鎖の轍を踏みしめて(4)
「要は、俺は負けから学ぶ事もしねぇ、負けた事が気にくわないだけのただのガキだったってわけだよ」
来須は、安本の言っている事の半分も理解できない。彼の感情がそれをさせようとはしなかった。
「それでも俺は……今日の試合の意味を放棄する事なんて、できません」
おもしろくないと言った様子の後輩に対し、先輩は獰猛な笑みを浮かべて言う。
「勘違いしてんじゃねぇぞ、来須」
安本は、来須に手を差し伸べる。
「俺は、牙を抜かれてなんていねぇ。やりたい事をハッキリさせただけだ。俺はここから先、”試合相手に圧倒的な力を行使して勝利を得る”事を龍球人生の糧とする。誰に軽蔑されようが、それが俺のやりてえ事だ!! 今日のこの試合、ガキみてぇなウサ晴らしはもうヤメだ。粛々と全力を出し切って、こいつらを踏み潰すぞ!!」
来須は、彼の言葉の意味を未だ理解できてはいないし、彼の何がどう変わったのかも全く把握できてはいない。
(要は樫屋に溜飲を下げられて、勢いを失っただけじゃないか)
単純化された彼の中の構図しか見えておらず、まるで納得出来なかった。
だが、ただ一つだけ彼が強く認識していた事がある。
(安本部長、あんた今……)
安本の手を取り、立ち上がりながら思うのだ。
(なんて、楽しそうな顔してんだよ)
*
竜術部のドラゴンの為の小屋の中ではただ一頭、黒龍のシキが両チームの様子を窺っている。
強い知性を感じさせる眼は赤色。彼の身体を覆う鱗は随分と年季が入っており、一枚一枚が彼の半生を物語っている様な深みを湛えている。
大幅な試合の中断により、かの一件までを前半として区切る事になった。部が学校のコートを使える残りの時間も限られている為、インターバルは三分のみだ。
この三分でいかに作戦をまとめ上げ、あの冷静さを取り戻した強豪に対抗するのか。
それが、大虎高チームにとってこの勝負のキモになりつつあった。
シキは、大虎コートを見て耳をそばだててみることにした。
内心おもしろくないのは、双子とレインである。
結局、安本から一連の態度についての謝罪の言葉があったわけでもなく、今度は何やら来須が悪態をつきだした。なんでも、自分達新入りをつかまえて”クソ雑魚”とかなんとか抜かしていた。
(ああうんそうさ、今の俺達はクソ雑魚だ!)
(でも、このままで済ませてたまるもんか!)
(あんな不良一歩手前みたいな奴に負けたくない!)
良明と陽とレインは、彼等が皆同じ感情を抱いているのがありありと解る顔でコート脇にてけやきに詰め寄った。
「先輩、次はどうすればいいですか?」
「あと二点、なんとか返しましょう!」
「グァ、グァ!!」
いくら口で建前を言っても、彼等の顔には、黒の油性マジックで淵付きフォントの本音がこれ見よがしに書かれている様だった。
安本と来須の正体を知り、県大会のレベルを見せつけられた。それにより心が折れかけていた事をまるで忘れている様に、今の二人と一頭の顔には闘争心が漲っている。
強豪がなんぼのもんじゃい。こっちにはドラゴンへの愛の権化にして正真正銘の天才がついてんだ!
他力本願もいい所だが、もはや彼らに迷いは無かった。
良明は、言う。
「先輩、この試合……やっぱり俺、勝ちに拘りたいです。相手の技を盗む事も大事かもしれませんけど、でも……」
陽もそれに続く。
「負けたら……いけない相手だと思うんです!!」
言葉を選んではいるが、陽はこう言いたいのである。
「”あんな下品な暴言を吐く輩になんか絶対負けたく無い!!”」
けやきが発したその言葉に、陽は思わず視線を逸らすが、焦った表情が図星ですと言っている。
一方、今のけやきの顔に焦りの色は無かった。それどころか、笑みすら浮かべているのである。
「いいだろう。ここまでの試合で、十分見る物は見た筈だ。後半はファウルを貰った所からこちらのボールで再開という事になっている。同点の目算は十分に立つ。そこからは私が中心になって立ち回ろう」
「私達はどうすればいいですか?」
「恐らく、もう攪乱は通用しない。相手には、私が主軸で戦わなければこちらがどうしようもない事がばれている。だから英田兄妹、ここからは――――」
一方、薄石コート。
「――久留米沢、いいな?」
久留米沢の表情は、そう口にした安本よりも遠く年の離れた兄の様に穏やかだった。
「何を今更。あんな啖呵をきっておいて、俺が”リベンジ試合だと言ったじゃあないか”とごねて、お前は折れるのか?」
安本は、この期に及んで自分の言葉に文句ひとつ言おうとしない彼を誇らしげに見て答え、今度は来須の顔を見た。
「もっともだ。……んで来須、お前の言いたい事は解る。ここに来るまでの、俺のあいつらへの憎しみを見てきたてめぇにすりゃ、今更親善試合みたいな空気にされてもそりゃ調子狂うだろ」
来須は、無言で頷いた。
彼は、安本の言葉の何割かをきちんと理解できていないからこそ、無暗に安本への軽蔑の念を抱く事をしかねていた。感情的になって尚、こうして自分の中の心の動きにストッパーを差し込めるのが来須という少年の長所である。
「けどな来須、樫屋の話、お前も聞いてたと思うが、あいつは俺やお前よりも長い間龍球の事を勉強してきたんだ。はっきり言って知識じゃ絶対勝てねぇレベルで差を付けられてる。あいつの言葉が嘘でないかぎり、そりゃもう確定だ」
「…じゃあ、どうするんです?」
「アレ、使うぞ」
久留米沢は、このタイミングで初めて否定の語を述べる。
「安本! こんなところで手の内を明かすつもりか!?」
安本は、主将たる堂々とした態度で反論する。
「言っただろ、『全力を出し切って、こいつらを踏み潰す』ってな。来須は異論無ぇよな? あいつらを一気にぶっ潰すならこれが一番手っ取り早い選択だ」
久留米沢が止めに入り、安本が奥の手として提案した一手。それは、今の来須をしてこう言わしめた。
「安心しましたよ、部長。それは、確かに今の俺達の全力そのものです」
尚も久留米沢は食い下がりたげな顔をしている。
安本は、それをないがしろにはせずにこう告げる。
「大会までにもう一つや二つ奥の手を用意すりゃいいハナシだろ、それくらいの気概が無ぇとどのみち全国大会じゃ勝ち進めねぇ」
久留米沢は、安本の最後の一言で漸く「仕方ない」と言って折れた。
「だがまぁ、安本。あれを使う以上はこの練習試合、結果は見えたな。そういう意味で、この試合、これで面白味は全く無くなった」
「久留米沢先輩、そう言いますけど、最初っから勝ちが絶対目標なのは変わりませんよ。それに俺にとっちゃあ、面白い事この上ない」
来須は、そう言って邪悪な笑みを浮かべる。
「あいつらの心が折れる音が、今にも聞こえて来る様です……」
小屋の中から聞き耳を立て続けていたシキは、首をひっこめ、とぐろを巻いた。
唸り声をあげる。それは、『勝負あったな』を意味する、龍の言葉であった。
けやきはかつて、英田兄妹にこう言った事がある。
『龍球というのは、競技人口が少ないが故に高校生の大会ではまだ未開の戦略・戦術も多い。技術的な錬度も他のスポーツと比べて洗練されきっていないというのが私の考えだ』
これは、ガルーダイーターが台頭して久しい今、紛れも無き事実である。
競技人口が少なく、未開の技術が多く、それでいて競技の歴史自体は古い為、上級者による初心者に対しての訓練は洗練されつつある。
故に、高校龍球は初心者が入っていきやすい環境なのである。
それはつまり、競技人口に対して初級~中級者の比率が他のスポーツよりも多い事を意味しており、高校大会等の純粋に順位を競い合う場に於いては、上級者に分類される者達が意とも容易く上位への入賞を狙う事が出来るのである。
その際、その上級者達が上位入賞の為に準備するべきものは、そんな初級~中級者を確実に圧倒出来る手段である。
中級者までの知識と技術では体得できない、経験あってこその戦略と戦術。
それが、上級者とそうでない者達の間に試合の場で決定的な差を作り出す。
薄石高龍球部が体得したその戦術は、実力が拮抗するプロの世界では滅多に使われない技であった。故に、以前の安本ならば、それを体得する事を”時間の無駄”だと言って切り捨てた筈である。
彼が、彼等が、今この局面の古戦陣に”レギオンフォーメーション”を駆使するに至ったのは、正に、かつてけやきとの試合に敗北したからこそであった。
試合という、小さな戦いの歴史が今、動き出す。
先程来須に腕を掴まれた位置にけやきユニットが立つ。
その上空に久留米沢ユニット。
大虎高ゴールリング五メートル前に安本。安本が乗っていたドラゴンは、当時けやきの後方三メートルの地点に居た。
良明と陽のユニットがけやきの左右に陣取ると、それで当時の試合状況の再現が完了した。
とはいえ。
ファウルにより一時停止した試合を再開するのと、ファウルが発生せずに試合が続行されるのとでは、様々な要素に雲泥の差がある。
まず第一に、各選手による現状の把握度合い。そのまま試合が続行された場合に比べ、一度ファウルで試合が中断されればその時の選手の立ち位置を完全に把握する事が出来る。
反対に、試合が一旦止まる事により、選手にとってやりにくくなる要素もある。
特に勢いをつけて走っていた時など、助走があるのと無いのとでは、向かおうとしていた地点に到達するまでの時間がまるで異なってくる。
今の状況に関して、大虎高校の六名にとって最も有り難い方向に影響した事は、けやきがゴールリングを狙い澄ます時間を得た事だった。
ボールを構えた状態でファウルが発生した以上、けやきには両手に白球を固定した状態から試合を再開する権利がある。その状態で数秒。風の向きと強さを全身で精査しながら、けやきはゴールリングを見上げて静止していた。
龍球の試合の再開は、風向きの変化等のタイミングに関して公平を期す為、予めセットしたタイマーにより指示されるのが慣わしだ。
残り五秒。風は、黄昏の香りを運びながら柔らかく吹き続けている。
選手全員が固唾を呑んで間もなく来たる瞬間を待っている。
反撃の狼煙を待つ大虎高初心者組。
必殺の策を発動するべく期を窺う薄石高生徒達。
あと三秒をただただ集中しながら待つけやき。
二秒、一秒。
キーー。
試合の時が動き出す音は聞いている者の力が抜ける様な迫力の無さで、妙な笑いさえ込み上げて来る者が居てもだれも驚かなかっただろう。
だが、この試合を見守る誰一人として、この瞬間に実際に笑みを浮かべていた者は居なかった。
張り詰めた緊張が、無機質でショボいその音を限りなくリアルな戦闘開始の合図に昇華させていた。
そんな音が聞こえたその瞬間、風は死んでいなかった。
「くっ」
ガイは指示を受けるまでもなく踵を返す。
その背の上のけやきの腕には、未だ白いボールが握られていた。




