辿り着き、見下ろす(7)
一つは、けやきが英田兄妹を下の名前で呼ぶ様になった事。
これまでは”英田兄”だとか”英田妹”だとか、或いはフルネームで彼等の事を呼んでいたけやきだが、今は下の名前を呼び捨てにしている。
これは、指示を出す際に少しでもセンテンスを短くする為という合理的な理由によるもので、何かこう、双子とけやきの間に親密になる様なエピソードがあったわけではない。
二つ目は、長谷部による練習の監修が始まった事。
坂がけやきに申し出た事から始まった、OB及びOG探し。それを始めて一か月足らずの段階で、大雑把な情報は別にしてOBOGに関する具体的な事は全く掴めていない状態であった。ゴールデンウィークが明けてからは山野手も加わってその居場所調査を続行したのだが、いかんせん竜術部の創部は十九年も前の事である。その当時に生徒だった者を探すなど、およそ容易なことではなかった。
ある日、その日の練習も終わりに差し掛かった頃にシキがコート上に姿を現した日があった。その途端に、彼の背中に声がかけられた。その声の主こそ、竜術部創部メンバーの一人、長谷部である。その姿は、竜術部部室横の中庭の、そのすぐ隣の家の二階の窓際にあった。灯台の下は随分と暗かったらしい。
長谷部がそこに住まう理由を聞けば何のことは無い。運命的でも偶然でもなく、彼女がそこに居た事は半ば必然の様なものだったのだが、それでも竜術部の面々が彼女の居場所を知った時のリアクションと言ったらなかった。
特にシキに対して”なんで今まで教えてくれなかったの”と詰め寄った石崎は彼等のおもしろいリアクションの代表格だったが、それはシキに対して諸々のOBOG探しの件を教えていなかった方が悪いという物だ。
シキは勿論長谷部が学校の隣に住んでいる事は知っていたし、OBOG探しをしているという事さえ知っていれば、その事を隠し立てするつもりなど毛頭なかった。
龍球チームについての変わった事の三つめは、英田兄妹である。
長谷部の参加から遡る事二日。あの、陽が魘されていた日からの事である。
双子は、あの夜の事を二人だけの秘密にしておいた。
たかが夢である。周りに要らぬ心配をかけて練習に支障をきたしたくはなかったし、そもそも当事者の陽が夢の内容をうまく思い出せないのだ。相談のしようもなかったし、相談された方だって手の差し伸べようが無いと思ったのだ。陽自身、話なら良明に聞いてもらってある程度気持ちも落ち着いたわけで、これ以上さっさと忘れたい事を誰かに話す理由も無かった。
一つ確かだったのは、あの日の出来事が練習へとより集中する為の燃料にはなったという事である。あの夜の事を忘れる様に、それまでも本気だった気持ちに輪をかけて、二人の顔つきが眼に見えて変わった。それこそ、命がかかっている戦場の兵士の様に、大会という戦いの場が日に日に近づくにつれ、まるで十年後の彼らの精神が高校一年生の身体に憑依したかの如きオーラを纏っていった。
今、この高校龍球大会県予選の会場には、傍若無人な強者に怯えるかつての彼等の姿は無い。
双子は、例え発展途上の実力でも、己がやるべき事を全うする覚悟を宿した眼をしていた。それは得体の知れぬ悪夢からのただの逃避だったのかもしれない。自らを鼓舞する為の、はったりの様なものだったのかもしれない。
だが、それでも、少なくとも悪夢を忘れ、お互いを鼓舞し、血の滲む様な一月半を無駄にしない為の変化である事に、なんら疑いの余地は無かった。
良明は、陽へとボールを投げる。
受け取ったボールの威力に、陽は良明による何かしらの意思を感じ取る。それはただのパスに相違なかったのだが、陽が思うにほんの気持ち余計に力が籠っていた様な、そんな気がした。
例えるなら、蛙が飛び込んだ水面に輪を描いた波紋に触れた様な、そんな僅かな主張が良明が放ったボールには感じられたのである。
陽は、兄の顔を見てからボールをレインへと回した。
良明は妹の視線を受け取ると、無言でその眼を見返した。
陽は、(ああ、なんだ)と納得する。
彼のメッセージの内容が”頑張ろうぜ”なら、全員の前でそう言えば良い。そうではなく、今この瞬間に陽にだけ何かを伝える事があるとすれば、思い当たる事など一つだけだ。
それは、この後ウォーミングアップが終わってからチーム全員が居る場でも話題に出せない事。陽に対して密かに伝える必要がありつつも、尚且つ良明が一言物申しておきたい事。
先日の夢の事を心配しているのだろう、と陽は断定した。
彼女は思う。
(私、よっぽど酷い顔してたんだなぁ、あの時……)
そんな事を思えるくらいには、彼女の精神は平静を取り戻していた。
今、ガイが手にしているボールが次に自分に回ってきたら、思いっきり力を込めて良明に投げつけてやろうと思う陽だった。
打ちっぱなしコンクリートの壁が、廊下に沿って極めてゆるやかな弧を描いている。反対側に壁は無く、要するにその通路は吹きさらしの状態であった。
床も、天井もコンクリートむき出しで、観葉植物だとかベンチだとか、灰皿だとか公衆電話だとか、そういう来客に対して気の利いたものはその通路には殆ど存在していない。
あるものといえば、自販機が一つ。あとは、日に照らされたからなのか、雨にさらされたからなのか、すっかり色褪せてしまった緑の掲示板が目を引くくらいだ。
天井に等間隔に並んでいる蛍光灯も、なんだか”俺なんかとっとと交換してくれ”と言いたげに、埃まみれの身体を晒している。
そんな、設計からしてぞんざいな扱いを受けている埃っぽい通路に、今日は多くの人々が往来している。
掲示板に張り出されたトーナメント表を今一度確認して、誠雲館高校二年・早山は「はぁ」とため息をついた。襟首を隠す髪がいささかぼさっと荒れているのは、翌日に大会を控えた早山が一睡も出来ずに寝ぼけた状態でいるからとかそういうわけではなく、単に彼女の髪のクセである。
だが、どこか人の良さそうなその眼差しが、観客席棟の中の地上百五十メートル程の高さの場所で沈んだ色をしているのは、人相ではなかった。
「早山ーどした。なに、二回戦が薄石で凹んでんの?」
同じく誠雲館高校三年・主将の丸江は、溺愛する後輩の肩を叩いてけらけらと笑う。
早山が声の方を見上げると、部長のいつもの明るい顔が視界に入ってきた。
本来なら背中まである髪を後頭部で束ねている風貌が、いつも通りに彼女の快活な口調にやたらとマッチしている。背は百六十センチ後半くらいあり、その所為か周りからは姉御肌キャラとして扱われている丸江に、早山は二歩程近づいて答える。
「いやぁ先輩、それもなんですけどぉ……」
早山は手元のスポーツドリンク入れから延びているストローを口に咥えかけたままのポーズで、丸江に続ける。
「一回戦……一回戦の相手ってこれ、あの樫屋さんの学校ですよね?」
丸江は、きょとんとして早山を見た。
「早山お前、そんな事気にしてんの?」
「だって部ちょぉう……」
すがりつく様な声に丸江はふんと小さくため息を一つ。傍らの少年を指さして言った。
「梶田を見てみ? こんな冷静だよ?」
早山は言われるがまま、最近龍球部に入った一年生・梶田を見てみる。
「負けて当たり前俺はまだ一年生先輩が何とかしてくれるパスさえ繋げばいい部長はかわいい」
なんか、ぶつぶつ言ってる。最後の一言がおかしい気もする。
「部ちょぉおう!」
早山は”求めてた梶田の姿とちがう!”という気持ちを込めて、ずずいともう二歩丸江に近づいた。
二人の先輩達のやり取りなどまるで耳に入っていない風の梶田は、尚もぶつぶつと言葉を紡ぎ続けている。驚くべきは、そのワードの一つ一つが一切被る事なく、まるで機械で自動生成され続けているかのように、全く別のぼやきを煙の様に放出し続けているという点である。多分こいつは、将来小説家になれる。
早山よりも丸江よりも背が高くて体格にも恵まれている梶田がそうしてぼやいている姿は、見る者によって愛らしかったり鬱陶しかったりする。先輩達の対応からして、幸い部内ではマスコット的な見方をされている様である。
丸江は、早山の手を奪い取る様に自分に引き寄せ、その掌を覗き込んだ。顔を近づけて凝視する。早山の手の皺を辿っていき、「ふむふむ」と言って頷いた。
「早山はなー、怯えなくていい所で怯える性格なんだなぁ、やっぱ」
丸江は、遠く年の離れた妹を面倒見よく諭す様な口調で、目の前の後輩にそう言った。その眼差しは本当の姉の様に暖かく、なんだかとっても頼りたくなる器の大きさを感じさせる。
「部長……手相、読めるんですか?」
早山は不安げな表情を少しだけ引っ込ませてそう尋ねた。
そして、この流れで丸江から返ってきた言葉が、
「いいや、適当言ってみただけ」
だ。容赦無い程の正直者である。
「そこは嘘でもそういう手相なんだって言ってくださいよぉ!!」
ふふん、と丸江は鼻を鳴らして早山の眼を見た。その顔は得意げというか、自慢げというか、そんな余裕のある表情である。
兎に角、これから先に試合を行う事になる薄石高校や大虎高校を前にして、まったく焦りや不安を抱いていない。それは確かだった。
「な、なんです?」
早山は不安そうに丸江部長の顔を見返した。
梶田は相変わらず現実逃避を続けている。
丸江は、丸江だけは、前向きな表情だった。
「私がさ、その樫屋さん相手になんでこんな余裕ぶっこいた態度でいられると思う?」
そして彼女は、一際笑顔になって早山にある言葉を告げた。




