道程は辛く<下>(4)
(危なかった。これが二点目だったなら、俺達は奥の手であるレギオンとサインの組み合わせを看破された状態で、あの才女の戦略と戦術に立ち向かわなければならなかった……)
久留米沢は不思議な安堵に包まれ、焦りも無く冷静かつ迅速に攻め上がっていった。
「いけ!」
上空の彼の相棒のドラゴンへとパスを出す。
ショウが、ガイがそれに向かって行くがいかんせん距離が離れすぎている。シュートを妨害する事は出来ない。
久留米沢のドラゴンと大虎高ゴールリングまでの距離はまだ十メートル前後あるが、それでも彼等がおよそ追いつけないというのは誰の眼にも明らかだった。
石崎が立ち上がる。
陽とショウがリバウンドに備えてゴールリングに駆けて行き、良明達もそれに続いた。
「……間に合わない」
そう呟いたのは、観客席から立ち上がった長谷部だった。
敵影なし。風は皆無。久留米沢のドラゴン・コウの脚力をはじめとした龍球の技術は薄石高の選手として恥じることの無いレベルである。
今まさに、ドラゴンはボールを振りかぶり、この試合最後の一点を投げ放とうとした、
その瞬間。
ビッビッビッ!
Bコートに、ホイッスルが鳴り響いた。
兄妹は、その瞬間何が起こったのか解らなかった。
どこかで聞いた事があるパターンのホイッスルではあったのだが、それを意味する所が果たして何なのか。酸素を要求し続ける彼等の頭は瞬時にそれを思い出そうとしてくれない。
「時間に救われた……」
長谷部は、そう言って腰を下ろした。
「前半終了、インターバル五分を開始します!」
野崎審判のコールで、兄と妹は漸く全てを理解した。
*
――――全五分のインターバルのうち、一分が経過。
チームメンバー達はベンチに集合し、輪を作っていた。
石崎に手渡されたスポーツドリンクを飲みながら、一同はその中で一人喋り続けるけやきの言葉に耳を傾け続けている。
「――――薬指が久留米沢、小指が来須を示すと思われる……以上が、私が確認した相手の情報伝達手段の概要だ」
「ん」
石崎がけやきの鎖骨にスポーツドリンクを押し付ける。
表情だけで『ありがとう』と伝え、けやきはそれを一口。さらに続ける。
石崎も時間が惜しい事は重々承知しており、その簡潔なやり取りに不服は無い。それまでに気づいた点を書き留めたメモに視線を落とし、石崎もけやきの言葉への集中を再開する。
「問題は、その対処方法だ」
「相手主将に指示を出す隙を与えない……とかですか?」
と良明が訊くと、けやきはスポーツドリンクをベンチに置きながら「いや」と続ける。
「確かにそれは有効な手段だが、これまで彼等が競技と指示を両立できていた点から察するに難しいだろうな」
「指示の内容を簡潔に捉えて……兎に角、右手の中指と薬指計二本が立ってたらパスを妨害しに行くっていうのは」
けやきは陽に答える。
「それも有効だ。ただし、パスのサインを変更してくる可能性はあるので注意は必要だ。まして、ここから先は一点で何もかもが決まる世界。薄石の体力も我々同様にある程度は回復している以上、パスのサインが速攻のサインに置き換わっているくらいは有り得る」
「たしかに……」
「あ、と、いう事は」
気づいた良明を褒める様に、けやきは「そうだ」と言った。
「相手のサインを把握し、こちらが何か攻め手や守り手を変更するという事はしない方が得策だ。むしろ、こちらにそれが筒抜けであると相手に思わせる事の方が重要だ」
「実際、私達はどう振る舞えばいいですか?」
「指示を送る選手、つまり安本の手元を見て堂々としていろ。そうすれば、相手は否応なしにこちらを意識せざるを得なくなる」
ここで石崎が口を挟む。
「大体キミタチ、あんだけ動き回ってる最中に安本の奴の手元なんて見てる余裕ある?」
「無理ですね。こっちの手元が狂います」
「無理ですね。こっちの手元が狂います」
「でっしょ?」
「石崎、何か気づいた事は?」
けやきは指摘した石崎の方へと顔を向け、回答を待つまでの間にスポーツドリンクを一口だけ口に含んだ。
尋ねられ、石崎は「ひとつだけ」と言って続ける。
「当然だけど、安本が周りに伝達するのはあくまで”指示内容”だって事を憶えといて。指示の発動タイミングは、ここまで全部安本が口頭で指示してる」
「つまり、レギオンが発動するときには――」
石崎は頷いてけやきに返す。
「――――必ず、安本が”展開”だとか”今だ”だとか口にするってコト」
けやきは「よし」と言って口を拭うと双子に方針を述べる。
「どんなに熟練した選手でも、竜から降りる際には一瞬隙が出来る。状況次第ではそこを突く」
「はい」
「はい」
かつてない高揚感に包まれ、最後の打ち合わせは畳みかける様に展開していく。
薄石ベンチも同様である。
ドラゴンを含め選手達は最後の一点をもぎ取る為の五分間を過ごしていた。
もはやそこには弱小校を相手にしている顔の者は一人として居ない。
「いいな?」
と、安本は上空に広がる青空の様に淀みなく、来須を直視して言った。
「部長、けど俺!」
「この状況で奴等の裏をかくにはそれしか無ぇ。ザワも適任じゃあるが、俺は来須に頼みたいんだよ」
「俺も異論は無い。むしろ速球を得意とする俺よりも来須の方がより適任だろう」
と、久留米沢。
ベンチで待機を続ける薄石高一年生緑山は、来須にこう続ける。
「この試合、来須にとっちゃ大事な勝負なんだろ? やりなって」
「俺は……」
「いいか、来須」
安本は、来須の両肩を掴んでその顔を見据えた。
「今のお前の態度。つい十分前とは大違いだ……もう、解ったんだろ?」
何が、とは安本は言わない。
「……はい」
「なら信じろ。俺を。……俺は強い。そして俺はあいつらの努力を実力でねじ伏せてぇ。だから負けたくねぇ。その俺が、お前に頼んでるんだ。だから、自分を信じろ」
久留米沢が電光掲示板に眼をやる。後半開始まで一分を切っていた。
安本は残り時間を気にするように来須に諭す様に続ける。
「お前が何を反省し何を思い直しただとかは、今はどうでも良い。けどな、これは勝負なんだ。お前が自分の意思で”絶対に勝ちたい”と思った勝負なんだ。だったら最後までやり切れ! そして勝つんだよ!! あのド素人どももここまでそりゃあよくやったさ。けどな、それでも俺達にだってプライドってモンがあんだよ。ここで逃げずに立ち向かわなけりゃ、お前はあいつらから逃げた事になるんだぞ?」
「部長、俺は……」
「俺やお前が今まで龍球人生でしてきた事は、紛いなりにも努力なんだよ」
来須は、顔を上げる。
その表情に憎悪は無い。だが、何かから解放された快楽も無い。
ただただ、今まで自分が味わってきた痛みや苦しみ。それと、費やしてきた時間に裏打ちされた、大人びた表情がそこにはあった。
善でも悪でもなく、純粋にプロを目指す龍球競技者の表情。
「…………解りました。俺が、やります」
「…………」
「やらせてください!」
安本は、後輩の背中を二度程叩いて「よし」と言った。
十二名の選手がコート上に集合するのを確認し、野崎審判は事務的に腕時計を見てから言う。
「選手位置につきました。ボールは前半終了時の薄石高校から。これより、後半を開始します」
まったく、この人は端からこの試合を見ていて何の感慨も沸かないのだろうか。審判の無表情っぷりに、ついつい陽はそんな事を考えた。
そんな筈、あるわけが無いのである。
この試合の審判を務める野崎は、この壮絶な戦略の応酬に胸躍り、今にも漏れ出しそうな歓声を押し殺して仕事に臨んでいた。
これが高校生の少年少女の意気込みか?
これがアマチュアのドラゴンの迫力か?
彼等は、この試合にどれ程の物をベットして今日までの高校人生を過ごしてきたのだろう?
赤か黒か。自分で結果を引き寄せられるルーレットを必死で回し続ける全選手に、野崎は今すぐにでも喝采と賛辞を送ってやりたかった。否、それこそが野暮な行為であり、00の緑にボールを入れる愚行であると、彼は解っていたのである。
だから、今はただ見守り、その優劣を果てしなく公平な視線で見極める必要がある。
最上の特等席で。
野崎が手渡すボールを受け取った相手は、来須であった。
明らかに先程までとは違う彼の雰囲気に英田兄妹は未だ気づかない。
が、仮にこの時彼等が来須の変化に気づいていたとしても彼等が彼に向ける感情にさほどの変化などあった筈もない。けやきは、そんな後輩達と毒の抜けた来須へと順番に視線を向けた。
「良明、陽、気を抜くな」
「はい!」
「はい!」
安本も来須の背中を見据えてメンバーに言う。
「お前等!」
解り切った言葉の先を沈黙で促す、薄石高チームメンバー。
「絶対に、勝つぞ」
「おう!」
「はい!」
都合よく風など吹き抜けない。
Bコートには一瞬だけ静寂が訪れ、殆ど動かない空気が試合の再会を促すだけだ。
来須が、動き出す。
良明と陽は、ついに訪れたこの一瞬に、この先の数分間に、想いを馳せずにはいられなかった。
(ここまで、本当に大変だった。運動なんて碌に出来ない俺達が、こんな相手と戦える様になるには大変な練習をするしか他に方法がなかった)
(ううん。大変な練習をしたとして、だから勝てるんだったら、参加者の誰もが夫々優勝してなきゃいけなくなる)
観戦席では、長谷部が寺川に語り掛けるのだ。
「樫屋さんは、大した娘ですよ」
「しってます」
にっこりと笑顔になり、寺川はゆっくりとした口調でそう応えて続けた。
「彼女は、ガイ君に惚れていて、天才的な能力があるというだけじゃない。一見口下手に見えて、しっかりと後輩を引っ張っていくリーダーシップがある。それも天才と言われる特徴の一つだと括ってしまっては、柄ではない部長という役職をここまで続けて頑張ってやってきた彼女が可哀想というモノです」




