真理は甘く(5)
梶田はドラゴンの背を足場にし、ボールを遥か前方――大虎高のゴールリング――めがけて投げ放った。
「な、に!?」
良明は頭上を通過したボールに視線を追従させるが、凄まじい風景の転換に圧巻されそうになる。梶田からゴールリングまで、距離で言えば二十メートル弱。狙っても到底シュートなど決められる距離では無い筈だった。
と、良明の視界の両端にユニットの影。
丸江と早山だった。
梶田が投げたボールは、初速こそなかなかの速度を獲得していたが、徐々に徐々にその勢いを削ぎ落とされていく。
当然、最終的にはゴールリングに入らなかった。入らなかったのだが、その白いボールはゴールリングを垂直に支えるポールへと激突し、角度をつけて丸江の前方へと跳ね返った。
「良明、マークを崩すな!」
丸江ユニットに追いすがるけやきの指示が飛ぶ。良明は、言われるままに背後の梶田へと意識を集中し、ちらりと振り返った。
そこに、梶田の乗っていたドラゴンの姿は既にない。あるのは、いつの間にかドラゴンから降り、大虎コートの攻防を見守っている梶田の姿のみ。
その表情は、期待の笑みに満ちていた。
「先輩!!」
良明が今一度振り返りけやきに向き直るのとほぼ同時に、丸江ははね返ってきたボールへと滑り込む。ビーチフラッグでもやっているかのような、確実に擦り傷の一つでも出来ている筈の姿勢と勢いである。
けやきを運ぶガイは、体の向きを変えて丸江へと向かおうとする。が、彼の一連の動作に対し、形振り構わない丸江の動きは余りにも迅速だった。
ガイの脚による前進を続けつつも、けやきは視界の中に捉えたボールと丸江の位置を見て悟る。
(――追いつけない)
ボールは今、その身を起こした丸江の手中に固定された。
けやきを背に乗せてそれへと向かって行くガイは、地上に立つ丸江へと自ら手を伸ばす。
「早山ぁ!」
その名があの二年生女子を示している事を先ほどの攻防から把握していたけやきは、陽の名を省略して指示を出す。
「パスカット!」
その一瞬、その五文字を口にした事でほんの僅かだがけやきに隙が生じた。
天才を前に絞り出した仄かに煌く好機。丸江は、躊躇うことなくその場でゴールリングめがけてボールを放った。
「なにっ」
けやきが声をあげるのも無理はない。丸江を乗せたドラゴンと、大虎高のゴールリングが成す角度は、甘めに見ても七十度はある。その上、碌に狙いを定める暇など相手には無かった筈である。これではボールをリングに届かせる事はかなり厳しい。
そして直後に聞こえて来た、頭上に広がる快晴の空の様な色の声。
「先ぱぁい、またですかぁ! もー!!」
弾ける様な、早山の声だった。
その時、けやきが試合再開前から感じていた予感の様な物が、ついに眼前に像を結んだ。
誠雲館高校の風が吹き抜ける。
リングに弾かれたボールは宙を舞い、再び滞空している。
早山へのマークを解く事が出来ず、それを見上げる陽とショウ。
けやきを乗せたガイは脚に力を込めて地面を蹴り続ける。
レインは良明と共にその遥か前方に位置している。
この状況で、全選手の中で一番最初にボールに追いすがる事が出来る者。それは、現在単独で中空を飛び回るドラゴン。今しがたまで梶田が乗っていた、あのドラゴンだった。
梶田のドラゴンはボールをキャッチする事も無く、尻尾で打ち払ってリングへと叩きつける様にシュートを放った。梶田はといえば、側に居た良明の隙をついて大虎コートへと脱兎の如く走り出す。良明とレインはそれを追いかけるが、走り出したタイミングの遅さが致命的な距離の違いになってしまった。
誠雲館高校のドラゴンが放った雑極まりないシュートはリングに弾かれ、ボールは空高くへと跳ね上がる。
けやき、丸江、陽、早山の四ユニットがここぞとばかりにそれに群がっていった。
勿論梶田のドラゴンもその群れの中の一角に加わる。
良明を尻目にかけてその群れの下方まで梶田が駆け付けると、その前方上空から、こんな会話が聞こえてきた。
「先輩! 今度こそ私がシュート決めますから!!」
梶田の一つ上の先輩、早山の声だ。
「いやいや、私が一点入れたいもん!」
さらにその一つ上の先輩である部長丸江が、作戦もへったくれも無い主張をしている。
梶田は、ついに口から声を漏らす。
良明はしっかりとその声を聞き取った。それは、「ははは」という、腹の底から湧き上がる様な、下ろしたてのユニフォームの様に穢れの無い色の声だった。
上空では、早山がついにボールを獲得し、今一度のシュートを放つ。が、誠雲館高校によるシュートはやはり雑で、またしてもあっけなくゴールリングに嫌われた。
そのボールに追いすがったのはショウに跨る陽。この時良明は、上空に位置する妹の表情を見て「あ」と声を出した。
大虎高チームにとってピンチの連続。丸江と早山のやりとり。眼下から聞こえてくる梶田の笑い声。それらの要因が引き金となり、ボールへと手を伸ばす陽もまた、口の端を曲げながら必死で笑いを堪えている。
上空のどの選手の手にも渡る事が無かった白球が、梶田の目の前へと落下してきた。
けやきを背に乗せたガイがそれへとほぼ垂直に急降下しているが、梶田はそれに怯むことも無く、先ほどの丸江よろしくその身体を投げ飛ばす様な勢いでボールと地面の間へと滑り込ませた。
流れる様な動きで梶田が起き上がると、その前方には一組のユニット。
良明とレインは、腹から下を砂まみれにした梶田へと猛追していた。
ボールを手にした梶田は思わず一歩後ずさる。同時に、道端で蛇でも見かけた様な情けない声を出して反射的にそのボールを小脇へと遠ざけた。
そのあからさまに及び腰になった彼の姿に、良明の笑いに対する許容値もついに限界を超える。
少年は、破顔した。吹き出して笑い出した。
その影響である。陽光に目を細める様に、良明の視界の風景は格段に狭くなった。
「っはははっはは!!」
(ああ、だめだ)
良明と陽と、早山と丸江と、あと梶田本人も。
ついに完全にツボに入った。けやきでさえ苦笑いに近い表情になっている。
梶田の情けない姿に笑いが止まらないのではない。
誰がボールを手にして攻め込むかが中々決まらずに、ボールの行方が二転三転し状況が落ち着かない一連の流れ。
その間、その場の誰もがボールを追いかける事に対して瞬発的に必死になる様。
次々と笑いが連鎖していき、チームを超えた謎の一体感に包まれていく感覚。
それがさらなる笑いへの呼び水になって、歯止めが利かなくなっているのだ。
「っつおお!!」
それでもレインの背の上から腕を伸ばす良明に、泣き笑いの様な顔になって必死でボールを庇おうとする梶田。
向きを変えてさっさとシュートすればいい物を、良明に正対して攻防する事を止めようとしない。それが堪らなく滑稽で、けやきに続いて降りて来ている丸江達の笑いが収まる気配は全くない。
良明が今一度手を伸ばす。
奇跡的に再度ボールを守り抜く梶田。
高く上げられたその梶田の両手の中にあるボールが、彼の背後に降り立ったガイによりついに奪い取られた。
「先輩! 速攻を!!」
梶田ユニットの正面に陣取ってマークを開始する良明が笑いを堪えながら叫んだ。
それに呼応して羽根を広げるレイン。機動性を犠牲にする事により、梶田ユニットの移動を阻む事に成功した。
「まかせろ!」
心なしか、良明に返事したけやきの声は笑いを堪えている様だった。少なくとも良明にはそうとしか聞こえなかったのである。
「もう! 何これ!!」
たった今着地したショウの背の上で、陽が腹を押さえてそう言った。
レインの羽根の間から見え隠れする自コートのゴールリング。梶田は攻防の行く末を見守りながら、彼女のその問いに答えた。
「これが、俺達が龍球部をやっている理由です」
*
一回戦が始まる前。大虎高校との戦いを目前にして掲示板の前でうなだれる早山に対し、丸江は心配する素振りも無く話しかけた。
「私がさ、その樫屋さん相手になんでこんな余裕ぶっこいた態度でいられると思う?」
トーナメント表を確認するなり、”薄石高校”の四文字を自分達の学校名の隣の隣に見つけ、”大虎高校”の四文字をすぐ隣に見つけた早山は、こう切り返す。
「愚問……ですね」
丸江は、一際笑顔になって早山にいつもの言葉を告げたのである。
「楽しんだモン勝ち! だからだよ!!」
丸江部長の笑顔は、優しくて頼もしくて、痛快な笑顔だった。
*
飛膜に通る人間の腕程もある骨組みを、辺りに暴風を巻き起こしながら繰り返し上下させる。
ガイが、全力の羽ばたきで以て相手チームの選手を容赦なく引き離したのは、彼なりの誠雲館高チームへの敬意だった。
”自分もああいう風に龍球を楽しめたら、どれだけ幸せだろう”
良明と陽は、自分達が置かれた現状と、無駄と知りつつガイとけやきの背中を追いかけていく誠雲館高の人々の笑顔を、心の中で横に並べて見比べていた。
それは使命と目的の為に龍球をしている兄妹にとってたとえ手にしたくても現実という魔物がそれを決して許さない、得る事の出来ないものである。
彼らにとって誠雲館高校チームの龍球は、理想という名の偶像であった。
(それでも)
(それでも、私達は……)
遥か前方で、けやきが最後の一点を決める。
「勝ち進まなきゃいけない」
「勝ち進まなきゃいけない」
三度聞こえた電子音は、無情にも龍球選手達にとっての理想郷を終焉へと誘った。
審判がホイッスルを鳴らすと、全選手がコート中央へと駆け寄っていく。
石崎はベンチから立ち上がり、その横のシキはといえば鼻息一つ、皆に怪我が無いか見回していた。
「ゲームセット。以上、ポイント3-0で大虎高等学校の勝利と判定します」
審判が試合の終わりをコールすると、両校の選手達は礼をする。
その礼は、形骸化した相手への礼儀などではなく、心の底からの楽しい時間を共有した相手への敬意と感謝を込めた感情のやりとりだった。




