雲の向こうに在るのは(5)
けやきは、先日英田兄妹が見た時には装備していなかった竜具と呼ばれる装備品の類を今日は身に着けていた。肘や膝など主に身体の関節を守るタイプのプロテクターは、一般に街中を飛び回る時のそれよりも軽量に見える。
着込んだジャージの背の部分に足元までありそうな長い後ろ髪を入れてある所為で、兄妹は一瞬人違いかと思った。だが、この切れ目が特徴的な知的で端整な顔立ちはやはり樫屋けやきで間違いなかった。
ほんの一瞬驚いた顔をしたのはけやきだった。
「英田……と言ったな」
「はい! 体験入部で来ました。英田良明です」
「英田陽です」
反射的に一瞬ニヤっとする石崎だが、今度は別々に名乗ってくれたのでなんとか笑いを堪えた。
跨っているドラゴン――あの日けやきが乗っていた巨大な竜である――から降りると、けやきは彼の首筋に手をあてて「待っててくれ」と一言、教室の方へと歩いてきた。
「あ、あのドラゴンが垓ね。けやきの彼氏」
石崎がそんな紹介をするが、けやきが特に突っ込む気配は無い。ああ、もうこの人がボケても突っ込む事をしないのがこの部活の”しきたり”になっているんだな、と兄妹は思った。
「ん、もしかして二人は入部希望っていうわけではないのかい?」
坂が二人に声をかける。そういえば、今しがた『入部希望の一年生か』と尋ねられたところだったが、返事をしていなかった。だが無理も無い。いかんせんこの部屋にたどり着いてからはや数分、兄妹は夫々の脳内で繰り出し続けている突っ込みが現状にまるで追いついていないのである。もっと重要な事を色々と指摘しないといけない様な、妙な使命感が二人を襲っていたのだ。
「そ、そうですね。まだ何処にしようかなぁと考えてる所です」
想いとは裏腹に目の前の質問に答える陽。
坂はすかさず振り返り、意味有りげにけやきを見た。
けやきは目で頷くと、英田兄妹の前に立って改めて自己紹介する。
「樫屋けやきだ、この竜術部の部長をやっている。……これも何かの縁だ。今日はじっくり部を観て行ってくれ」
先程から訝しげな表情を浮かべて三人のやり取りを見ていた石崎が、相変わらずの軽い口調で尋ねる。
「お三方はお知り合いですかい?」
「ああ」
とだけ極めて手短に応答するけやきだったが、石崎は話題を膨らませて限られた時間を使う事を避けるため「ふーん」と言ってそれ以上問わなかった。
「じっくり部を観て行ってもらう……と言ったが」
けやきは背後を振り返り、中庭で待機するガイに対して自分達が居る教室まで来る様にジェスチャーで促した。
「折角だ、こいつに乗ってもらおうか」
兄妹は面食らった。
現代において、ドラゴンを交通手段とする事はおかしな事では無い。
手綱や竜具等、法律で定められた装備品を用いれば、免許制ではあるが自由に公道を飛んで良い事になっている。
舗装された道路の脇には大抵”誘導柱”と呼ばれる柱が立っており、ドラゴンに乗る者はその間を通って飛ぶ決まりだ。車道に対して平行に、空中に道が伸びているイメージである。
ひと昔前までは、ドラゴンを羽根に使う事は自動車やバイクなどと同様のメジャーな移動手段であったが、現在はとある理由でその認識が崩れかけて久しい。兎も角、ドラゴンに乗る事自体はメジャーではないにしろ現代人にとって違和感は無い行為なのである。
では、何故良明と陽が今この瞬間同じようなアホ面で口をあんぐりとあけているのかと言えば、二人がその経験を持たないからである。
先程のけやきの発言は、公道をエンジン付きの車両で走った事が無い人間に対して「ここ、私有地だからこの車で走ってみて」と言う様なものである。
ドラゴンの飛翔・飛行能力は高く、鳥と同様に高高度を自由に飛び回ることも可能である。お試しとは言え、数メートルから十数メートルの高さをドラゴンに跨って飛ぶと言うのは中々に度胸が必要な事なのである。
愛くるしい双子をからかっているのだろうか?石崎も「うわぁー」などと言って怯えた顔をして見せている。
「まぁそういう顔をするな。ガイなら三人までなら同時に乗っても大丈夫だ、私が一緒に乗っていてやる」
けやきはさらっとそう言うが、やはりそう易々と”はいそうですか”とはならない。
いよいよ教室すぐ傍まで歩いてきたガイ。
(ドラゴンだ。まごう事なき巨大なドラゴンだ)
(ドラゴンだ。まごう事なき巨大なドラゴンだ)
息遣いは馬の鼻息を連想させる荒々しさ。窓枠に掛けられた太い腕はごつごつとした皮膚で覆われ、背後ではしっぽがぷらんぷらんと揺れている。ぶしつけにも、(その気になれば一瞬で人を殺せそうだ)などと、良明はそんな事を思った。
絵の具のように鮮やかな赤い色の眼は大きく、ギラリと――
(ぎらりと、してない)
陽は気づく。
猛獣の放つオーラにも似た迫力を、否応無しに押し付けてくるガイの身体の見た目とは裏腹に、その眼だけはそうでは無かった。鮮やかな赤い色の眼はギラギラとした眼光を放つどころかどこか優しく、けやきや石崎や坂と変わらない『先輩が後輩を気遣う眼』そのものに見えた。
’眼’というのは、瞼の開き具合や角度その他諸々の要素で以外にも感情が篭るものである。
小さく、促すような声でガイは「ガルル」と鳴いた。
それは、『怖がらなくて大丈夫だ』という意思表示。英田兄妹にはしっかりと伝わっていた。
「お願いします」
「お願いします」
同時に一歩を踏み出し、二人は言った。
「よし、じゃあ二人とも中庭に来い」
陽は自分のスカートを見てはたと気づく。
「あ、ごめんなさい。今日まだ体育の授業なんてないからジャージは家において来たままなんです」
石崎が残念そうに、
「あーそっか、だって今日初日だもんね」
と言うが、もっと残念そうなのが陽本人である。
良明だけ竜に乗れるのがプリンを独り占めされるのと同じ位気に食わないらしく、恨めしそうに兄を見つめている。
「ちょっと失礼」
突然の事だった。
兄妹は、それまでその人物の存在に一切気づいていなかった。
今まで教室のどこに居たか全く想像出来ない。まるで部屋の空気に溶け込んでいたかの様に気配を全く感じさせなかった存在が、唐突に陽に謝罪したのである。
陽は完全に泡を食って反射的に声がした方から半歩飛び退いくと、「ミェッ」という謎の奇声を発した。
そしてそれがいささか失礼であった事にコンマ五秒後に気づき、飛び退いて着地した足を逆再生させる様に元の位置に戻るという、実に奇妙な動きをした。
「しおちゃんってば気配消したらびっくりするじゃーん」
石崎にしおちゃんと呼ばれた二年生・海藤詩織は百五十センチぎりぎりあるかどうかという小柄で、肩幅などは一年生の陽よりも明らかに狭い。ウェーブがかった髪は長く、手前にはわきの下辺りまで伸びている。
二重でやや堀の深い顔立ちは物静かな性格を表している様に陽には感じられた。
しおちゃんは「ごめん」と陽に謝り、その陽のスカートを何やらつまんで「これでだいじょぶ」と言って彼女から離れた。
陽が足元を観てみると、スカートが暴れない様に、裾を木製の洗濯バサミで固定してあった。
詩織が何故そんな物を持っていたのかというと、その答えは良明の視線の先にあった。教室の一番隅の席に、型紙やら布生地、裁縫道具と言った物が並べられており、机の上に広げられた生地は詩織が手にしていた物と同様の洗濯バサミで他の生地に固定されていた。
陽はぱぁっと笑顔を咲かせて、「ありがとうございます!」と言った。
詩織はほんの少しだけニコっと笑い、すぐに自分の表情の変化に気づいて表情を戻した。
石崎が、そんな詩織に気づいてからかう様に皆に聞こえる声で言う。
「しおちゃんかーわーいーいー」
真ん中の’わ’と’い’にイントネーションを置く、今時の女子高生特有のあの言い方である。
石崎は、何かに気づいて補足する様に兄妹に対して説明する。
「あ、この人別に部活サボってるワケじゃないかんね。ウチの部活ね、みんながみんなけやきみたいに竜具を付けて竜に乗るワケじゃないんだよ。みんな、思い思いのやり方で竜という存在を、堪能してる……って言ったらいいのかな。しおちゃんの場合、それがお裁縫って事」
坂は写真、石崎は机の上にノートPCがあるのでパソコンで何かやっているのだろうか?
良明は、そういえば、とけやきの言葉を思い出す。
「部活、掛け持ちされてらっしゃるんですか?」
「この場ではしおちゃんと坂はねー。私とけやきは竜術部所属だよ」
会話の終わりを待って、坂は気を利かせて持ってきたプロテクターを後輩達に差し出した。けやきに促され、兄妹は見様見真似でそれを取り付けていく。
「所謂馬具と違い、竜具は人間が装備するそれも定義に含まれている。竜と共に一式身に着けて初めて竜具を装備したと表現する」
蘊蓄風にけやきは言うが、つまるところ彼女が言いたいのはドラゴンに乗る際には本来原則として身に着ける物なのだという事らしかった。はっきりとそう言わないのは、兄妹がけやきと初めて会った日に彼女がそうしていなかったからだろうか。と、良明は無意識に思考を巡らせる。
「つけ方、合ってますか?」
武者震いしつつも覚悟を決めた眼をした良明の装備を全てチェックし、「ああ、大丈夫だ」とけやきが答えた。
「私も終わりました!」
手を挙げて確認を乞う陽。けやきは同様にチェックしてやり、「よし」と言って中庭へと促した。
テニスコート程の小さな運動場。に、先程は見えたその空間は、よくよく見れば中庭と呼ぶ方がしっくりくる場所だった。
旧校舎2に対面する方向には学校外とを隔てる高さ五メートル程のフェンスがめぐらせてある。フェンスの向こうには民家があり、その二階は丁度この庭を見渡せる高さにある。
部室を出て右手には植え込みや石で囲まれた池がある。リッチな家にありそうな小さな庭園といったイメージだが、これもフェンスで隔ててある。その向かい。旧校舎2を出て左手からは西日が強く降り注ぎ、やはりこちらにもフェンスが。フェンスの向こうは放置された様に荒れた空き地になっており、いたるところに草が生えている。
そして、それら四つの面に囲まれたエリアに”コート”があった。
フェンスを境界線にする様に、その矩形のエリアにだけは草一本生えていない。左奥には木造の小屋があり、大きさは工事現場などで見かけるプレハブ小屋を四つ並べた程度とそこそこ大きかった。
コートというからには白線のラインが引いてある。白い長方形、それを中央で区切る縦線。その中央に正円。パッと見それはサッカーやバスケットのコートに似ている様に見て取れた。
だがその左右、得点を得るための所謂”ゴール”がある辺りが、サッカーのそれとも、バスケットのそれともまるで違っていた。コートの外縁の矩形に収まる形で、コートの左右には正円が引いてある。
正円の中はボールを置けば緩やかに転がってくる程度の山になっており、その頂上からは五メートル程のポールが伸びている。ポールの先には人一人何とか通れるかという大きさのリングがついていて、総じてそのポールは金属探知機を大袈裟にした様な形をしていた。
矩形自体の大きさは縦二十メートルの横三十五メートルといったところ。それなりに大きい。
てくてくとけやきに連れられていく兄妹は、金縛りの様な緊張の中では何一つ言葉を紡げないでいた。
コートの中央で、ガイの背の前側にけやき、その後ろに陽、そして最後尾に良明が跨る。兄妹が”心の準備を”などという暇は無かった。まるで二人がそうする事が不自然でおかしな事であるかの如く、けやきは流れる様な動きで二人をガイの上に押し上げたのだった。
手綱を持つけやきの背後で緊張した面持ちを隠せない陽と良明を一度だけ振り返り、けやきは毎日二人に対してやっている事であるかのようにさらっと言い放つ。
「よし、行こうか」
二人がどこか間の抜けた声で「はい」と言うのとほぼ同時に、ふわり、とどこからともなく一陣の風が駆け抜けた。
それを合図にした様に、ガイは背中の羽をゆっくりと、かつ大きく広げた。天を仰ぎ、太い両手の指先を地に向ける。
いつしか駆け付けていた石崎達が、かつて空港まで双子を見送りに来てくれた親戚のおばちゃんと同じ表情をしている。尚、当時幼稚園児だった英田兄妹は、初めての飛行機の中で抱きしめ合って震えあがっていた。
「大丈夫、ガイを信じろ」
背中越しに双子に対して優しく囁きかけるけやきに呼応する様に、ガイは両の羽根を今、振り下ろした。
ぶわり、と今一度風が舞う。
先程のそよ風とは比べるべくも無い、扇がれた分だけの空気が三人の前髪を大きく揺らした。
砂嵐に思わず眼を細める陽。しばしの間顔にかざしていた右腕を、ゆっくり降ろす。
その目の前には、地上に居た先輩達の姿は既に無く、逆光が作り出す人間達のシルエットと水飴の様に引き伸ばされたその影達は、既に彼女の数メートル下に位置していた。
石崎達だけではなく、ほんの少しだけ小さくなった地面が自分を見送ろうとしている様に見える。
ドラゴンが羽を扇いだ直後の浮遊感と、一瞬の滞空の直ぐ後に訪れる落下する感覚が繰り返されていく。その感覚は、良明や陽が思っていたよりはるかに優しく、ゆっくりな飛翔。だが、それはとても心地良く、ドラゴンが羽根を仰ぐ度に頬に届く風がまるで自分達を気遣っている様にさえ感じた。
「樫屋先輩、これ、思ってたより――」
良明が恐怖心を振り払う様に何か言おうとするのを遮って、けやきは手綱を持つ右腕を前方へと伸ばした。良明が反射的にすらりとしたけやきの腕を眼で追っていくと、その先の人差し指は、はるか彼方を示していた。
はるか彼方、一億キロ以上もの彼方から全てを抱擁する黄昏のオレンジ色は、双子から言葉を奪った。
聞き取れない程小さな「あ……」という声を発した少年と少女に、けやきは凛とした表情で語りかける。
「ドラゴンはその身ひとつで自由に空を飛べる。私達人間にその景色を共有してくれる。私がドラゴンを愛する理由の一つだ」
昼間の始業式の時には意地悪く太陽を遮っていた雲も、今や道を譲っている。
陽は問う。
「先輩は、だからこの部活に?」
「……大きな意味ではそうだ」
けやきは一呼吸置き、夕日を指さしていた手で視界を眩しく満たす陽光を遮った。
そして、意を決した様に打ち明ける。
「実のところ、今この部は廃部寸前なんだ」
良明、続いて陽が思わずけやきの顔を覗き込もうとした。
「部の存続には、新入部員の加入は不可欠だ。……興味があるなら、是非また来てくれ」
そう言ったけやきの表情が切なげに見えたのは、果たして夕日が眩しくて目を細めていたからだろうか?
*
青く青く輪郭が沈められていく景色の中で、点々と人工の光が増えていく。
光センサが内臓された外灯が、各々の判断でまばらに明かりを灯していく。
どこからとも無く香る魚の煮付けの匂いが、家路へと運ぶ兄妹の歩を無意識のうちに早めさせる。
夕暮れ時に鳴くカラスの声が、次第に少なくなっていく。
まだ少し肌寒い、春の十七時半の風。
十年位前に兄妹二人で登った山の端には、まだ少しだけあのオレンジが見える。
どれもこれも、侘しく感じた。
電車を降りてからと言う物――或いは電車に乗る前からか――沈んでいく太陽を目で追い続ける兄を、妹はそれと同じ様な眼で見ていた。
「ヤバかったね……」
「ヤバかったな……」
二人とも、口数少なく上の空である。
夕日の綺麗さとともに語られた竜術部の現状。
語ったけやきの儚いまでの美しさ。
そもそも、ドラゴンに乗るという体験を生まれて初めてしたことへの感動。
様々な想いがないまぜになってしまい、その感情を言葉で表現しようと試みても兄妹はただただ自分のボキャブラリーに失望するだけだった。
挙句にたどり着いたのが”ヤバかった”という表現であったが、よくよく考えてもみれば、例によって兄は、妹は、同じ様な感覚に襲われている筈だった。
言葉にしてお互いに確認する事などそもそも不要だった事に、俗っぽくて薄っぺらな表現を絞り出した後になって気づいた。
「……入部、する?」
三分前より明らかに暗くなった景色の中で、妹は兄に問う。
「判らない……そもそも、竜術部っていうのが何をする部活なのかがよく解って無いんだよな、俺」
「ん、竜術部って言ったらアレだよね。スポーツの……”龍球”だっけ? アレをやるんじゃないの?」
龍球。兄妹は詳しくは知らないが、世間一般の認識でいうならば、龍と人間がチームを組んで戦う球技である。
「いや、そうなんだよ。普通はそう呼ぶじゃんか?」
「……あー、”龍球部”じゃなくて”竜術部”なんて広くて旧い言い方してるって事は他にも何か色々活動してるんじゃね? っていう事?」
「うんうん」
「ああ……先輩そんな事言ってたもんね。写真部の人とか手芸部っぽい人とか居たし」
「仮にさ、龍球が活動のメインだとして、龍球のルールなんて俺全然解らないんだよ」
「万年文化部だもんねー、この兄妹」
「だよなぁ」
自虐の意味で笑いそうになりながら良明は応えた。
何やらこう、二人の中では最早言葉にする程の事ですらない共通認識が、彼らの脳裏に浮かび上がっていた。
即ち、”そもそも体力的に運動なんて絶対ついてけないんだよなぁ”と。
夕暮れのオレンジが、いよいよ山際に消え去ろうとしていた。




