三毛猫ロック:フェルマータ(1)
壁面には、大きなモザイクアートが描かれていた。
天に向かって荒々しく吠える、巨大なドラゴンの絵である。
三池は、そのドラゴンを背にして立っている仲間の顔を、左から順に眺めた。
今回の挑戦を今や遅しと待ち構える少女。
余裕の表情を取り繕っているのがぱっと見で解る大男。
冷静沈着を絵に描いた様な眼鏡男子。
虚勢を最後まで貫き通そうとする勇敢なる気弱な少年。
ニタリと笑う三池は、彼女が黙している事を今しがた指摘してきた円に対して反論する。
「てめぇこそ、なーに口数多くなってんだよ」
その表情は、円をからかうと言うよりはむしろ彼を誇りに思う様な心情が滲み出ている様で、実際、この場に居る誰もが彼女にとっては戦友だった。
彼女のそんな心持とは裏腹に、三池と同じく沈黙していた少女が「だよねー、三池りんを見習いなさい」と追い打ちする。
だが、そんな少女もまたうまい言葉が見つからず、それ以上言葉を続けて円をからかう余裕は皆無なのであった。
「三池りんて言うな。三池りんて。……んなことよりよぉ」
と、三池は眼鏡の男子に視線を向けた。
* * *
ジーンズに黒のTシャツ。あとそれからグレーのパーカー。素足のまま履いているのはビーチサンダル。
家の近くにジュースでも買いに行く様な格好の三池に対して、伊藤の友人・榊原芽衣は預かっていた紙袋を差し出しながら、思ったままを口から垂れ流すのである。
「うぃい、重いなぁー。三池君、これ何が入ってんの?」
「あー悪ぃ悪ぃ、円に渡すヤツだそれ」
「ってぇと?」
「竜具だよ。ほら、俺あいつに頼み込んで龍球部に付き合わせてっからよ」
三池は、芽衣が両手でやっとこさ持っていた荷物を、その細い腕一本で軽々と持ち上げた。
「あーなるほ……え、こういうのって結構値段すんじゃないの?」
「いやそりゃ勿論部費で買ってんだよ、俺がこんなん買ったら破産しちまう」
「あーね」
芽衣と同じく三池に対面する位置に立っている伊藤が、歩道の脇でやたらと存在感を放っている縦長のビルの一階を覗き込んだ。
ビルの一階はガラス張りで、柱は目が痛くなる様なピカピカの銀色をした柱でできている。床には大理石が敷き詰められており、天井の蛍光灯がくっきりと反射するほどに磨き上げられていた。
「遅いなぁ、円」
業を煮やしつつある伊藤は、少しだけ不機嫌そうにも見える。
「俺ちょっと見て来る、荷物頼むわ」
そう言ってカラオケボックスのフロントロビーへと入っていく三池を、伊藤は「はーい」と言って見送った。
芽衣と伊藤は通行の邪魔にならない様に軒下へと逃げる。
「うわ、ほんっと重っ」
三池が持っていた荷物を持ち上げようとして、伊藤が声と共に驚きの表情を浮かべる。脚と腰に力を入れ、「んしょ」と言って自分の足元にその荷物を移動させる伊藤。
一連の動作を終わらせると、彼女はここぞとばかりに芽衣に対して突っ込みを入れるのである。
「めーさんめーさん」
「なんでしょう伊藤さん」
芽衣は腕時計を見ながら返事する。十一時五十八分。
「”三池君”はやめたげようよー」
「……へ?」
笑いながら言う伊藤の言葉の意味が解らず、芽衣は首を傾げた。或いは、車道を丁度車が横切ったので、聞き間違えたのかもしれないとも思う。
「三池にゃんは女の子なわけでして」
「え……」
芽衣は、ぽかんとして一秒硬直し、その後、
「いやいやいやいや、一瞬本気にしたじゃんかーもー!」
伊藤以上の笑みを浮かべ、芽衣は古い友人の背中をばんばんと叩いた。
(あれ? ……え、……女の子……だよね?)
伊藤が自分に問いかけているうちに、店から三池と円が出てきてしまった。
「すまん、遅くなった」
と申し訳なさそうに口にする円の前を歩きながら、三池が呆れ顔で言う。
「こいつ会員登録させられてやんの」
「しゃーねぇだろ、店員の姉ちゃんやたらと丁寧に喋り出して、断る隙が無かったんだよ!」
『真面目か』
女子と女子かもしれない奴達合計三人が、声をユニゾンさせて円に突っ込んだ。
「あー、んで一人おいくら万円ー?」
芽衣が円に問うと、円は
「あーいい、いい。今日のは俺が言い出した事だしこのカラオケは奢るよ」
と言うが、祝日料金でさらに四人分の料金だ。学生にとっては決して馬鹿にならない出費になる筈である。
「いいよいいよ普通に割り勘しよ」
と言って伊藤が有無を言わさず財布を出すと、円は意とも簡単に折れた。
「すまん、3260円だから……えー……815円だ」
直後、三池は――三池だけは――驚愕の表情を浮かべて円を見た。
「え、お前凄くね!?」
「ん?」
「今一瞬で計算したよな? 815円……ん、815円だよな?」
「815だよー」
芽衣が財布の小銭入れを漁りながら答えた。
円は三池の顔を見ながら、頭の中でもう一度暗算してみる。
「いやいやフツーにシワ三十二であとは六十を四等分すりゃいいだけだから、こんくらいなら楽勝だろ」
三池は芽衣と伊藤の顔を順番に見ると、そのどちらとも目が合った。
なんだか気まずい空気が流れ、目を逸らす。
その場に居る誰に対しても同様に高校三年生の春を迎えた円が、三池に対して心配半分からかい半分な口調でこう言った。
「お前大丈夫かよー、ゴールデンウィーク明けに勝負すんだろー?」
そう、今日までは所謂ゴールデンウィークなのである。
その最後の一日を利用して、円は最近仲良くなったメンバー四人でカラオケにでも行こうと提案したのだ。
ここしばらく降っていなかった雨が、よりにもよってここ数日に亘って狙いすました様に降り続いていた。しかしどうした事だろう。ここにきて空は読んで字のごとく”空気”を読んでくれたらしい。彼等が遊びに行く予定を入れていたこの日だけは、辛うじて曇りのまま持ちこたえているのである。
因みに、芽衣はこの”場の雰囲気”と言う意味の”空気”と大気を指す語である”空気”が上手い事リンクしているという話を、今日皆が合流した時からどこかでどや顔で言ってやろうと思っている。
尚、語源が同じなのでそんなに上手い事言っているわけではない。
閑話休題。
ところで、円が言っている”勝負”というのは、三池がある男子生徒に挑んだ決闘の事である。
と言っても、今回の勝負は彼女にとって慣れっこのいつもの殴り合いの戦いではない。
五月三日月曜日。ゴールデンウィーク前最後の登校日に、三池はある一人の男子生徒から体育館裏に呼び出された。
いまどき、体育館裏に。である。
* * *
訝しみながらも応じた三池も三池だが、隣のクラスの生徒を呼び出す場所のステレオタイプを地で参考にしたその男もその男である。
男子は、その名前を霧山法司と言った。
頭脳明晰で、各教師からの信頼も厚い、三池とは住む世界が違うような奴だった。
フレームの細い眼鏡をかけ、見るからに知的な印象の顔といい、見た目と中身が素晴らしく一致した様な憶えやすいキャラクターの男だったので、その日まで一度として話したことが無かった三池の中でも彼の顔と名前は既に一致していた。
猫の様に警戒しながら体育館裏に現れた三池に対して、霧山が口にした第一声は意外な物だった。
「三池、頼みがある」
足首をぐりぐりと地面に突き立てて準備運動を初めていた三池は、今度は一度目の前に置かれた餌を持っていかれた猫の様にきょとんとした。
「お、おう?」
「その、三池は……ユークリッド……というバンドを知っていると聞いた」
飯と煮干しだけだった餌の中に、みそ汁が加えられて戻ってきた。
「おうおうおう! 知ってるも何も激聞いてるぜユークリッド!! スリーピースなのに俺みてぇなド素人が聴いてもすっげぇ重いサウンドでよ、ギターのケイなんて完全にプロレベルだぜあれ! けどやっぱ一番気に入ってんのはベースだよ!! 常に音量大きめのクセして全っ然耳障りじゃねーの! もうな、上手ぇとかプロいとかそういう次元じゃねーんだよ! 単純にな、聞いててすっげえ楽しんだよあいつらの曲!! ああそれとライブで意図的に駆け足になるドラムも俺はすっげぇ好きだ! つうかライブなんてよ、大体が――――」
「三池」
「駆け足になるもんだろっての! あいつらだけ――」
「み、三池」
「やり玉に挙げる意味がわかん――」
「三池、いいか」
「――っとと、おう悪い、なんだ?」
霧山の問いかけが会話の副食である様な口ぶりで、三池は彼の言葉を促した。
突如として真夏の革ジャンの様に熱く――るしく――語りだした割に、実はそこまで専門的だったり深い事を言っているわけではない三池である。が、霧山は特にそんな彼女に対して不快感を感じる事も無く、それどころかむしろその熱に安心した様に話を再開した。
「俺もユークリッドをよく聴くんだが――」
「マジかよおい!! ライブハウスの外でユークリッド聴いてる奴見つけたの初――」
「それでだ」
「あーと、悪い悪い」
「今度の……六月にライブがある。……と言うのを知って、その、生まれて初めてライブと言う物に行こうかと考えている」
「おーマジかよ、え、つう事はアレか、お前一枚だけ出たミニアルバムしか聞いた事ねぇのか!?」
「あ、ああ」
「まーじかよ! 絶対ぇ行った方がいいって! ユークリッドは生で聞いてナンボだぜ!!」
「そうしたいんだがな……」
霧山の表情が曇った。
三池は、ライブの帰り道で見る空の様な色の表情を見て、もしかしてこいつは最初からこんな顔をして話していたのだろうか、と思った。
(やべ、気づいたらすっげぇ一方的に話してた……)
他人にひかれる事など気にする性格では無い三池だが、単純に悪い事をした様な気分になって努めて静かに彼の言葉の続きを待った。
「家の方針で、そういう場所に行く事が禁止されていてな。あまり……いや、全くライブに関する情報を家に留めておけない状況がある」
「なんだなんだ、ライブハウスを何だと思ってんだお前ん家」
「言葉にしてみれば、”先入観”の三文字で終わる恥ずかしい話だ」
「まぁ……そこ突っ込みだすとキリねぇか。んで、話したこともねぇ俺を呼び出してまでしようっつうお前の頼みってのは?」
「俺と一緒に、件のライブに行ってくれないだろうか? 出来れば集合時間に金を用意して行けば万事問題ない状態で色々と調べて貰えると助かる」
三池はこの後一秒も無い間を開けて即答するのだが、その直前、ふっとある一つの疑問が頭を過った。
(こいつは、なんでここまでするんだ?)
碌に話したことも無い女子――霧山が三池の事を女子だと認識しているかどうかは置いておいて――を、体育館の裏に呼び出して、堅物で生真面目でガリ勉な性格で通っている彼が、本当に件のバンドの事を知っているかも定かでないそいつに対してそのバンド名を出し、言ってしまえば、”遊びに行こうぜ、でもセッティングは全部お前よろしくな!”などという頼みをしているのだ。
さぞ気まずかった事だろう。
その時、「いいぜいいぜ任せろ」と言った三池の思考が、買い立てのペットボトルの蓋の様に心地良く回転した。
「あーただし」
「む」
「一つだけ条件がある」
少しだけ意地悪な顔をして、三池は言った。




