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片腕の英雄  作者: ラニスタ
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5 右腕

 肺が冷たくて、心臓が避けそうだった。脚の筋が断裂しそうだし、振っている腕はどこかへすっ飛んでしまいそうだった。それなのに足も手も止まらない。呼吸も止まらない。いっそのこと呼吸が止まってしまえば良いのだ。両腕が消えてなくなれば良い。脚が動かなくなれば良い。それが無理ならばこの足が永久に動き続けて、世界から逃げ出せたらどんなに良いだろう。辺境まで走ってきたスカーレットは限界を超えた足で、ほとんど原型をとどめていない砦の城壁に寄り掛かった。


「スカーレット!」


名前を呼ばれてはじかれたように顔を上げたスカーレットは、もう一度走り出そうと城壁から背中を離した。だがもう走れるほどの力は残されていなかった。よろよろと前のめりになる体にかろうじて足がついてくる程度だ。もう一度名前が呼ばれ、腕をつかまれた。


「嫌ぁあ! 触らないで! 私は! 私は何もしてないわ、何も見てないし何も触ってない!」

「スカーレット!」

「なんでよ! なんでそうやって現実に戻そうとするのよ! あのときもそうだったわ!」


ぴたり、とアクイラの動きが止まった。


「消えてなくなりたいのにあなたの腕が私を現実に引き戻そうとするの!」


アクイラは、ぐっとスカーレットの手を握る力を強めた。スカーレットは痛みに顔をゆがめた。


「――そうだ、お前が一番よく知っていることだ。アクイラと言う男は無力で無責任だと」


絞り出すような声に、スカーレットははっとした。うつむくアクイラはあまりに辛そうだった。自分と同じくらい、もしくはそれ以上に。なぜこの男はこんな顔をしているのだろうか。なんにせよスカーレットは自分が叫んだ言葉を振り返ってすぐに罪悪感に駆られた。


「……あ、アクイラ、違うの。あなたが優しいから当たっただけで」

「事実だ。多少無茶してでも俺が一人でやればよかった。甘かった。君が苦しむなら、あんな村人どもは放っておけばよかったんだ。本当に……本当にすまない」

「あなたが悪いんじゃないの。そんなこと言わないでちょうだい。本当に、ごめんなさい。あなたがそんなに苦しそうにすることないから……」


するりとアクイラの手はスカーレットの腕を離した。


「スカーレット、俺がここに来た理由を話しただろう? 

ある女性を支えるためだと――それは君のことだ」


そうか、あれは自分のことだったのかとスカーレットは他人事のように思った。


「君が再び徴兵されるかもしれないことをレインド隊長が恐れた。あの人は君のことをひどく気にかけていたからな。それを聞いたグラディア将軍が、私には口を出せる権限がないから、もしも最悪の事態が起こった時には君を支えるようにと、そう言い使ってきたのだ」

「軍隊の中で一番お偉い方に気を使わせるなんてね。国中、私みたいに嘆いている人はいるのに。そしたらいったい何人のアクイラが必要になるのかしら」


 自分の存在への皮肉を込めてスカーレットが言った。アクイラはそれを取り消させるように続ける。


「俺たちが気にかけているのはあくまで君だけだ。君がどう思っているかは知らないが、君は一人の人間としてあの方々に好かれているし、俺も君を……友人だと思っている。それに俺が長らえさせてしまった命だ。少しでも役に立ちたい。君は気にするなと言うだろうが、俺は気にするのだ」


スカーレットには反論の余地がなくなった。アクイラに無駄な責任を感じさせ、嘆くことにひどく疲れた。手を貸すと言ってくれるのだ。ならば手を借りてしまえば良い。もしも耐え切れなくなったら敵に身を任せてしまえばいい。今度はアクイラが見つけられないところで。スカーレットは横暴にもそう考えた。


「私を支えると言ったこと、後悔するかも」

「しない。最後まで君の右横にいると誓う。今から俺は君の右腕だ」


アクイラはまっすぐにスカーレットを見つめ、その右腕の先にくちづけた。



***


 新しい右腕を手に入れたスカーレットは、そのあと村人たちに見つからないように家へ帰った。アクイラは宿へ戻ると言ったがスカーレットは空き部屋を貸すと言った。それは宿代が省けるという理由もあったし、なによりスカーレット自身一人きりで家にいることが嫌だったからだ。別の部屋にいたとしても誰かしらが同じ屋根の下にいるという事実が自分を安心させるだろうと思ったのだ。最終的にスカーレットは「右腕だけ違うところにあるなんておかしな話だわ」とアクイラに言ってやった。そこでアクイラは仕方がないと言いたげに頷いた。彼も内心はスカーレットの精神状態が心配ではあったのだ。

 スカーレットはなんとか家にいてくれることになったアクイラのために夕食を作った。先刻まで徴兵されて嘆き悲しんでいたのに、いまではこうして夕食を作っていると思うとなんだかおかしな感じがした。気持ちは晴れないが、一度落ち着くと今度はどうしてもまだ徴兵されたという事実が別世界のことのように感じられるのだ。


アクイラはと言うと台所に立ち片腕でなんでも成してしまう彼女を興味深げに後ろから眺めている。


「スカーレット、右腕が必要になったら呼ぶと良い」


アクイラはそう口出しするも「いらないわよ」とあっさり断られてしまった。彼女は手際よく支度を終えるとアクイラの前に暖かな夕食を並べた。それはアクイラがとった古ぼけた宿の夕食より何倍も良い色付きでうまそうな匂いがした。


「こんなに食欲をそそられるのは久々だ。ありがたくいただこう」

「二人分作ったことってないし、あなたがどのくらい食べるかわからなかったから多めに作ってしまったわ。残してもいいのよ」

「残すだなんて。そんなもったいないことはできんな」

「そう言ってもらえると、作り甲斐があるってものね」


言葉通りアクイラはそれはうまそうに夕食を平らげた。うまいうまいと言うアクイラにスカーレットもなんだかうれしくなって少しだけ気分が楽になった。


「……明日はどうするの? 私あんな勢いで走ってきちゃったからいつどこに行けばよいのかもわからないし」

「そうだな、その点なら心配ない。そのうち俺のもとにも書状が届くはずだからな。明日あたり村の郵便物を確認しに行ってみる。それで、それを確認したらちょっと隣町まで出かけて装備を整えようじゃないか。城下でも良いが、品薄になりそうだ。それに君は自分の馬が必要だ。戦う時はわからないが、少なくとも移動のとき色々と頼りになる。買いにいかないと」


スカーレットは前回の徴兵の時に初めて手に入れた自分の馬のことを思い出した。馬は好きだ。だがその馬は軍馬にしてはあまりに怯えていて、最後の戦いのときにスカーレットを落として逃げてしまったという苦い思い出がある。次は勇敢な馬を買い取りたいものだと思いながら、スカーレットは皿を片付けるため立ち上がった。その瞬間、まるで大量の血液が急に流れ出したかのように右腕が脈打ちスカーレットは顔をしかめた。見ていたアクイラも顔をしかめた。


「どうした」

「腕が痛んだだけよ。でもよくない事だわ。たいていこういう日には悪い夢を見るから」

「そうか……やはり痛むものなのだな」


アクイラはそっとスカーレットの持ち上げた皿を手に取った。


「ごちそうになったから俺が片付けるよ。今日は早く寝たほうが良い。眠りが深ければ人は夢を見ないと聞いたことがある」


まだ眠るにはかなり早いのだが、スカーレットはアクイラの言葉に甘えておくことにした。


「ありがたくそうさせてもらうわ。軍備品は村の税金から出るの。明日はたんまり使い込んでやらなくちゃ」

「そうだな、それが良い」


スカーレットはお休みを言い、自分の部屋に引っ込んだ。その晩ははやり腕も痛むし、悪夢にうなされた。飛び起きてランプをつけ、また動く影を恐れてマッチを一本浪費した。けれど不意にこの家にアクイラがいることを思い出すと、自然と落ち着いた気持になった。

アクイラがいることはひどく自然なことに感じられ、それが逆にスカーレットにとっては不自然だった。スカーレットは広場から逃げ出した後のことを思い出した。あんなに八つ当たりのようなことを人に言ったのは初めてだ。今思い出せば羞恥の気持ちすら湧き上がってくるようなことをなぜ自分は言ったのだろうか。もちろん気が動転していたともいえる。だがそれだけでは無いような気がした。そしてアクイラは傷ついたような顔を見せながらも、スカーレットの八つ当たりを当たり前のように受け止めていた。

奇妙な話だ。先刻まで相手を傷つけておきながら今は家に引き止めているだなんて。だがアクイラ相手ならそれが許されるような気がした。

それにも関わらず、スカーレットはまるで旧知の仲のようにアクイラの存在を受けている自分にはまだ気が付かなかった。

その晩、それ以降は暗闇に怯えることなく、ただ腕の痛みに耐えた。


 日の光に意識を覚醒させると辺りはいつのまにすっかり明るくなっていた。どうやらあの後痛みが引いて眠ることができたらしい。寝不足の朝の倦怠感は感じられなかった。スカーレットはぐっと伸びをしてカーテンを開けた。

朝日がちょうど昇ったようだ。民家の影は長く伸び、朝の青白い空気が村を包んでいた。一晩たっても昨日の騒ぎがまるで嘘だったかのようにスカーレットには思われた。このシンと静まった冷たい石畳の道を、自分は全速力で駆け抜けたなんて。たしかに徴兵されたことはスカーレットの心を暗闇に落とした。

ただ昨日と違うことは、嘘のようでありながらも徴兵されたという事実を心の中で受け止められていることだった。考えてみれば自分にはもう失うものは何もない。一番の地獄を自分はもう知っているのだから、きっと今回だって堪え切れると自分を勇気づけることくらいはできた。

それにアクイラがいてくれるというたったそれだけのことがスカーレットを安堵させていた。スカーレットはそれほどアクイラのことを知らないし、アクイラもまたスカーレットのことをそれほど知らないだろう。昨晩に引き続きなぜ彼に安堵感を抱くのかとスカーレットは考えたが、あまりよくわからなかった。アクイラは親友フェネックと似ているだろうか? 

考えてもあまり共通点は見いだせなかった。


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