってきた。


「……に、逃げなきゃ」


 一瞬呆けた後、少年は慌しく駆け出す。相手がなんなのかは今も分からないままだが、巨大な存在であるのは彼でも容易に想像できた。それが近づいてくる現状に恐怖せずにはいられない。


 極力音を立てずに、少年は必死に走っていく。先手が取れたとほんの僅かに安心をするのも束の間、背後から大きな音がする。


 いくつもの木の枝が折れ、とても重たい物が地面に落ちるような音であった。少年が恐れていたなにかが迫ってきている。


 ここまできたら、形振りを構っていられない。ただただ全力で走るのみ。しかしまだ幼い少年に対して、迫ってくるのは大きな存在でありその一歩の差はあまりにも絶望的だ。遥か後方から届いていた音も随分と近くから聞こえてくるようになった。


「はぁっ! はぁっ!」


 助けを求めて声を上げる余裕はなく、ひたすら空気を取り込みながら走り続ける。一切のロスをなくすべく、迫ってくるものを見ようともせず走り続けるが、確実に追いつかれつつあった。


(どこか、隠れられるところ……!)


 もう時間の問題だと悟った少年は、周囲を窺いながら走れる道を選んで進んでいく。


(あの大木の穴……浅すぎる! 木の上は……駄目だ登っている間に追いつかれる! 音が、もうそこまで……)


 弾けてしまうのではないかと思うほどに苦しい心臓。バラバラになってしまいそうな痛む足。恐怖と酸欠で歪む視界。それでも尚、ただ生きたいという思いが少年を突き動かす。


(もう、足が……)


 ここで転ぼうものなら、きっと立ち上がる事はできないだろう。そもそも起き上がるより先に追いつかれるはずだ。


 一瞬の諦めが脳裏を過ぎる中、視界の端に大きな岩山を捉えた。その表面には暗い闇を貼り付けたかのような裂け目がはいっている。それがどれほどの深さでどれほどの大きさなのか、少年には一切予想などできない。だが、これが自分にある唯一無二のチャンスだという事だけははっきりと理解している。


 体のバランスを崩しかけるも、転倒することなく進路を変える。徐々に近づいてくる裂け目は大人が一人、身をよじらずに入れるほどの幅があり高さは2mもないだろうか。彼が入るには十分の広さだ。


 果たして奥行きはあるのだろうか。後ろから迫る存在を阻む裂け目と穴なのだろうか。疑問がなかったわけではないが他に選択肢などありはしない。最後の力を振り絞って、少年は岩山の口へと飛び込んだ。


 暗転する視界に中の状況は分からない。ただ固い石の地面に体を叩きつけたあと、これまた固い壁に体を打ちつけられる痛みだけはしっかりと知覚できた。


「げほっ! ごほっ!」


 ただでさえ息が苦しい中、打ちつけた背中の痛みが余計に呼吸をするのを難しくさせる。涙と鼻水だらけの顔で、咽ながらも必死で息を吸おうとする。まるで溺れているかのようだ。


 そんな中、追いかけてきていた音と振動が目の前で発生した。霞む双眸を開けてみると、裂け目からは鱗に覆われた肌に鋭い爪が見える。巨大な爬虫類を思わせる足だ。上の方に視線を移せば鱗に包まれた足を凌ぐ巨大な胴体。顔は分からないが、きっと鋭い牙が並ぶ口をもっているのだろう。


 これで手が穴の中に入ろうものならば絶望的だ。だが、もはや余力のない少年にはそれを恐れる事すらできず、押し寄せる極度の疲労が彼の意識を白濁に塗りつぶしていくのだった。



「はっ!」


 どれほど時が経ったか、少年は飛び上がるように目覚めた。こうして無事であるというのであれば、追いかけてきていた脅威は手が出せなかったのだろう。


 裂け目の方を見てみれば、先ほどまでさんさんと光溢れていた景色も随分と赤みが差している。追いかけられたのが、一体何時頃であったかは定かでないものの少なくとも数時間程は気絶していたようだ。


 あのような存在がいるのならば、もっと小型で獰猛な肉食の生き物もいるだろう。長い時間無防備であったのにも関わらず、無傷で済んだのは天が微笑んでくれたのか。だがそもそも、この様な状況に陥っている事を考えると随分と性悪なものである。


「……助かった?」


 まだ外に出て確認する勇気のない少年は、付近に落ちている石をいくつか外を投げる。しかし、それに反応するものはなく、聞こえてくるのは揺れる草木の囁きだけであった。


「助かった……けど、これからどうしたら」


 ここがどこか、自分が誰かさえ分からない少年。分かっているのは、己が被捕食者であり助けなどないだろう事。だがそれでも生きたいと願い、彼は両の足で立ち上がる。



 死の島。長い時間の中で人々の記憶の片隅にすら存在しなくなった場所。


 そこにあるのは遥か遠くの物語。終わりと始まり。その渦中で少年は歩きだすのだった。


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