真理は甘く(2)
ベンチの石崎は、油断大敵と知りながらも安堵のため息を漏らした。
「大虎高、一点。ゲームポイントワンゼロ」
審判の川瀬が大虎コートに腕を伸ばして得点をコールした。その表情には特に感情的な色は無い。
「ごーっめん! ありゃ無理だぁ」
丸江は自コートへと戻りながら、後輩とドラゴン達に対して手を合わせて頭を下げた。
「ドンマイす部長」
「なんのなんの」
早山と梶田がそう言うと、彼女等が跨っているドラゴンも口々に「グァ」と鳴いて同様の意思を主張した。
「ありがとよー。まぁ次はウチらボールだから。ガンガン攻めてこ!」
一方、大虎コートでも既に全ユニットが集合していた。
「良いポジショニングだったぞ。レインもショウも緊張はしていない様だな」
「グゥ」
「グァ」
けやきに対して、名を呼ばれた二頭が小さく鳴いて肯定の返事をする。
「良明と陽もあれでいい。前を向かずパスだけ待っていた事で、相手を引き付ける事に成功していた」
「はい!」
「はい!」
シンクロする声にけやきは微笑み、「よし!」と言って手綱を握りなおす。
大虎高チームのメンバーが会話を終えた頃、その遥か前方では誠雲館唯一の男子生徒がボールを手に試合を再開しようとしていた。
「来るぞ。お前達はボールを奪う事に集中しろ、防御は私が担当する」
けやきが指示するのと同時に、兄妹を乗せるドラゴンは地を蹴った。
「陽、この流れで俺達でもう一点取るぞ!」
「アキってば、私の台詞取んないでよね!」
レインとショウが喉を震わす。その唸り声が意味する所など、論ずるに値しない。
梶田は兄妹のユニットが向かってくると見るや、すぐに早山へとパスを出した。
懸命な判断である。一年生梶田にとって、相手がどんなものであれ二対一の攻防は気が引ける局面には違いない。パスを繋いで相手の戦力を実力のある先輩へと向けて、その結果相手の戦力を分散させることが出来たなら、後になんとか再びボールを回してもらって攻防に参加する道も見えて来るというものだ。
梶田は、向かってくる同じ様な顔をした男女を見て、ふと思う。
(この人達、何年生だろう? 三年ってカンジじゃないな……一年生か?)
梶田は首を横に振る。
(いや、でも一年生ってカンジでもない。オーラっていうか……こう)
良明は前のめりになって口を開き、その上半身に力を籠める。一方の陽は何かを悟った様な表情で手綱を引っ張り、ショウを梶田の斜め後方へと移動させた。その表情は、戦場を眺める軍師の様な風格を漂わす。
梶田は、ちらと先輩達の位置関係を確認する。真後ろに丸江部長ユニット。二年早山ユニットは陽が回り込んだ地点から自分を挟んで右前方に位置していた。
「一択じゃないですか、もう!」
梶田は早山へとパスを出そうと、一瞬の時間を大事に使って狙いを定める。
真後ろに居る丸江にパスを投げるのは体勢的に無理がある。となれば、右斜め前の早山にパスを出すしか無いだろうというのが梶田の見立てだった。もっと言えば、早くしなければ前方から向かってきている良明のユニットにボールを奪われかねない。そう思った。
腕を振りかぶり、ボールを――
「梶田ぁ! こっちこっちぃ!!」
丸江部長の声がした。
梶田は半ば反射的に上半身を捻り、今まさに早山へと投げようとしていたボールを無理矢理に後方へと投げ放った。
「く、だめか」
と呟いたのは良明。
レインの脳裏に、良明の発した言葉が意味する所とほぼ同様の思考が廻った。
(陽がこの男子の後ろに回り込んで牽制する事で、キャプテンっぽいあの人へのパスを封じるのが目的だったんだけど、やっぱり本番はそう甘くない、ね)
これは丸江の良采配であった。事実、あのまま梶田が早山へとパスを出していれば、良明が先程から意識を集中させていた左手でそのパスをカットできていたのだ。
だが、ここで諦めないのが陽だった。
彼女を乗せたショウは、勢いのまま丸江へと突っ込んで行く。
「まぁ、そう来るよ――」
丸江は受け取ったパスを、
「ねっ」
上空へと放り投げた。
つられて見上げる兄妹。快晴の日の太陽が邪魔をして、満足に瞼を開けられない。一瞬、兄妹はボールの行方を見失った。
何の事はない、その時一瞬、大虎高校の二ユニットが見せた硬直こそが、丸江の狙いだったのだ。
きれいに丸江の手元に落ちて来たボールを、彼女は難なくキャッチする。
「早山ぁ!」
と呼ばれた誠雲館高チームの二年生が「はい!」と大きく返事して、手を頭上へと伸ばす。良明は即座に返事をした方のユニットへと手綱を引いた。
が、丸江はそれを見てにやりと笑む。
彼女が「ほらいけ!」とパスを出した相手は、良明が中止した早山ではなく、一年生梶田だった。
「ああー! 先ぱぁい!」
不服そうに早山が抗議するが、梶田はそれには構わずにここぞとばかりにドラゴンを走らせた。
「キオ! ダッシュ! 超ダッシュ!!」
無我夢中で自分が跨るドラゴンに叫ぶ梶田。
その背後から追いすがる二つのユニットの気配にはすぐに気づいた。
そして、前方にはあの樫屋けやきのユニットが居る。
梶田は泣きたくなった。
何が悲しくて、一年生最初の大会で、こんなトラウマを植え付けられそうな局面を任されなければならないのか。
(任され――)
梶田は、はっとして部長の姿を探した。
(斜め左、斜め右、前方。三方向を大虎のユニットに囲まれたこの状況で、俺が確実にパスを出せる方向って言ったら――)
梶田の頭上に、ドラゴンの影が現れた。丸江は、その背の上から「オッス」と言って手をあげて、パスを求めている。
一連の攻防を見ていたけやきは思う。
(あの相手チームの主将、なかなかの実力者だ。にも拘らず誠雲館高校がこれまでの大会で結果を出していないのは何故だ? 今の状況で英田兄妹のユニットを追い越し味方からパスを吸い上げる……そんな芸当が可能なあのドラゴンも、かなりのスピードを持っていると言っていい)
けやきの眼前に丸江が迫る。その手には勿論確りと白球が握られていた。
良明と陽は丸江の後方に位置しており、結局丸江からボールを奪う事は出来なかったらしい。
丸江は手元に持っていたボールを腰へと回し、それと同時に彼女のドラゴンが飛翔を始めた。ドラゴンは、そのまま流れる様な動きでけやき達の頭上を通過していく。
丸江は腰を一周させてきたボールを、そのままの勢いで大虎コートのゴールリングに向かって投げた。
ガイがすかさずそれに追いすがり、けやきがその背の上からジャンプする。
十分に間に合うタイミングであった。
大虎高のゴールリング三メートル手前にて、丸江が放ったボールはけやきの手中に戻ってきた。
「英田!!」
けやきは、あえて双子二人に対してそう呼んだ。
その意図が相手チームへの攪乱である事は火を見るよりも明らかで、人間達の意図を悟ったレインとショウは今一度誠雲館コートへと攻め入った。
けやきは、”英田”と名の付く何れかに全力の投球でパスを出す。
*
それは、大会から遡る事十一日前。五月十八日火曜日の、大虎高校の日常風景である。
そこにはいつも通りに兄妹がいて、けやきがいて、ドラゴン達がいる。
そしてやはりいつも通りに、大会に出場する者の誰もが練習に励んでいた。
五月半ばの夕方の気温など、タカが知れている筈である。街中を歩けば長袖の人々が大半を占め、道路を行くバイクにはダウンジャケットを着用している者さえまだ見て取れる。
汗だくの高校生達は、大虎高竜術部の部室横にあるコートにて、必死に息を整えていた。
”額から流れ落ちる汗に邪魔されて視界が悪くなる”。
つい一か月前の良明は、そんな事が起こり得るなどとは露程も思っていなかった。否、そんな話題を頭の中で展開させたことすら、一度としてありはしなかったのだ。
だが、現に今自分はタオルを必要としている。
ジャージの袖で拭えばいい?
ジャージなんてとうにびしょびしょになったので脱いでしまった。背中の辺りなんて、コップ三杯の水を遠慮も無くかけられた様な状態になっている。
良明は、ここが昼間の砂漠のど真ん中ならば一時間以内に命を落とす自信があった。
「陽……水、もってる?」
「汲んで来ればいい……じゃん」
「それがしんどい……から、訊いたんだよ」
「しってる……」
喋れば喋るだけきつくなるだろうに、この期に及んで兄妹は息も絶え絶えに謎のじゃれ合いを展開するのであった。
旧校舎2の壁に背を預け、二人は並んで腰かけた。
途端に立てた膝の裏から腿へと汗が流れてくる。替えさえあればジャージのズボンも穿き替えたいところだが、けやきから与えられた休憩時間もそう長くはない。
「でもさ、アキ……」
陽は、ラベルを剥いだペットボトルを傾ける。取っておいた最後の一口を口に注いで、オレンジ色に染まる雲を仰ぎ見た。
「うん?」
空になったペットボトルを兄に差し出す。良明は陽の言葉の続きを待ちながらそれを受け取った。
「樫屋先輩見てみてよ。私達が三キロ走ってくる間、間違いなく私達のすぐ後ろをずっとついてきてたのに、あんな平然としてる……」
「……愛の力、ハンパ無いな……」
良明は口につけたペットボトルを傾けて、
「――て、空じゃねぇかっ!」
雑な演技で陽の懐に向かってそれを投げた。
因みに、兄はその手に受け取った物の重量が解らなくなるほど朦朧とはしていない。なんなら陽が水を飲み干したところをしっかりと見てもいた。
陽は、けやきの足元で砂袋を背に羽ばたいているレインに目をやった。
レインはレインで、ここしばらくに亘って先輩ドラゴン達からみっちりと特訓を受けていた。最初の頃はああして背に乗せてもらった砂袋を、一歩も動かない状態で三秒と経たずに落としてしまっていたレインだった。が、今ではその状態で地上五メートルを安定して飛行するに至っている。
けやきが兄妹に教えてやったところによると、あの練習がこなせる様になると人間がドラゴンの背の上で多少無理な体勢をとっても、ドラゴンがカバーしてバランスを取ってくれるのだそうだ。
陽は、傍らのボールを右の掌で鷲掴みにする。
そのまま十センチ持ち上げたところで、ボールがぼとりと地面に落ちる。
「あーだめだ。やっぱこれ、ムズい」
「陽さ、物理的に手が小さいんじゃないの?」
「ちょっとやってみて」
陽が良明の方へとボールを転がしてやる。
良明はボールについた砂を手の甲でぱんぱんと払うと、その右の手をくるりと回してボールを掴み上げた。
十センチ、十五センチ。ぼとり。
「あー惜しい。私よりはちょっともったかな?」
ぱっと見ほんの一回りだが陽よりも大きな自分の掌を見つめて、良明は呟く。
「久留米沢……さん。こんなもんじゃなかったよな……」
「だねぇ……」
と、その時遠くからけやきの声が聞こえてきた。
「英田兄妹、練習再開するぞ。しっかり水分補給して集合だ!」
膝にその掌をくっつけて、力を込めて立ち上がる。
――という動きが、兄と妹でシンクロした。




