三毛猫ロック:フェルマータ(8)
その、漆の様な艶がある黒い鱗に覆われた赤い眼のドラゴンに、三池は見覚えがあった。
「あ、やべっ」
三池はいつだったか、円の意識を飛ばしてしまった時よりもいくらか長めにそう呟いた。
彼女の声音は、何やらその”ヤバい出来事”を予感していた様な口ぶりであり、例えるなら、仕事場で上司に頼まれた事をやっていなかった事にたった今気づいた入社二年目の会社員の様な、そんな「やべっ」だった。
ドラゴンは、三池、霧山、館山の三人の上空を通過し、ビデオカメラを覗き込んでいる男子生徒の所に向かって行く。うんざりした様な表情を浮かべる男子生徒の傍らのビデオカメラは、いつしか三脚に固定してあった。
ビデオの中の映像に目を凝らしていて直前までドラゴンの接近に気づかなかった男子生徒は、目前に迫る黒龍の羽ばたきに腰を抜かしてへたり込んだ。
ドラゴンは、ビデオカメラを三脚ごとかっさらうと羽ばたいて上空へ。その後旋回を始めた。と、同時に手元でカメラからビデオテープを引き抜き、乱暴に磁気テープを伸ばして千切ってしまった。
「あ」
「あ」
「あ」
と、三池、霧山、館山。
そして、ドラゴンはその手に持っていたビデオカメラをぽいっと明後日の方向へと投げ捨てた。彼は、三人が居る地点へと降下を始める。そんな角度でまともに着地なんて出来るのだろうか、と心配になる様な勢いと角度である。
「おいおいおい……」
漸く息を整えつつある館山が、一歩、二歩と不格好な後ずさりをした。
尚もぐんぐんとスピードを上げていく黒龍。霧山は思わず立ち上がり、何が起ころうとしているのか思考を巡らせた。
黒龍がついに地上付近へと到達すると、館山はあまりの迫力に背を向けて逃げ出し始めた。対する黒龍は、いよいよその頭を振り上げる。それが攻撃の構えである事を、その場の誰もが瞬時に悟った。
そして赤い眼を持つその黒龍は、容赦のない全力の頭突きを見舞ったのである。
三池に。
その場で何が起こったのか解らなかったのは、腰を抜かした館山と、如何に立ち回るべきか思案し続けながら立ち尽くす霧山と、遠くで大破したであろうビデオカメラの捜索を開始した館山の仲間の男子生徒だった。
てっきりドラゴンが自分に襲い掛かってくると思っていた館山は混乱の海に放り出され、難解な状況というサメに食われて思考を停止させかけていた。
三池は、突如として現れた黒龍から視線は逸らさずに、上体を仰け反らせて歯を食いしばっている。
一歩だけ後ずさりし、そこで踏み止まった。
「クロ介、てんめぇ……」
クロ介と呼ばれた黒龍は、三池の背丈程もある長い首を高く上げる。
そして、その先端に二つ並ぶ宝石の様に澄んだ赤の眼が、ギロリと三池を見下ろして、唸る様に吠えた。
「グゥウウウウオオオ!!」
三池には、その唸り声が意味する所が正確に理解できていた。
彼女の中では、その声は脳内で明確な文章として認識されたのである。
すなわち、彼の放った一言は、
『てめぇ、練習サボってこんな所でなに油売ってやがんだコラ!』
である。
三池は「ってぇなクソ」とぼやいて頭突きをくらった額をさするが早いか、即座に反論する。
「しょうが無かったんだよ! この状況見りゃアホなてめぇにだって大体の事情解んだろうが馬鹿野郎!」
と言われたクロ――”クロ介”は三池が勝手に呼んでいるあだ名である――は、問答無用で自身の体を一回転。ヒトの腿程もある太いしっぽを、一切の手加減無く少女に向かって振りぬいた。
三池はしゃがんでそれをかわす。
つまり、その遠心力が籠ったハンマーの様な一撃は、三池の上半身――具体的に言えば頭――を狙ったものと言って間違い無かった。
ちなみにこの攻撃、以前クロがふざけてやっていたところ、プラスチック製の雨樋に命中してしまった事がある。その雨樋は一瞬のうちに大破し、弁償費用を負担した彼の貯金はその時雨樋にぶつけたしっぽよりも痛い大ダメージを受けた。
「ヒトの話を……」
三池は、一回転を終える前のクロに殴りかかった。
「聞け馬鹿野郎!!」
グーで殴った。力一杯、ドラゴンをグーで殴った。
クロの頬に三池の拳が当たり、その頭は無理やり角度を変えさせられる。
『”馬鹿野郎”以外何か無ぇのかよ貧相なボキャブラリーしやがって!』
「うっせぇボキャブラリーってなんだよ、難しい横文字使ってインテリ気取りか馬鹿野郎!」
羽を広げて威嚇しながら、殴り返しに行くクロ。
構わずさらにもう一発パンチを繰り出そうとする三池。
今度は両者の頬に互いの拳がめり込んだ。
『てめぇ、いい気になってんじゃねぇぞ。人間だと思って手加減してやってりゃあ……』
「ハッ! 一年ん時に全力出して俺に負けたのはどこのどいつだトリ頭!」
殴る蹴るの応酬を続けながら、一人と一頭は小学生みたいに罵り合う。
『っせぇよ! いつの話持ち出してんだ!! あれ以来俺は一度も本気出してねぇんだよばぁーか!』
「だったらとっととその本気っつうの見せてみろや、それで負けるのが怖ぇだけだろがコノヤロー!」
『うっせぇよ俺が居なきゃ龍球出来ねぇクセしやがって』
「んなもんルールがそうなってんだから当たり前だろが何言ってんだてめぇ」
『ほぅら認めた認めたァ! 結局てめぇは俺なしじゃ樫屋と再戦する事だって出来ねぇチンケな奴じゃねぇか、身分を弁えろ!』
「てめぇこそ龍球以外なんも取り得無ぇクセしやがって、良い気になってんじゃねぇぞドラ畜生が!」
『喧嘩の強さが主な取り得の女に言われたかないね! てめぇなんか一生独身のまま干からびろ!』
「うっせぇ恋人いない歴なら年上な分てめぇの方が長ぇだろうがターコ!! つうか俺は別にそういうの興味無ぇんだよ! ほっとけ!!」
クロの長い首が三池の首に回り込む。
首が締まりきる前に、三池は右の肘をクロの鳩尾に叩きこんだ。思わず「ぐぇ」と声を上げつつも、クロは瞬時に三池から距離を取る。その鼻先に三池の裏拳が掠めた。あと一瞬遅れていれば確実に貰っていた一撃だった。
だがそれだけでは三池のラッシュは終わらない。間髪入れずに昔のアイドル歌手の振り付けよりも高く上がった脚が、その踵をクロの脳天に叩き落とそうとしてくる。
その大ぶりな動作を千載一遇の隙として捉えたクロは、三池の踵落としをかわすのと同時に彼女の側面へと回り込む。そしてそのままの勢いで、先程のお返しだとばかりに渾身の力を込めて三池の腹に拳を叩きこんだ。
”どうだまいったか”という表情でクロが三池の顔を見上げると、その頭上から硬く組んだ状態の三池の両の掌が振り下ろされようとしているところだった。
流石に三池のその一撃をかわす事は事は出来ず、クロの羽根と羽根の間の小さな背に鉄パイプで殴られた様な重い衝撃が走る。
痛みに耐えかねてという以前に、その衝撃により強制的に地面に叩き伏せられたクロが、三池の足を引っ張ってしりもちをつかせた。
「てんめ……っ」
思わぬ反撃にかっとなった三池は、座ったままの状態でクロに向かって蹴りを入れる。二発、三発とそれを顔面に受けてクロはたまらず後ずさった。
クロは追撃から逃れようと三池からさらに距離を取り、立ち上がった三池とクロが対峙する形で漸くしばしの沈黙が訪れる。
三池は、内心彼の戦いぶりを称賛する。
(ったく、やっぱこの前の館山のパンチよりよっぽど効くぜこの馬鹿力が……)
だが、口に出すと何か負けた気がしそうなので絶対に言葉で伝えたりはしないのである。
一方のクロも同じ様な事を考えている。
(くそ、やっぱこの小娘強ぇわ。マジでかかっても互角に持ち込むのがやっとだ……)
勿論口には出さない。
特に何のきっかけがあったわけでも無いのだが、クロは何かに気づいた様な口ぶりで唐突に三池に尋ねた。
『……んで、こりゃ一体どういう状況だ』
「そこに居る館山っつう奴が、弱み握って殴らせろとか言ってきただけだ。んなこたどうだっていい。続きやるぞ」
『てめぇが最初に人の話聞けとか言ってきたんじゃねぇか』
「は? 憶えてねぇよ。俺が何時んな事言った」
『……鳥頭はどっちだ』
「つうかお前、大体、事情が呑み込めたからこそさっきカメラぶんどって、テープぶっ壊したりとかしたんじゃねぇのかよ」
『いや、あれはただなんとなくだ!』
「なんとなくか!」
『兎に角、あそこでさっきから尻もちついてるでっかいのをシめとけばいいんだよな?』
「ああ。どうせチクる様な奴は見てねぇし、俺にもあいつ殴らせろ」
尚、館山にはドラゴンの言葉が解らない。
ハタからみれば、先程から、吠えるドラゴンに三池があーだこーだ切り返して殴り合っているだけである。
それでも、三池の最後の一言を聞けば自分の身に何が降りかかろうとしているのかはすぐに解った。
「お、おい! やめろ!! それ以上近づくな!! チクるぞ! 絶対ぇにチクるからな!!」
まるで館山の声が聞こえていないかのように、粛々と歩を進めて彼に向かって行く三池とクロ。
「チクるっつっても山村にじゃねぇぞ! 俺に繋がりがある暴走族に頼み込んで、てめぇらまとめて二度と龍球が出来ねぇようにしてやっからな!!」
館山との距離が、蹴りの間合いに入る。
「やれるもんなら、やってみろ!!」
『やれるもんなら、やってみろ!!』
竹藪が風にざわめき、屋根の上で生ごみをつついていたカラスが飛び立った。
*
ワサワサワサと、カラスが羽音をたてて校庭の彼方へ飛んでいく。
竜王高校の校舎は新しい。二年前に大幅な改装が完了し、各クラスに割り当てられた部屋がある棟は真新しい建築材のにおいに満ちていた。
校庭をL字に囲む形で立つ校舎の内縦棒がクラス棟で、横棒が各教科で使われる所謂特別校舎にあたる。
放課後になると、校庭では毎日各部活が活動を始める。
クラス棟の廊下にて、木製タイルが敷き詰められた廊下をつま先で擦りながら、伊藤は言うのである。
「じゃさぁ、結局収穫ナシだったって事? なんなら館山に殴られそうになったんだよね?」
「て、三池ちゃんは言ってたよ」
横に立って伊藤と同じ様に手すりに身体を預け、校庭を見下ろす芽衣が答えた。
「ま、でも。霧山君にそんな一面があったって言うのは超意外だったよね。それは私達にとっては面白い収穫だ。うん」
何やら納得している伊藤に対して、芽衣は釘を刺す。
「あんまり言いふらしちゃ駄目だかんねー? 三池ちゃんだって霧山氏に口止めされてないからって事で、ギリギリ教えてくれたんだから」
「うん、解ったー」
本当に解ってるのか今一安心できない口調で、伊藤は頷いて応えた。
校庭の一角では、三池と円と龍球部の竜達が練習に励んでいる。
三池とクロは、昨日のお戯れの時間が嘘だったかの様に今日は誰よりも早く来て共に基礎練習を始めていた。今は向かい合ってパス練習をしている。放たれるボール一球一球にやたらと殺意が籠っている様に見えるのは、きっと気のせいだ。
「……いやしっかし、びっくりっスよ」
途切れかけた話を、木に竹を接ぐ様に無理やり続けようとする芽衣。
「何が?」
「柔道のくだり」
はて、何の話だろうと困惑する伊藤に、芽衣は続ける。
「選択授業でバレーじゃん? うちら」
「うん。あー、その話ね」
伊藤は納得の声をあげて答えた。
「三池ちゃん、結局女の子だったんだなーって」
そういえば、芽衣の三池に対する呼び方が君付けではなくなってるなぁと、伊藤はこの時初めて気に留めた。
「だからカラオケの時言ったじゃん。あ、でもねでもね」
「うーん?」
「円はまだ男の子だと思い込んでるみたいだよ」
「うわ、本気に?」
芽衣の完全に自分の事を棚に上げた態度には一切突っ込まず、伊藤は片手を小さく上げてすました顔で提案するのだ。
「面白いから教えないで放っとこう」
「らじゃらじゃ」
楽しそうに芽衣は親指を突き出した。
伊藤は窓を開けると、練習中の三池を用も無いのに大きな声で呼んでみた。
「三池にゃーん!!」
返事は、すぐに返ってきた。
「”三池にゃん”て言うな。特にこいつの前では」
三池に指さされた先の黒いドラゴンが、何やら「グァー」と唸っている。
『三池”にゃん”……だってよ!』
「うっせぇやっばボコすぞてめぇ!」
なんだかよくわからないが黒龍に対して怒っている三池を、伊藤は不思議そうに、それでいて愛おしそうに眺めた。
その場には、友人との会話を楽しむ少女の顔を見つめる少年がさらに一人居る。少年は彼女の直ぐ傍らに立っていた。
首にかかる程髪は長くないが、額は前髪に覆われている。やや癖の有る髪の毛をかき上げる手は、少年の辛そうな眼つきを意図せず隠す。
丸顔で、背は百五十センチあるかどうかと言うところ。三池よりは少し高いのがぱっと見でもなんとか解るくらいの身長である。高校に通う男子にしては、かなり小柄だ。
少年は、芽衣と伊藤の間に割って入り、伊藤の表情を観察している。
「でもさぁ」
そして、口を開いた伊藤はこう続けた。
「ほんとこんな話、絶対に関係ない人の前ではしちゃ駄目だよ? 三池にゃん、退学とかかかってるんだから」
そして、芽衣はその言葉に対してこう返した。
「うん、それは気を付ける」
まるで、少年の姿が、見えていない様に。
白い民族衣装に身を包んだ少年は、悲しそうに俯いた。
(僕は……僕は……)
紡ぎかけた言葉は、桜の花びらが地に落ちる様に儚く空気に溶けていく。
二日、三日、一週間。
学生達にとってはいつも通りの毎日が過ぎていく中で、春の終わりは確実に近づいていった。
見据えるは、全国大会への切符が置かれた表彰台。
戦いの季節が、迫る。




