辿り着き、見下ろす(2)
11月3日:サブタイトル変更
未明の零時を跨いだ住宅地には、殆ど明かりが灯っていない。
それでも稀に見て取れる、カーテンから漏れ出した人工照明の白。
人気などまるで無い風景の中にあって道を歩く者の気配は、主張する川の流れに意とも容易くかき消されるのだ。
転々と灯る街灯の細長い蛍光灯が、完全な闇の方がまだ手加減のある不気味さを演出していた。
現在時刻は二十五時三十分。残業による深夜の帰路につく会社員がたまに通る以外、この道をこの時間帯に使う人間は殆ど居ない。何故って、こんな不気味で物騒な道を好き好んで使わなくても、すぐ近所にはコンビニも隣接している県道が通っているからだ。十九時代までならバスが通っている道だってある。
にも拘らず、である。
にも拘らず、それでも、英田家の面するその道に駆けるその者の姿はあった。
何を着ているのか、男なのか女なのか、年齢は、身長は。
そもそもヒトなのか、それともドラゴンなのか。それ以外の特徴全てもだ。
暗闇の中では何もかもが不明瞭で、仮にこの場に誰かが居たとしても彼の姿を捉える事さえ難しそうだった。その者は、街灯を避ける様に道を選んで曲がっていく。
ただ一つ確かだったのは、そいつはこの様な不気味な道を駆けて行ける、肝が座った――或いは”不気味”と言う概念が無い――存在であるという事だけだった。
影は今、街灯の無い道の中へと溶けて消えた。
*
つい昨日までの彼に”今日”という日を別の言葉で表現させたなら、”県大会初日の三日前”という言い方をした筈である。だが、豪勢なソファに腰かけて、この家の家主がこの洋間に入ってくるのを待っている今の少年にとって、今日と言う日はもう一つ別の意味を持っていた。
カチ、コチ、カチ、コチ。
壁に掛けられた鳩時計が、十六時二分を指している。
わっほー。わっほー。
先程、時計の額から飛び出してきた鳩の鳴き声は、それはそれは能天気なものであった。こう、スナップを利かせたカンジというか。より厳密に擬音にするならば、
「ぅわっほー、ぅわっほー」
そういう声をしていた。
「かわいい鳴き声でしょう?」
山野手は、部屋に入ってきた女性に声真似を聞かれていた事を知り赤面する。
「あ、いえ……いえじゃねぇや。はい、そうですね」
くすくすと口に手を当て上品に笑う痩せ型の女性は、見た所三十代半ばだった。
細かい柄の入ったテーブルクロスと、それに対になるように繊細な彫刻が施された飴色のガラステーブル。おとぎの国から取り寄せたオーロラみたいに滑らかなカーテン。難しそうな本が並ぶガラス戸付きの本棚。その上に置かれた、精密な帆船の模型とウィスキーのボトル。
洋間にある数々の高価そうな家具の主人として遜色の無い、”気品のある穏やかな婦人”と言うのが、山野手の彼女に対する印象であった。
壁の一角に飾られた、小学校低学年の子供が描いたと思しき絵。
それだけが唯一この部屋の中で浮いていたが、それをあえてこの部屋に飾っている事もまたこの婦人の人柄を表していて、山野手にはとても好印象に映るのである。
「はい、どうぞ。駅前の店のマドレーヌ。紅茶と一緒に食べるととても美味しいですよ」
婦人は、百合の花が描かれた盆から二人分のマドレーヌと紅茶をテーブルに移す。テーブルの上には、青い瑪瑙の石をスライスして加工してあるコースターが置かれてあった。
「ああ、なんかすんません」
とっさに丁寧な喋り方ひとつ出来ない自分が、なんだかとても場違いな存在だと思えて仕方がない山野手である。
眼前の名前も知らない種類の石の上に置かれた、ティーカップ。
この、宇宙を思わせる模様をした青い石は何と言うんだろう?
そんな事を考えながら、出されたマドレーヌのきつね色の生地に目を奪われる。ふんわりとした生地は、口に運ばずともその素晴らしい食感が容易に想像できる様で、えもいわれぬ甘くてそれでいて上品な香りが否が応にも少年の食欲を引きずり出そうとしてくる。
山野手は、間違っても学校に残してきた女子共にはこのマドレーヌの事は言わないでおこうと心に決めた。特に、竜術部の先輩である石崎に自慢でもしようものなら、何をさせられるか解ったものではない。否、山野手は、大体何をさせられるのか想像がつく自分が哀しくなった。
婦人は山野手の向かいに腰かけて「どうぞ召し上がって」と一言、少年に遠慮させない為か、自分が先に紅茶へと口をつけた。
「いただきます」
山野手はそう言って申し訳程度に紅茶を口に含み、カップをテーブルに戻し、そして直後に後悔する。
(うわ、滅茶苦茶美味ぇ。もっといっぱいすすりゃよかった)
「それで、山野手君……だったかな? わざわざ訪ねてきてくれてどうもありがとうね」
(ああ、やっぱりだ。話が始まった。もうこの紅茶を口に運ぶタイミング当分先だ……)
山野手は質問された事それ自体が恐れ多い事であるかのように、婦人に対して「いえいえいえ、俺の方こそ無理言って押し掛けてしまってすみません」と返して続ける。
「でも、こうして家に上げて貰えたっていう事は、もしかして長谷部さんも俺の用件に気づいておられるんじゃないですか?」
どうしてもところどころ敬語が雑になってしまうが、もはやこの場ではどうしようもない。山野手は構わず会話を強行する事にした。
長谷部と呼ばれた婦人は、答える。
「ええ。それは今の大虎高で龍球をやっている三年生の子が一人しか居ない、という事から察しています」
山野手はひざの上に握り拳を作り、かしこまって長谷部の目元を見据えた。
「単刀直入に言います。長谷部さん、うちのチームの……監督をやってください!」
長谷部は、もう一口紅茶を口にした。
窓の左右に束ねられたオーロラの様なカーテンの向こうには、さらに白いレースカーテンがかかっている。
外からの光を懐かしそうに見つめ、長谷部は気持ちの判断を他者に悟らせない表情をしている。その顔は、回答の内容を熟慮している様にも、既に決まった回答の、角の立たない言い回しを考えている様にも見えた。
山野手は、彼だけ時が止まったかの様に微動だにせず、彼女の回答を待つ。
他の時計と変わらない間隔であるはずの鳩時計の秒針の音が、まるで長谷部の言葉を急かしている様に響き続けた。
「私が……」
長谷部は瑪瑙のコースターに視線を落とし、カップを置いた。
「私が、竜術部を作ってからの半年は――……地獄でした」
それまで、穏やかな気品を漂わせていた長谷部の口から出て来た物々しい単語に、山野手の握り拳には思わず力が籠っていた。
「当時は過去の先輩方の記録映像は無く、レンタルビデオ店も碌に無かった時代です。大会などの本物の龍球の試合は、現地に行って各自の眼に焼き付けるしかありませんでした」
竜術部創立メンバー。当時の部長であった長谷部婦人は、どこかやんちゃそうに見えるが先程から礼儀を欠くまいと気を付けようとしている少年を、優しい眼差しで見やった。しかしそれでも尚、彼女の口から語られたのは、彼女が言う”地獄”の話であった。
「当時の私にとってのOB、OGの先輩方のうち、当時連絡先を把握していたのは龍球をやめてしまった世代の方だけ。練習をつけてくれる人だって居ません。言葉が通じない竜の皆の知識と、図書館の本だけが私達の水源でした」
山野手は、一瞬だけ空いた言葉の継ぎ目を期に、長谷部の顔色を窺うような声で質問をする。
「当時の……竜の先輩達は今現在はどこに?」
長谷部は首を横に振る。
「学校を止めて隠居したり、既に鬼籍に入られていたり……当時のメンバーで唯一今も尚残っているのは、シキさんだけです」
「シキさんは、当時のメンバー……だったんですか?」
「私達が初めて出場した大会のビデオがまだ学校に残っているなら、多分彼も映っていますよ。あれから十何年って経っているから、見ても解らないでしょうけどね。当時の家庭用ビデオなんて画質も良くないですし」
シキが古参だという認識はあったが、まさかそこまで古いメンバーだとは山野手は思っていなかった。その長谷部夫人の言葉を聞いた直後の彼は、或いは彼に技術の指導を頼めばそれで済んだ話なのではないか、と直感する。今回、坂がやろうとしていて山野手がそれを手伝う格好になったOB及びOG探し自体が、不要な仕事だったのではないかと言う考えが山野手の中に否応なく湧いて出きたのだ。
そんな彼の発想を読み取った様に、長谷部はほんの少しだけ慌てた様な色をその声に灯して捕捉する。
「ただ、シキさんに人間選手の技術を求めるのは酷という物です。龍球の指導はプロでも竜には竜、人間には人間がついて行うものですから」
「ああ……」
山野手は思い返す。確かに、レインや他の竜達はよくシキに教えを乞うていた。ショウやレインに対して何かと面倒を見ているガイでも、解らない事があればシキに教えて貰いにいっている。
「山野手君」
「……はい」
「あなたは、龍球選手ではありませんね?」
長谷部は、山野手の学生服の胸ポケットにかけてある高そうなボールペンに目をやって尋ねた。
「あ、はい。俺……僕は、新聞部と掛け持ちで竜術部をやらせてもらってます」
「それこそ、酷な事を言うかもしれません。けれど、あの過酷な環境で部を支えて来た私の様な人間に言わせてもらえるならば、本気で竜術部を存続させる為には、形振り構うべきではないんです」
心のどこかで後ろめたさを感じていた、長谷部に最も突かれたくない部分を突かれた。
「新一年生の二人に龍球を一から教えるより、竜術部に所属する全てのメンバーから選定した部員でチームを編成し、その上で死力を尽くして大会に臨むべきです」
山野手は返す言葉を失いかけた。だが、その長谷部の言葉に対してもっとも誠実な回答は、飾り立てない自分の我儘を正直に告げる事だと思い至る。勇気を振り絞った眼差しで、長谷部の顔から逸らしかけていた視線を戻し、彼はその一言を口にした。




