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オパールの杯に乾杯を  作者: 一矢
三章 眠る者
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閑話 ただ一人の

 それはクレインが伏してしばらく。自力で出歩く事もままならない、衰弱の言葉を体現していた頃であった。


 刻一刻と、その身を蝕むかのように、衰勢していくクレイン。その姿を誰しもが目にしているわけではないものの、いや姿を見せてすらいないからこそ、芳しくない事は周知の事実であった。


 ある者は嘆き悲しみ、ある者は未だに信じられず、ある者はやり場のない憤りを感じ。様々ではあるものの、心を痛めずにいられはしなかった。


 そんな中、複雑そうな顔をして、クレインの部屋の前に立つ人物がいる。


 荒ぶる魔王クレイン・エンダーの側近であり、腹心であるカイン・エアーヴン。


 この部屋で職務をこなしつつ、クレインの監視を行う日々を送ってきたのだ。今更躊躇う事などそうはあるまい。と、言いたいところだが、どうやら今の彼は、扉に手をかける事すら迷いがある様子だ。


 一体どれほど悩んでいるのだろうか。部屋の前で逡巡を重ね、時間はどんどんと過ぎていく。いよいよ覚悟を決めたのか、手をドアハンドルへと持ち上げる。が、それを握ろうとした瞬間、扉のほうが開くのだった。


「あれ? カインさん?」


 開かれた先にいるのは、目を瞬かせて少し驚いているエルナである。奥に見えるベッドの脇にはアニカもいるようだ。


「えと、ここでお会いするのは珍しいですね」


 もっと気の利いた言葉もあっただろうに。しかし、本当に珍しかっただけに、エルナが口を滑らせる。


「……当然だ。水の都市から帰ってきて以来、見舞いすら一度もなかったんだからな」

「え!?」

「ええっ!」


 クレインが苦笑しながら語る言葉に、エルナとアニカが声を上げて驚く。


 この二人には他の誰にもない、特別な絆や信頼関係があるのは明白である。どちらが伏せっていようとも、看病とまではいかずとも、顔すら見せないなどと思う者は微塵にもいないだろう。


 それだけ周囲にこう感じさせるほど、強い結びつきを見せてきた。


 なのに、それもカインのほうが行動しなかったという事実は、素っ頓狂な声を上げるほどのものである。


 そもそも、エルナは殆ど付きっ切りなのだから気づきそうなものだが、四六時中とまではいかないのが現状。かつ、そんな事を想像もしていないのだ。自分がいない間に来ているのだろう、と疑いもしなかったわけである。


「……」


 クレインの言葉は愚か、信じられないと言わんばかりの二人の反応にさえ、カインは無言であった。


 ただその顔は酷く悲し気で、三人にとって初めて見るものである。


「あの、カイン殿? もし、差支えないようでしたら、理由をお聞きしてもよろしいですか?」

「大方、俺のこんな姿を見たくなかったんだろ」

「こういう時だけ、こちらの気持ちを汲んで下さるのだから、なんとも嫌らしいものですね」


 アニカの質問にクレインが答えると、カインが苦笑しながら溜息を吐いた。


「正直なところ、今の魔王様を見るのは本当に苦痛でしかありませんよ」

「だが来てくれた」

「……このままでは本当に機会がなくなる。ただそれだけです」


 その言葉に、エルナとアニカが押し黙る。沈黙が訪れた部屋の中を、カインはゆっくりと進み、クレインの傍にある椅子に腰をかけた。


 まだ可能性がないわけではない。だが、あまりにも手探りで、可能性がない事を証明されていないだけだ。


 誰しもが認めたくない事実に、ある意味でカインは正面から向き合っている。いや、今こうして向き合ったのだ。


「……いざこうしてみると、言いたい言葉も思い出せなくなるなりますね」

「いつも好き放題に言っていたのにか」

「好き放題になさるからですよ」


 いつもと変わらぬやり取りが、あまりにも異質な環境で行われる。近くで見ているエルナとアニカには、それだけで胸が締め付けられる思いであった。


「魔王様のこんな終わり方、一体誰が予想できたのでしょうね」

「下手すりゃ慈しむ魔王でさえ、俺がこんな苦しむとは思わなかっただろうからなぁ。ああでも、俺に恨みがある奴はいるからな。こう苦しんでほしいと願った連中はいるだろ」


 結果だけを見れば正義と取れる賊狩り。だが狩られた側からすれば怨恨を残す事になる。例え自業自得で誰にも同情されなくとも、襲われずに生き残った彼らにとっては、仇であったり障害となったりと迷惑な存在であるのに違いはない。


 逆恨みであっても恨みは恨み。その呪詛が遂にクレインへ届いたのだとしたら、凄まじい執念ではある。


「にしても、わざわざこうして出向いたんだ。そんな話をするのもどうなんだ?」

「そこは本当にすみません」

「カイン殿……」


 弱々しく笑うカインに、アニカが心配そうに半歩近づく。しかし自分がこの間に入っていっていいのか、と伸ばしかけた手を止める。


 そんな光景をエルナが見つめていると、


「どうした? なにか言いたげだな?」


 クレインが声をかけてきた。


 すぐには自分の事と気づかないエルナ。だが、カインとアニカの視線がこちらを向き、ようやく理解すると気まずそうに手を横に振ってみせる。


「い、いや、関係ない事というか、今言うべき事じゃないというか」

「どうせカインはこの調子だ。話題変えるのにいいんじゃないか」

「ええ……うーん」


 言いにくそうなエルナだが、クレインからこう言われてしまうと、特に断る理由がなくなってしまう。しばし悩むと、どこか気まずそうな、申し訳なさそうな顔をした。


「その、アニカさんのカインさんに対する呼び方や、カインさんのクレインに対する呼び方って、どんな意味があるのかな、て」


 確かにこの場で尋ねるような内容ではなかった。が、知らないなら知らないで気になるところではある。特にカインにおいては自国の魔王を名前で呼んでいないのだ。そんな者は他に見聞きした事がない。


 常日頃、疑問には思っていたのであろう。しかし、果たして気軽に聞いてもいいものか、と踏み出せずにずるずると引っかかり続ける。それが今、たまたま再浮上したといったところか。


 とは言え、普段から使う呼称である。決して知られたくないという事もないだろうが、日常化してしまっているのも事実。二人はほんの僅かにきょとんとし、アニカは少しばかり気恥ずかしそうに苦笑いをし、カインもどことなく困った様子で笑って見せた。


「私の場合、カイン殿は幼い頃から知っていてね。側近になられる時に、今までの呼び方はもうできないな、と冗談交じりでカイン殿と呼んでいたんだ。正直、他になんと呼ぶのが最適かも分からず、定着してしまったわけだが」

「へええ、そうだったんですか? ええと、じゃあ幼馴染ですか?」

「いや、当時の状況だとお姉さん、かな」

「それこそ幼少の時には面倒を見てもらっていましたからね。だからこそ、立場上は私が上というのは……正直なところ、自分でも戸惑ったものです」


 だからこそ無難に、さんを付けて呼べばいいというものでもなかったのだ。


 お互いの、嫌ではないが微妙に噛み合わない感覚や違和感。それを上手く、とまではいかずとも、均す事が出来たのが冗談交じりに茶化したこの敬称なのだろう。


「その話は初めて聞いたな」

「あまり触れて回る話でもないですからね」


 しかも二人の役職は高い。そうそう尋ねる人もおらず、そもそも人に話したのは初めてなのではないだろうか。


 クレインすら知らない話に、エルナは驚き交じりに感嘆の声を静かに漏らす。


「……で、俺に対する呼び方は?」

「全く、それを貴方から言ってくるのはずるいですよ」


 心のどこかではうやむやにしたかったらしいカイン。だが、クレインから問われると、どこか諦めた様子である。


「ですが、今のこの状況を考えればこそ、むしろ良い機会なのかもしれませんね」


 一度、クレインを真っ直ぐ見据えると、エルナとアニカに視線を移した。


「少なくとも私には、この人が新しい時代を作る。この国を改革、と言えば大げさですが、今までにない道を切り拓く、と考えていました。きっと誰にも創れない未来を生み出してくれる。私が心から仕えられる主君。唯一無二の主君。そういう想いがあって、魔王様とお呼びし続けたのです」

「そういう意味が……」

「はぁぁ、そんな深い理由……」


 二人が感嘆の声を上げる中、クレインはどこかしたり顔をする。


「クレインは知っていたのか?」

「色々あったからな。おおよそそんなところだろう、という見当はついていた。もっとも、俺が魔王になった当初は、魔王という存在である自覚を植え付けたかったんだろうがな」

「当然です。貴方は魔王としてどころか、一般常識がだいぶ欠落していましたからね。せめて自覚だけでも持って頂きたかったです」

「それも徒労だった、と……。あの、カインさん。本当に心から仕えてよかったんですか?」

「……ノーコメントです」


 上手いフォローも思いつかなかったようでカインが顔を背けた。


 当然この疑問も今までに幾度と浮かんだ事はあっただろう。しかし、それでも魔王様と彼は呼び続け、今日まで続いてきたのだ。既に答えだけなら示されている。


「ですが、私もカイン殿の気持ちは分かります。私が貴方を敬っているのは、なにも私よりも強いから、ではないですからね?」

「分かっているよ。どれだけ時間を共有してきたと思っている」


 カインに感化されたのか、普段は決して口にしない言葉をアニカが言う。だがそれも、クレインには伝わっている事であったようで、それが嬉しいのかアニカが顔を綻ばして笑う。


「む……」


 それをいささか不満そうにエルナが眺める。


 こればかりはどうしようもない事だが、どうしても時間の積み重ねに差があるのだ。二人にはない濃い時間を送りはしたものの、二人のように十重二十重の重さはない。


 なんとも歯がゆくもどかしいものである。


「そんな顔をするな。どうにもできないだろ」

「それが分かっているからこそだ」

「まあまあ。私からすれば、エルナを羨ましく思う事はあるんだよ」

「……ないものねだりなのも分かってます」


 話題が変わり、談笑が続くのを見るとカインがそっと席を立つ。もう十分という事なのだろう。


「……だからこそ、カインは今の俺の姿を見たくなかったんだろ」

「……」

「わざわざ来てくれてありがとうな」

「いえ。こうして来てみれば、意固地を拗らせていただけと痛感します」


 カインの言葉を最後に、しばしお互い無言の二人。そんな様子に口も挟めずに見守るエルナとアニカ。


 やがてカインは背を向けて部屋を出ていった。少しばかし緊張したのか、エルナが深く息を吐き出す。


「最後のあれはなんだったんだ?」

「んー? まあ、正解はないからなぁ」


 二人の間には確かに意思のやり取りはあった。が、完全な以心伝心などありはしない。クレインの言うとおり、受け取ったであろうそのメッセージは、カイン本人が直接表明しなければ確かではないのだ。


 そうはぐらかしたクレインは窓の外を眺める。


 自らの体は、どんなに長くても次の季節を越えられないのだろう。そんな漠然とした予感はクレイン自身が一番感じている。


 残りの時間は短い。それでもその顔はどこか嬉しそうであった。


『また、来ます』


 少なくともそう受け取ったクレインが再度顔を緩める。


 全く素直じゃないな。と胸中で呟くも、その時を楽しみにしているのであった。

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