9 街道の夜
城に来て三日目の夜は寝台の上で眠れる最後の夜かもしれなかった。それなのにスカーレットは何度も寝返りを打っては掛布団をはねのけて髪をかきむしっていた。例のごとく腕が痛むのだ。そのせいで彼女はなかなか寝付けないでいた。眠ろうとすればするほど意識は痛みに向いてしまい、じっとしていることは余りにも辛かった。スカーレットは諦めて完全に掛布団をはねのけてしまうと、チュニックの上から赤いマントをきつく巻きつけて部屋を出た。狭い廊下を進み階段を下りると見回りの兵士がスカーレットに視線をよこす。スカーレットは眠れないことを伝え、そのまま歩いていった。城の正面の入り口は背の高い扉があり開けるには数人の男の力が必要だ。そのためスカーレットは裏にある小さな扉から訓練場に抜ける通路へ入った。
そこは、夜になってからわざわざ人の出入りする場所ではないし、城の奥のほうでもあったから松明はつけられていなかった。光があるとすれば通路を挟む壁にある小さい窓から、月光が差し込んで窓枠の形が床に映し出されているだけだ。通路の脇に時折置かれている鎧は、まるで武装した兵士が立っているように見えた。だがついその面の奥に目をやるとそこには果てしない暗闇が続いているだけだ。スカーレットは身震いして鎧兜から目をそらした。そしてようやく外に抜けると深呼吸をして白い月を見上げた。
槍や矢のための的が置かれた訓練場は芝が整理され、誰かが忘れていった短剣が壊れかけのベンチの上に置かれている。青銅のコップには水が少しだけ入っていた。先刻まで人がいたことを示すその風景は、あたりが暗いこともあり余計にむなしさを増している。
スカーレットには、自分が今一人で軍団の訓練場にいることが奇妙に感じられた。そしてそれ以上に徴兵されたことは受け入れられても、明日からは進軍をするということが信じられないような気がしていた。だが太陽が昇れば戦いが始まることは真実だ。レインドが本番は敵地に向かってからだと言っていたが、その言葉の意味がよく分かったような気がする。
スカーレットのやってきた廊下から、小さく足音が響いてきた。誰かが向かってくるようだ。さすがに勝手にここに来るのはまずかっただろうかと振り向く。
「眠れないのか」
その人物は憤慨するでも注意を促すでもなく、ただそう尋ねた。月光が人物の顔を青白く映し出した。銀色の髪は太陽の光を受けているときより鋭く輝いている。
「アクイラ?」
「一人にしてほしい気分だったか?」
「いえ、そんなんじゃないわ」
スカーレットが答えると、アクイラはスカーレットの右隣に並んだ。そしてスカーレットの肩を押して座らせると、彼女が何を言ったわけではないのに右腕をさすってやった。
「少し張っているし、熱がある」
「……そうね。きっと緊張しているんだわ」
「普通なことだ。今宵いったい何人の兵士たちが寝台の柔らかさを感じてゆっくり眠ることができるだろう。おそらくはほとんどが浅い眠りについているか、あるいは一睡もできないでいるはずだ。――ああ、進軍は始まるが、戦いはまだだからと楽観的な奴は除いて」
「あなたも?」
スカーレットが訪ねても、アクイラは無心に彼女の腕をさすっているだけでそれには答えなかった。ただ二人が沈黙して、先刻の問いを忘れるほど時間がたった後で「何度繰り返しても戦いには慣れないよ」とつぶやくように言った。
結局スカーレットはしばらく訓練場にいたのだが、月が雲に隠れるとアクイラに連れ戻されてしまった。少しばかり不服ではあったが、アクイラがさすってくれたおかげか右腕はだいぶ楽になったし、自分が部屋を出るとき向かいの部屋で浅い眠りを繰り返していたアクイラを起こしてしまったであろうことは容易に想像できた。だからスカーレットは特別文句を言うわけでもなく、酒を飲み交わした友人と別れるように挨拶をかわし、冷たくなった寝台に潜り込んだのだった。
***
翌朝は早かった。城下の人々は城から南の門への道を囲み戦士たちを送り出した。兵士達はいくつかの軍団に分けられ、順番に行進していった。その数はまだ国同士での戦にしては少なく感じられたが、進軍中に各地の軍団基地や村からも戦士たちが合流する。敵の眼前に迫るころには恐ろしい数になるだろう。
スカーレットが配属されたのは九番目の軍団だった。アクイラと少年たちも同じ軍団だ。スカーレットは後ろのほうから荷物を積まれたブラッドを連れて歩いた。九番目の軍団の隊長はレインドだったが、進軍中は代理の男が先頭を歩いていた。レインドには隊長として以上の仕事があるからだ。
住民が二階からばらまいた赤い花びらが青い空を舞っていた。軍旗が風に翻り、ラッパの音が壮快に吹き鳴らされていた。だが城下を出て少しすれば、その華やかな様子は遠い昔のことのように、冷たい石の街道が続いている。道の中央をを荷車や馬が歩き、兵士たちはその両脇の一段高い道を歩いた。今はまだ整えられた道だからよいのだが、これから整備の整っていない道に入っていくことを思うと皆は憂鬱になった。
じっとりと汗をかきながら一行は最初の夜、ほぼ歩き通しだった。皆はまだまだ元気だし、街道を抜ければ歩きにくい道が待っている。そのためグラディアは歩けるうちに進んでおこうと考えたらしかった。
「これいったいいつまで続くんだい」
ようやく休息の時間を与えられると少年たちは一斉にそういった。アクイラがフレンダーの荷物を降ろしながら少年たちに視線を向けることなく答えた。
「俺たちはこれから一日に20マイル進むとしよう。まず最初の目的地はここからずっと南下したところにあるクラシデスの長城だ。そこはレシウスとレディガ、プレハの国境線上にある。そこでプレハの軍と合流した後で長城を占領する。ここまでに半月以上はかかる」
「一応話には聞いてたけどげっそりだよ!」
「レディガの国城は比較的南に位置している。まだ近いじゃないか。プレハの軍団は一か月南下してくるんだぞ。だがこの前の戦争のときにはまるまる二か月ほど進軍した。雨に邪魔されたんだ。だがそれ以上進軍することだって稀じゃないぞ」
「で、そのあとは向こうの国城まで南下するんだろう?いったいどの程度かかるんだよ」
「そこからは比較的緩やかな下りの道になっている。すこし早く歩けるとして十日といったところだな」
「行きが十日なら帰りの登りは疲れきって二倍かかるだろうよ」
フェネックが皮肉を込めてそう言った。
「たしかにこの二日はつらかったわ。一日目の夜もほんの少ししか休まなかったし。でも明日の朝になって街道を作った時の記念碑の柱を超えればだんだん整備されてない道になってくるから無理して進んだりはしないと思うわよ。もっとも湿地帯のど真ん中で夜を明かすのは嫌だからその場合には眠れないけれど」
「僕はスカーレットさんが励ましの言葉をくれるんだと期待してた」
「俺もだよウィル。とんだ期待外れだった」
「失礼ね」
ブラッドがスカーレットと一緒になって鼻を鳴らすので少年たちは笑った。アクイラはそれを見て「まだ笑っていられるのなら心配はない」と言い、最後の荷物を降ろした。兵士たちは車道と歩道の段差に寄り掛かったり、街道を少し外れた草の上に寝転がったりした。彼らには味気ない大麦パンと飲み物が支給された。葡萄酒は兵士たちの元気が削がれたころに配るために馬車の一番奥で眠っている。そのかわりに新鮮な肉が焼かれた。肉はあまり保存がきかないし、敵地に近づけば火をたくこともできなくなる。これは最初のうちだけの楽しみだ。
スカーレット、アクイラ、少年たちは同じ火を囲みそれぞれの暮らしや故郷について話し合った。スカーレットはその話に夢中になっていたが、途中から誰かの視線を感じるような気がした。ちらりとそちらを見やるといかにも荒くれ者という呼び方が似合いそうな男たちがじっとこちらを見て、なにやらコソコソ話し合っていた。何を話しているのかはわからないがその顔にはあざけるような色が浮かんでいる。アクイラもその視線には気が付いたらしかった。火にまきをくべるふりをして、男たちの視線とスカーレットの間に割って入り、ロー村の酒についての話を続けた。
そして次はマークの番だった。マークは幼い妹の話をした。マークが徴兵されると妹は鼓膜が破れるのではないかというほど大きな声で泣き喚いたという。そうしてマークの話が終わるとウィリアムが口を開いた。だがアクイラが申しわけなさげにそれを制した。
「すまないが――グラディア隊長に代理の代わりで食糧の報告にいかなくちゃならんのだ。話は続けてくれていて結構だが、あまり無理せずに寝ておけよ」
アクイラは話しながらこちらを見ている男たちに一瞬だけ目を向けてスカーレットに気を付けろと忠告した。スカーレットはうなずいて「あなたもね」と言った。
アクイラが消えると視線は再びスカーレットを刺した。少年たちはヴァズの飼い犬の話を面白そうに聞いていたが、スカーレットはどうにも集中できずに自分も男たちを見やった。するとそのうちの一人と視線が交わってしまい、あわてて視線を外した。男たちは何かを言って一斉にどっと笑いだした。そして一人がスカーレットにまで聞こえるような声でわざとらしく言った。
「なぁ兄弟よ!なんてったってこんなところに隻腕の女がいるんだい?」
「さぁ、俺の知ったことじゃない。けどそこのお嬢さん、脱走するなら今のうちだぜ」
ほかのところに座っていた連中もその声を聴いて一緒におもしろがったり、迷惑そうに眉を顰めたりした。
「スカーレットさん、あんなの放っておけば良いです」
ウィリアムが小声で言った。スカーレットは一度うなずいて見せたものの内心では腹が立っていた。それがわかっているらしい、男たちはまたちょうど聞こえるような声で引き続きわざとらしく話し出した。
「かわいそうになぁ、あの銀髪の男も子守を任されてさぞ迷惑だろう」
「それとも惚れた弱みというやつか?ばかばかしい話だ」
その瞬間、少年たちはスカーレットのこめかみがぴくりと動いたのを見て青ざめた。スカーレットは不意に燃えきっていないまきを一本ひっつかむと、思い切り男たちへ向かって投げつけた。それは男たちの焚火の中に入り火の粉を散らせた。誰かが口笛を吹いた。
「アクイラは私に惚れちゃいないわ。それに私は子供でもない」
スカーレットは立ち上がって大声で言った。
「そりゃ悪かったなぁお嬢さん」
「言っておくけれど私は強いわ。そしてアクイラはそんな私よりもっと強い。あなたたちなんてひとひねりね。もちろん私がひねってあげたって良いのだけれど」
少年たちはわあわあと騒いでスカーレットを止めようとしたが、彼女はもう聞いていなかった。わざと荒々しい足取りで歩いていくと焚火の前の男たちの前に腕組みをして立ち、見下ろした。
「誰が相手してくれるのかしらね」
中心人物らしい男にそういうと、後ろのほうで手が上がった。それは焚火からは少し離れたところに座っていた中年の男だ。男たちは中年の男と仲間同士というわけではなさそうだが、その意思表示で彼もまたこの状況を面白がっているうちの一人なのだと思ったようだった。
「あのおっさんが相手してくれるってよ」
「おー、俺にまかしときなー」
中年の男は気のない返事で言いながら、剣を地面に突き立てて「よっこらせーっ」と立ち上がった。その様子はあまり真剣には見えなかった。けれどスカーレットにはこの男がそれなりの実力者であることが分かった。
軍団の兵士にしては気が抜けているが、その光る剣を見れば彼が武器の重要さを理解していることはすぐにわかる。使い古されたブーツや鎧もところどころ自分で補修したような跡があるが、その直し方は正確そうだ。男は短い顎鬚をなでながらスカーレットを見下ろした。男はレインドか、それ以上に大男だった。
「俺はクーリフってんだ。よろしくなぁ隻腕のスカーレット嬢」
「私のことは知っているようね」
「これでも前の戦争にも居たもんでね。お初にお目にかかるっていう奴だが、噂はかねがねだ」
「光栄だわ」
スカーレットはのんびり歩き出したクーリフを目で追った。彼は隊長が見回りをしやすいようにと空けられている街道の車道に下りて行った。スカーレットもそれについていった。
「おいみんな、楽しいことが始まるぞ!」
焚火の前の男たちはゲラゲラ笑い、ほかの者たちも興味深げに近くに寄ってきた。喧嘩ごとは面倒がられても、暇を持て余す彼らに夕食の余興になる血の流れない決闘は見ものなのである。
「まだ進軍して二日目よ。しりもちをついたほうが負けでいいかしら」
「よしきた! ところでスカーレット嬢」
「ええ、わかってるわ。両手を使ってくれて構わない。戦場ではそれが常になるのだから」
クーリフはにやりと笑った。二人は構えた。少し離れたところで燃える焚火が小石の影を細長くしている。スカーレットと対面するクーリフは長い木の影の中にいて、その姿は影の中に溶け込んでしまいそうだった。だが鋭い眼光だけは影に染まらず、焚火の色に燃えていた。
スカーレットは不思議な感覚に襲われた。クーリフはあの下品な笑みを浮かべる男たちの代表として自分と戦うはずなのに、まったくそんな気がしなかったからだ。クーリフはスカーレットをあざける笑みを浮かべるわけでもなく、ただ戦いを楽しみたいだけというように見える。
先に動き出したのはクーリフだった。はじめは様子見のようで、浅い切込みが何度も繰り返された。スカーレットもまた相手の剣の出所を探っていた。なるほど、この男は一対一での戦いをよく知っている。そして驚くほど冷静だ。それはこの戦いが血の流れない戦いであるせいかもしれなかったが、おそらくこの男は戦場でもこうして冷静に違いないとスカーレットには思われた。彼は戦いを熟知していた。ある意味では軍団の兵士よりもずっと深く。剣の構えは正規のものではないにせよ、彼の動きに深くなじんでいる。村の噴水の前でスカーレットが倒した小太りの男は、戦い方を心得ていないためにおかしな剣の持ち方をしていたが、クーリフの場合はそういうわけではない。おそらくこの男は傭兵だろうとスカーレットは思った。
剣の受け合いが少し続いた。だんだん剣の勢いは増してくる。お互い様子見はやめて本気で切りかかっていた。二人は目線を合わせて笑いあった。クーリフはいやに楽しげだし、スカーレットもまた楽しんでいた。剣で言葉を交わすとはこういうことなのだろうか。まるで剣を通してクーリフの戦いに対する興奮と熱意が体に流れ込んでくるような気さえする。
お互いの動きに少し慣れてきたところで、スカーレットは体を傾けて斜めに切り込んだ。受け止めに来るだろうと思いきや、クーリフはその大柄な体には見合わないしなやかさで一撃を交わして見せた。そしてまたしばらく打ち合いが続いた後で、今度はクーリフが正面から重い一撃を放った。スカーレットは左に半回転してそれをよけた。もしもまだ右腕があれば、この瞬間スカーレットは痛みを感じただろう。だが指一本の差で一撃を交わしたスカーレットは、次に降りかかってきた素早い一撃をよけることはできなかった。首の手前で寸止めされた剣は月光を浴びて怪しい光を放っていた。スカーレットは笑いながらその場にしりもちをついて座り込んだ。もう、自分とクーリフが剣を合わせることになった理由など頭の中から抜けていた。
「っふふ、完敗だわ!」
スカーレットを見下ろすクーリフの高い鷲鼻から一滴の汗がしたたり落ちた。彼もまた豪快に笑ってスカーレットに手を差し伸べた。二人は緊張で汗ばんだ手を取り合って、今では信頼しきった目を互いに向けていた。
「噂は誠だったらしいな」
まわりで傍観していた兵士たちも二人の高度なやり取りに感心して、中には拍手をする者までいた。こうなると面白くないのは焚火の周りの男たちだ。
「おい何を仲良くやってるんだ! お前はその男に負けたんだぞ!
俺たちなどひとひねりだと言ったくせに」
スカーレットは「あらまだ居たの」とでも言いたげな顔で男たちを肩越しに振り返って見た。その表情がカンに障ったのか、男たちは今度はクーリフを睨みつける。クーリフは苦笑いを浮かべた。やれやれ、とうんざりした様子でもある
「たしかに戦う奴はいるかと聞かれて手はあげたがな、俺が一体いつお前さんたちの仲間になったというんだ。俺はただスカーレットの腕が本物か興味があっただけだ」
「な、なんだとお前!」
「あーあーやめておけって。今ここで俺とスカーレットを一緒に敵に回したくはないだろ?」
それを聞いて、スカーレットはクーリフが自分の味方に付いてくれたことが分かった。黙ってしまった焚火の男たちに「まぁ気が済まないなら今度相手するわよ」と声をかけてやってから呆然と一幕を見ていた少年たちに向き直った。少年たちは顔を見合わせてから口々に凄かったのなんだのと感想を言った。そしてクーリフを自分たちの焚火に迎え入れた。
しばらくして戻ってきたアクイラはすでに騒ぎを聞かされていたようで、スカーレットは大目玉をくらった。
それでも新たな戦友を交えた街道の夜は悪くないと一行には思えたのだった。
クーリフさん好き




