最後の敗北者(1)
曇天くらいが一番過ごしやすいのだと痛感する。
ベンチをギリギリ覆うくらいの屋根の中、良明と陽、それからレインは灼熱地獄と化している日なたを、遠い世界でも観察する様に眺めた。
「水分補給、大丈夫?」
サンバイザーを被った長谷部が水を掲げて見せて言うと、彼女と同じくベンチに腰を下ろすチームの面々は各々に返事して頷く。
駐車場と観客席、森林。
当然ながら春の頃から変わる筈の無いグラウンドの場所に、二度目の大会参加となる双子とレインは想いを馳せずにはいられなかった。
レインは、人間達を見回しながら密かに回想する。
あのある大会から今日までの事を。
あの春大会の事を。
それよりも、前にあった様々な事を。
どこまでも戦い続ける良明と陽に、彼等と自分を支え続けてくれている先輩達に、恩を返せるのは今日をおいて他にはない。
その決意から来る緊張の所為だろうか。彼女は、グラウンドに降りてから今この時まで碌に鳴き声をあげなかった。
集中する事に集中する。
ともすれば理解や際限が困難な思考の海の中にあって、レインには感謝の念が絶えなかった。
長谷部は全員に対して立ち上がる様に指示すると、相手チームのベンチに視線を刺して言った。
「去年の覇者、連山高は確かに今年でも十分強い。見たところスターティングメンバーに一年生は一人も居ないし、ベンチに居るのは二人とも三年生だ」
良明も長谷部の視線につられて相手チームのベンチを見てみるが、そこまでの情報を読み取る事は彼には出来なかった。
(まったく、この長谷部さんとという人はどこまで観察眼の鋭い人なんだろう……)
「ただ、これは断言しておく。いい? 断言するぞ」
後輩達とドラゴンの視線が自分に集中したのを確認したうえで、長谷部は改めて言葉を紡いだ。
「今の良明と陽なら、去年のウチの三年生に勝つことも不可能じゃあない」
兄妹は最初、それは長谷部なりの一種の督励からくる言葉なのかと思ったが、彼女の表情は言葉に対して誠実で、真剣そのものだった。
「勿論、”例のシンクロ戦法が決まれば”っていう枕詞はつく。それは前提」
古文で習った――はずの――枕詞という聞き覚えのある言葉の意味を必死で思い出しながら、文脈でなんとなく納得する兄と妹である。
「あの連山だって、絶対に勝てない相手じゃあない。それを念頭に入れた状態で、相手よりも弱いという意識を捨てて戦って来い!」
『はい!』
一同の長谷部に対する返事のタイミングが、意図せず完全にシンクロした。
「よし、精神論はこんなところでいいとして、相手は春大会での決勝での敗北から大幅に練度を上げてきてるはず。いきなりの速攻も十分あり得るので警戒を怠らない事。あとは樫屋の現場での判断に任せる」
「解りました」
けやきが返事すると、長谷部は勢いを殺さないタイミングで間髪入れずに言い放つ。
「よし、行って来い!!」
灼熱地獄へと、戦士達が足を踏み出した。
コートの中央に向かって歩きながら、敬礼の朝美はひそひそ声で小躍りした。
「うわー可愛ぇ、超可愛ぇ!」
「眼がくりっくりしてる……」
リップスティックの裕子までもが朝美に同調するのを見て、部長の江別はため息一つ、思ったままの批判を未加工のまま口から出力した。
「お前らなぁ……この大舞台でなんつう緊張感の無い……」
それを聞いた朝美は、高校最後の公式大会に臨んでいる江別をつかまえてこんな事をのたまった。
「ゆーちゃんゆーちゃん、部長が照れてる! やばいよ!! あの娘の色仕掛けにかかってるよ!!」
「やばいね、超やばい。負け確だね、なんとかしないと」
「……お前等、それ以上言ったら後で麻木に言いつけるぞ」
麻木という名を耳にした途端、二人はわざとらしく畏まった歩き方になって二人の間を歩く江別を覗き込んだ。
「頑張りましょう、部長!」
「最後の公式大会ですもんね!」
朝美はいつものようにビシッと嘘くさい敬礼をしてみせた。
”その態度が不真面目なんだよ”と江別は言いたくなったが、今更にも程があるのでよしておいた。
一連のシーケンスが終わってやっと、江別は正面に既に控えている大虎高チームを見た。相手チームの面々は何かしら話しているが、とうに話の途中なので内容はつかめない。
ツーバカコンビこと朝美と裕子を恨めしく思いながら、江別部長は何の気なしに相手チームの群れの中央に居る女子に目をやった。
(ツーバカコンビ共が可愛いって言ってたのはあの二年……いや、一年か? 確かに眼がくりっとしていて長めの鬢が可愛いっちゃ可愛いが、事ここに至って試合前にそれを口にするこいつらの神経って……)
大虎高チームの正面まで来ると、江別は「よろしくお願いします」と言ってけやきと握手しながら思うのだ。
(図太過ぎて、ついつい頼っちまいそうだ)
その顔には、信頼に満ちた笑みが滲み出ていた。
全選手が整列すると同時に、観客席とベンチでは各学校の関係者が身構える。
大虎高校にとっては、相手は去年の夏大会の優勝者にして前回春大会の準優勝者。
連山高校にとっては、あの樫屋けやきが在籍する学校。
この試合は、お互いに一定の実力を認識しあう者同士の戦いであった。
他コートで繰り広げられている試合が雑音として耳に入るが、それが一秒後の意識には残らない様な静けさが、Bコートには広がっていた。
タイミングを見計らって、男性審判が口を開く。
「只今より、連山高校対大虎高校の試合を始めます。審判は私、竹達が努めます。試合は前半後半各十五分、インターバルは五分とします。両者、向かい合って、礼」
良明と陽はいつもの様に一歩退いて、ジャンプボールに臨むけやきに場所を譲った。
一方、陽は相手チームのジャンプボールに臨むユニットに視線をやる。ドラゴンはレインよりも少し大きい程度の、深緑に覆われた雄。鱗の質感や汚れの少ない角といい、そこまで年を取っている様には見えない。
騎手は女子で、染めてあるのか地毛なのか微妙な色合いの仄かな茶髪を後ろで束ね直して、今、ドラゴンに浅く跨ったところだった。
そんな彼女と目が合った。その騎手がにこっと陽に笑いかけてくる。
陽はどうしていいのか解らずにおろおろとしそうになる自分を引き締めて、真剣な表情を作り直して会釈した。
それに対してジャンプボールに臨もうとしている朝美はなんだかきゅんと来た顔をした。――様に、陽には見えたのだが、気のせいだという事にしておいた。
沈黙。そして、ホイッスルを手に審判が息を吸い込む。選手の誰もがついに来たるジャンプボールの瞬間に身構えた。
その瞬間の重要性を、お互いの選手は理解している。相手チームは警戒するべき実力を持っていると知っているからである。故に、その場の誰一人として油断などしてはいなかった。
ボールが今、打ち上げられる。
ドラゴンに跨る両騎手は手綱を適度な力で握り、いざ昇っていった。
けやきと相手選手の姿を追い続ける陽の眼には、当初、見慣れたその動きが映っていた。違和感は、一秒が経過したところから始まる。
けやきが頭一つ朝美をリードし、ボールへと先に手を伸ばす。ガイも、けやきも、ジャンプボールの獲得を半ば確信した。
だが、相手選手はそんな彼女等に対して競り合う意思をその表情に浮かべない。勿論、けやきが朝美の表情を視界に捉えるタイミングなどほんの一瞬に過ぎなかったのだが、にもかかわらず、彼女の脳裏にはその冷静な表情が妙に強い印象として焼き付いたのである。
けやきが左の手を添えて完全にボールを掴もうとしたその時、陽は漸く何が起こっているのかに気づいた。
ボールを手にしてガイの背の上で体勢を整えようとしているけやきに対して、朝美のユニットは未だ上昇を続けているのだ。決して加速しないままの速度で、淡々と、粛々と、高度を上げ続けている。
そして、ついに彼女の右手はけやきに握られたボールへと到達した。ボールを下部から包み込む様に、優しく纏わせるかの様に伸ばしていく。
けやきはその時、既に朝美がやろうとしている事の全容を把握していた。
(安定と引き換えに上昇の速度をあえて犠牲にし、わざと相手にジャンプボールを奪わせる。その上で、安定した状態からの上昇を続け、奪われたボールを改めて奪い返しに来る……だが!)
けやきは、自分の両手に力を込めてボールへの固定を強固にする。
彼女が思うに、両手対片腕でボールを奪われるとは思えなかった。
(この選手が実行した作戦は、相手がジャンプボールを獲得して油断している事が前提となる。私がジャンプボールを獲得し、その瞬間に生じる僅かな隙。力のゆるみ。それがあってこそボールは奪い返せる)
「ッシャァア!!」
二回戦最初のジャンプボールの結果に、陽の表情は剥製の様に凝り固まった。
先程、自分に対して笑いかけてきた者とはおよそ同一人物とは思えない迫力だった。陽は改めて朝美の表情をフラッシュバックさせてみるが、やはり今目の前でボールを奪い取ったのが彼女だとは、全く信じられない。
当然にして、連山高チームのその選手の容姿が変わったわけではない。
挨拶の時と声質が変わったわけでもない。
だが、彼女を取り巻く空気とでも表現すべき何かは、確実に変わっていた。
現にけやきがボールを奪われた。
今最も必要な情報はそれであり、それを受けて行動する事こそが最も重要である。
だが、それでも陽は考えてしまうのだ。
何が起こったのか。あのけやきからジャンプボールを奪い、しかもそれが、まぐれの類ではなく最初から狙った戦法により行われた事だという事実に対するする驚嘆。ボールを奪われた格好のけやきの小脇へと、ドラゴンと自分の体を滑り込ませる朝美の姿。三秒弱にまで凝縮された一連の攻防の密度。
気が付けば、様々な要素が陽の意識と視線を朝美のユニットに釘付けにしていた。




