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大虎高龍球部のカナタ  作者: 紫空一
3.青という色
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辿り着き、見下ろす(1)

11月3日:サブタイトル変更

 五月二十四日月曜日。午後二十三時五十九分。

 今、秒針が天を指し、日付が変わった。

 この部屋と薄い壁一枚を挟んですぐ隣の部屋にある時計の秒針は、殆ど音を立てない。兄も妹も、音を立てる秒針は嫌いなのである。理由は、落ち着かなくてどうにも寝つけないから。かといって、秒針が常に角度を変えて回転し続けるタイプの時計も嫌いである。なんだかこう、ぬるっとした印象を受け、一秒一秒を数え難いからである。


 液晶の表示部をガラスで挟んだタイプのデジタル時計は、今日も無表情に良明を見守り続ける。

 兄は、熟睡していた。


 あの練習試合の日を境に、兄妹の龍球の練習はさらに厳しさを増した。過酷を極めたと言っていい。脚の故障を危惧して中止していたランニングは早々に練習メニューに戻され、毎朝校門が開いた直後の時刻から朝練に取り組む日々が自然と始まった。陽の昼休みの日課だった友人とのお喋りは全く無くなり、同じ日から良明の昼寝の時間もゼロになった。


 家に帰れば、石崎に頼み込んで図書館で厳選してきてもらった上級者向けの本を二人で読み漁り、この兄妹にとって当たり前だった、テレビを見るという習慣は皆無となった。図書館からの本の又貸しで咎められる危険性も考えたが、貸して貰った本を次の日の朝に必ず部室で石崎に返す事で対処した。

 去年までは漏れなく遊び呆けていたゴールデンウィークも、今年は一日残らず自主練習に利用。

 全て、兄と妹が言い出して始めた事である。


 あの薄石との練習試合の日、良明と陽は圧倒的な実力の差を思い知らされた。彼等兄妹は、けやきの邪魔をしない事で精一杯だったという事実以上に、その日までの三週間をその圧倒的な経歴と実力の差を踏まえた上で否定された事が、筆舌に尽くし難いくらいに辛かった。

 悔しいだとか、歯痒いだとか、そういう感情が沸いて来たのはこの二、三日での事である。それまでは、ただただ相手の言っている事の生々しさが、正しさが、容赦なく二人の脳裏に充満し、只管に苦しめ続けていた。あの練習試合の場で陽が来須に対し形振り構わずに凄んだ時が相手に対して立ち向かうという感情のピークであり、それから先は時間を経て冷静になればなる程に来須の言葉が嫌でも彼女とその兄に重くのしかかってきたのである。


 現実逃避する様に、二人はがむしゃらに龍球の事だけを考え続けた。そうするしか、精神的な辛さから逃れる術が無かったのである。

 幸いだったのは、心境や状況を全く同じくする同志が、常にそのすぐ傍らに居た事。

 その身に降りかかる苦痛全てを共有しているからこそ、それでも頑張り続ける妹や兄の姿が、励みや慰めとして機能していた。


 ありそうで無かったのは、兄妹のお互いへの対抗心だ。

 怒りや不快感等の負の感情の矛先は、全て来須や安本に向けられていた。そして、壮絶な日々を共に闘い続ける兄妹に対し、敬意を抱く事はあっても蹴落とし見下す理由などどこにも無かった。


 住む場所は違っていても、ドラゴン達も同様に戦う同志である。特にレインは、良明や陽とはかなり近い精神状態におかれていた。

 レインにとって、学校に自分の居場所を確保するという目的は極めて重要度の高い事柄である。だが、あの来須の発言の数々には、怒りの感情を禁じ得ないのもまた事実だった。まして、自分の為に頑張ってくれている英田兄妹がさらに本気で龍球に取り組んでいるのである。レインの内にその熱に同調する気持ちが芽生える事は何ら不思議ではなかった。


 親や先生の前で口にする事はしないが、今の兄妹にとってはもはや学生の本分たる勉強でさえも、クラスの窓から見える電線に電気が通っている事と同じ位自分達には興味の無い事だった。そんな精神状態の時だったからこそ、良明はこの夜の出来事に大きな不安を覚えたのである。


 気づくと、熟睡していた筈の身体がいつの間にやら仄かに覚醒していた。

 良明は、だからと言ってその理由を考える事はしたくないと思った。もしそんな事をすれば、たちまちのうちに意識までもが覚醒し、再び寝付くまでにいくらかの時間を要してしまう。

 次の日の練習に備え、今は一秒でも早く溶ける様な睡眠の中に沈みこまなければならなかった。


 まどろむ。

 幸いにも、意識はスムーズに柔らかな布団の感触に抱擁されていく。これならば一分以内に寝付けそうだ。と、良明は思った。

 まったく、こんなにも疲れているにも拘わらず、なんだって目なんか覚めたのだろう?

 彼が思考の輪郭を滲ませようとしていた時だった。


「ン……ウうゥ……」


(呻き、声)

 聞こえた。間違いなく、聞こえた。

 良明は、自分の体中からサーッと血の気が引いていくのを感じた。直後に頭、肩、腕、腹、足へと順番に痺れる様な感覚が流れていく。

 少年の意識は、無残にも覚醒した。

 覚醒はしたのだが、まだ彼の中には疑いの念が渦巻いてもいた。

 これは、夢なのだろう。連日に亘る過酷な練習が心身へのストレスとなり、夢と言う形で現れた。きっとそうだ。


 決めつけの上に成立した妙な開き直りにより、良明はこう呟く。

「うるさい。いまおれは、そういうばあいじゃないんだ」

 呂律が回っていないが、彼にとってそれはさした問題ではない。

 今重要なのは、自分の夢にオチをつけて、とっとと完結させる事なのだ。意思表示さえすればそれできっとこの夢は終わってくれる。

 根拠の薄い確信の元、良明は続ける。

「たいかい……ろんきゅう、いがいのことに、つきあうよゆうは、無い!」

 酔っ払いの様な口調で言い切る良明。


「うわぁあ……ヌウゥ!!」


 再び呻き声。今度は、先ほどよりもよりはっきりと聞こえた。

 ああ、もういい。どうせ夢の中なんだ。起きて原因を突き止めてしまえ。

 良明は暗闇の中でうつ伏せだった上体を起こし、起き上がろうとする。腕の筋肉痛が、妙にリアルだった。おまけに意識もはっきりして来た様な気がする。


(たまにあるよな、夢だと思ってたら実は現実だった……ていう内容の夢)

 と、その時。


――――ドン!


 直ぐ傍らの、厚さ十センチも無い薄い壁に何らかの衝撃が加わった。

 陽の部屋からだ。

 そして、二秒ほどの時間をおき、


――――ドタン!!


 何かが落下する音。

 良明の意識の覚醒が加速度的に進んでいく。


「うぁあああああ!!」


 叫び声寸前の呻き声。

 半ば反射的に、良明は眼前に正対した壁に向かって、その名を呼んだ。

「陽?」

 呻き声は、尚も続いている。

「陽ッ!?」

 枕元の携帯電話を開き、そこに踊るアイコンのすぐ下の文字を声を出して読み上げてみる。

「ちず。でん卓。電話帳。インターネット」

 彼は漸く悟る。これは夢ではない。文字を読み上げる事でそれを認識するなり、良明は出窓の穴から妹の部屋へとその身体を捻じ込んだ。


 尚も呻き声を漏らし続ける陽の姿は、彼女のベッドの上に無い。

 先程の何かが落下した音の正体を把握した良明は陽の部屋へと入ると、ベッドの上から手探りで床に居る筈の陽を探した。

 中指の先に髪が触れる。

「陽! おい!」


 抑えた声でゆする。

 と、殆ど間を空けずに彼の手首を何かが物凄い力で引っ張った。

「ふっ!?」

 突然の事に恐怖心を抱く良明だが、すぐにそれが妹の手によるものであると理解し、彼女の頭を起こして今一度声をかけた。

「陽!!」


 目を覚ました陽は、暗闇でも解るくらいに目を見開いた。

「ア……キ…………?」

 そして、そこに良明が居る事に対して驚愕するかの様に、声を荒げる。

「アキ!! 大丈夫なの!?」

 こっちの台詞だと言いたい良明だったが、陽のあまりの形相の所為でそれを言うのも憚られた。汗で湿った陽の後頭部をベッドの淵へと乗せてやり、良明は上から問いかける。


「物っ凄いうなされてたぞ、大丈夫?」

「ああ、ごめん。起こしちゃった……?」

「壁ドンしたあとにベッドから転がり落ちるって……どんな夢見てたんだよ……」

 陽は首を横に振った。

「……憶えてない」

「何か……」

 ”俺がどうとか言ってたけど”と言おうとして、良明はやめておいた。あの剣幕である。陽自身が殺される様な恐ろしい夢だったかもしれない。わざわざ思い出させる事もないだろう。そう思った。


「……ありがと」

 折角の気遣いも、相手の考えが解ってしまうこの兄妹の特技の所為で陽には筒抜けだった。礼を言った陽は、不安さを隠さない表情を尚も崩さない。崩せない。

「あのね」

 寝たいという気持ち半分、話を聞いてやりたいという気持ち半分の良明は、「うん?」と先を促した。


「この前、初登校の日の朝の事とか……もう、覚えてない?」

「何の話?」

「ほら、私涙目だったじゃん、あの日の朝」

 良明は暗闇で碌に見えない天井を仰いで記憶を辿る。そんなこともあった様な気がする。いや、あった。確か、自分がどうしたのかと彼女に聞いた時に”なんでもない”とかなんとか言って、事情を教えようとしなかった時の事だ。


「あー……」

 さすがにもうよく覚えてないという色の声で、良明は返事した。

「あの日も、多分同じ夢見たの。内容は憶えてないけど」

「周りに相談とかしたか?」

「怖い夢見て、朝になっても涙が止まらないんだよねぇ……とか恥ずかしくて言えるわけないじゃん」

 そういうのが許されるのって、女子の特権なんじゃないのか?と良明は思ったが、本人がそう言うのだから陽にとっては無理なのだろう。何より、確かに良明自身もそんな事を誰かに言って相談を持ち掛ける事なんて出来やしない。


「夢なんてただの夢だって、頭では解ってるんだけど……やたら夢の中の風景がリアルなのは憶えててさ、朝になっても涙が止まってない事自体が怖くて……」

 そもそも、夢の内容に合わせて涙が出て来る事などそうある事ではない。

 良明は、さすがに心配になって陽に質問した。

「真面目に心療内科とか行って来たら? 行きにくいんなら俺ついてくし」


 陽は首を縦に振らない。

「いい。そういうのじゃないと思う」

 事実、彼女の周囲の人間の睡眠を妨げる程に魘されているのにそれで尚頑として否定するのは、恐らく彼女自身の部活への影響を危惧しての事だろう。


 陽は語りたい事をすべて語ったのだろう、自分から話を切り上げる。

「ごめん、寝よ。明日あるし。話聞いてくれてありがと」

 見れば、陽の表情はいくらかマシになっており、これなら寝付けそうだと良明にも解った。気になる話だけ聞かされた方の事も考えろよ、と思わなくも無い良明だったが、明日――厳密には今日――の事もある。

 大人しく妹の言葉に従う事にして、兄はもぞもぞと自分の部屋へと戻っていった。

「おやすみ」

「おやすみ」

 アトランダムに選ばれたタイミングで、二人の声がいつもの様にシンクロした。

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