鎖の轍を踏みしめて(3)
良明と陽。
龍球を初めて一月と経たない二人は、安本の言葉の重さに押し潰されかけていた。
ここにきて。今、この瞬間。
けやきがこの試合に於いてもっとも危惧していた事が、起ころうとしていた。
英田兄妹の心は、重機に砕かれる木造家屋の様な悲痛な音をたてて折れようとしている。
使命感。その三文字は、弱弱しい羽根しか持たぬ双子がレインを守るためには、あまりにも小さな力だったのである。
人は、自らが望み欲する事にこそ打ち込み、努力できる。
勿論努力の動機は様々だ。その努力の先にある栄光であったり、愛する者を護る事であったり。自分自身にとって輝いて見えるものならば、何であっても動機として成立する。たとえそれが、善ではなく、悪であったとしても。
だが、それを持たない兄妹にとって、突きつけられた安本の言葉は、”てめぇらじゃあどこまで行っても三下止まりだ”と、そう言われている様に思えてならなかった。
主体性、より正確には’欲’という物が含まれない動機により仔竜の命を救おうとした事が、こんなにも罪深い事だったのだろうか。これ程までに辛い気持ちを味わわなければならない程、自分達はしてはならない事をしてしまったのだろうか。
双子は、二人全く同じ感情に雁字搦めになっていく。
県大会という、各々が欲するモノの為に痛みと苦しみを味わい続けている人々が集う場に、漠然と仔竜を救わなければならないと思うだけの、部を存続させなければならないと思うだけの自分達が、果たして足を踏み入れても良いのだろうか?
良明も、陽も、その答えを頭の中に描けずに、口をつぐむしかなかった。
けやきは、安本の言葉に眼を閉じて沈黙した。沈黙し、言葉を返さないでいるけやきを、双子はあえて直視した。すがる様な想いで、直視した。
誰もが口をきかない。
大虎高の選手達も、薄石高の選手達も。
安本でさえも、それ以上何かを言う素振りは無い。
キー、キー、キー。
ストップウォッチの音ではない。部室の中の誰かの腕時計から、予め設定された時刻を知らせるアラーム音が聞こえてきた。
その切っ掛けが無ければ、けやきは果たして口を開いたのだろうか?
或いは、丁度言葉を整理してそれを口にしようとしていたところだったのかもしれない。
長身の麗人は、すっと眼を開き、憎悪に表情を歪める安本にこう言った。
「知るか」
安本の、問い。
”俺が優勝の二文字を得る為に、どれ程の痛みを、苦しみを味わってきたかてめぇに解るか?”
これ以上無いくらいの、相手と自分への憎悪に満ち満ちる想いで放たれたその問いに対する答を、けやきはただの三文字で冷徹に表現したのだ。
「貴様の……その、無感情が俺をォ――」
最早、感情だけで口を動かそうとし始めた安本の言葉を、けやきが遮った。
「お前の中の物差しで他者を測るな!!」
この時程感情と迫力に満ちたけやきの怒鳴り声を、英田兄妹はもちろん、竜術部の二年生でさえも、誰一人として聞いた事は無かった。先日良明が意識を失った時の声とは比べ物にならない程の剣幕で、けやきは猛り狂うようにまくしたてた。
「痛みが無ければ成長しない? 苦しまなければ努力ではない? ふざけるな!!」
しかしそれでも、安本の中の感情は気圧されない。退く事を考えない若い声が、怒声に怒声で反論する。
「どんなに否定しようが、それは事実だ!!」
「違う! 成長に必要なのは、あくまでそれを実現する為に頭と身体で学ぶ事だ!」
「所詮てめぇの様な、楽してすべてを体得できる天才には理解できねぇんだよ!!」
けやきは、いよいよ安本の胸倉をつかみ上げると、決して軽くは無い彼の体重を引っ張り上げ、強引に立ち上がらせた。
「私がここに至るまでに努力という物をしていないとでも思うのか!? ウィングボールスクールに通う様な猛者達を相手に出来る実力を手にするまでに、私がどれ程の時間を費やしてきたか、貴様の方こそ知る筈が無いだろう!!」
「あ……?」
襟を掴むけやきの手を振りほどこうともせず、安本は鬼の様に眉間に皺が寄った彼女の顔を、尚も獣の様に睨み返している。
そんな二人の元に、一人の女子が歩いて来た。
その眼はどこか哀しそうで、それでいて優しく、諭す様でもあった。
「八年」
石崎は、最初にたった一言それだけを口にして、その後に自身の言葉を紡ぎ始めた。
良明、陽、レインがその最初の言葉の意味するところを真っ先に理解し、伊達眼鏡を外してある石崎の顔を感情の読み取れない顔で見た。
「けやきが竜の事を勉強し始めて、今年で八年目よ」
安本の眼が、見開かれる。
「そりゃ、龍球をちゃんと始めたのは高校に入ってからだけど、それは当人の家の事情と偏屈な父親の眼があった手前、それまで実際の競技に手を出す術が無かったから。高校に入るまでの間、こいつはそこの相棒の竜と一緒に戦いたい気持ちを胸に仕舞い込んで、五年間だなんてアホな時間をかけて竜と龍球の知識を学び続けてた」
安本は、ウェーブがかった髪の女子により自分の肩の力が抜かれていくのを感じた。
「だがな、安本」
けやきは、最も彼に伝えたい事だけは自分の口から言いたかった。
「私はこの七年と少しの間、向上する事その物に対して苦痛を感じた事など、ただの一度として無かったぞ」
「う、そだ……」
「確かに、このガイという竜と一刻も早く共に戦いたいという、そういう苦しみは、正直尋常ならざる程に感じていた。だが、それはあくまで私のした努力とは切り離して考えるべき苦痛だ」
けやきは、ガイに視線をやって続ける。
「何故なら、私は竜についての様々な事を学ぶ事でこいつの事を少しでも知る事が嬉しくて仕方がなかった。ただそれだけの理由だが、ただそれだけの理由で、十分に楽しかったんだ」
安本は、退かない。退けない。
「違う!! 現に俺は……俺は!!」
「安本」
けやきが、一歩進んで身を屈める。決して見下さない視線を彼の正面まで落とし、こう言った。
「お前は、誠実でストイック過ぎたんだ。お前自身に対して」
そして、その瞬間まで彼女を睨み付けていた口の悪い男子を、その腕で抱きしめた。
石崎が驚愕の表情を浮かべ、良明や陽が硬直し、久留米沢や来須は事の成り行きをただただ見守っている。他の者達のリアクションは十人十色。
安本は、ほんの二秒強の間ではあったが、一切動けなくなった。扱い慣れた自分の身体をよじってけやきの抱擁を拒絶する言葉を吐く事が、出来なくなった。
我に返るなり、条件反射の様に両手をけやきの腕にかけてひき剥がそうとする。
「違う! 俺は、そんな言葉が欲しかったんじゃねぇ!! 俺は――」
「お前は、何がやりたい?」
唐突に投げかけられたけやきの問いの意味を、安本は直ぐには理解できなかった。
沈黙する安本を自らひき剥がし、その顔を見てけやきは今一度彼に問う。
「私は、この相棒と共に龍球をするのが大好きだ。お前は、龍球をどうプレーしたいんだ」
「どう……?」
親に諭される子供の様な顔で、安本は同い年の女子を見つめた。
「何も、楽しむだけが”どうしたいか”じゃない。ストイックに向上するのがやりたい事ならそれもいいだろう。だが今のお前は、プライドという鋼の綱に雁字搦めになって何をやりたいのかを見失った挙句、眼前の敵に当たり散らす事しか出来なくなっている様にしか、私には見えないんだ」
当たり散らした敵に、自覚すらしていなかった図星を突かれた。
にも拘わらず、つい今しがたまで少年の心に滾っていた怒りや憎しみが、この瞬間に湯気の様に霧散した。
けやきの言葉は、彼にとって救い以外の何物でも無かった。
この言葉に素直になれば、何かが変わる気がした。だが、
「てめぇ、そこまでの言葉を用意出来るクセに、解らねぇのか?」
安本は、悲哀に満ちた表情をけやきに向け、ありのままの自分の内面を吐露した。
「俺みてぇな捻くれ者が龍球をやってて楽しい瞬間なんて、試合相手に圧倒的な力を行使して勝利を得る時くらいだ」
まったく、自分でもなんて嫌な奴なんだろうと安本は思う。
だがそれこそが安本という男の内面の本質であり、これ以外の答えは脚色されたまやかしの言葉でしかなかった。安本は、自分を否定する言葉を、ありのままの気持ちを、あえて口にしたのだ。
救いなど無い。彼は言葉を紡ぎながらそう想っていた。
そして、そんな彼に対してけやきの口から返ってきた言葉は、
「それでもいいだろう。真っ当に龍球の試合をし、相手に悪態をつくわけでもなく、ただただ勝利を収める事はなんら罪ではない。心の内で勝利に快感を覚える事の何が悪い。今のお前の様に追い詰められて辛そうな精神を見せつけられる事の方が、私には余程迷惑だ」
「……お前…………」
安本の顔から、何かが消えた。
それが他者への憎悪であったのか、自身への悲哀であったのか、或いは戦士としてのプライドであったのか。
彼の内で密かに轟く慟哭にかき消され、最早それを知る術は彼自身にも無かった。
その安本の変化をいち早く読み取ったのは、彼の二つ下の後輩である来須だった。
「部長!!」
安本が、足元から起き上がろうとしている来須に視線を向ける。
「牙を抜かれてんじゃないですよ! 俺は、あんたがプライドをかけた復讐をするって言うから、わざわざ高校の龍球部に入る事までしたんだ!! こんなクソ雑魚チームに俺達スクール生の何が解るって言うんですか! 辛くて苦しくて、それでも闘い抜くのが俺達でしょう!? 努力の理由なんて必要無い! どうしたいかなんて後から考えればいい! ただただ無心でトレーニングを続ける事こそが、向上への道じゃないんですか!?」
来須は、二学年上の先輩に対して叩きつけたその言葉が大いなる矛盾をはらんでいる事に気づいていなかった。
「来須」
「なんですか!? 俺は、あんたに殴られたって今の言葉を撤回するつもりはありません! 周りを睨み殺しそうなオーラを放ちながら、圧倒的な実力を示すあんたにこそ、俺は何年も前から憧れてたんだ!!」
安本は、この時自分がしようとしている事の愚かさを漸く自覚した。
自分ではない。ウイングボールスクールで自分を目標としている後輩の言葉が、皮肉にも彼自身を客観的に見据えさせたのだ。
「……来須、要はソレなんだよ。俺に欠けてたのは」
「どういう……事です」
「ただただ無心で向上する事の大事さを説く心意気……俺にはそれすら無かったんだ。
毎日毎日ただ練習を繰り返してよ、試合に出て、勝って、勝って……俺の心の中には、向上する事の意味さえ存在して無かったんだ。必死で練習を繰り返してたら強ぇ奴に勝って、だからさらに強ぇ奴に挑戦する為に練習して、龍球を極めようとする事がいつの間にか当たり前になってた。そこには何の感慨も無かったし、練習して強い相手に勝つっていうそのサイクルを、ただただ、粛々と、何の意味も無く俺は繰り返してた。……だからこそ、いきなりぶち当たった樫屋への敗北に対して、ストレスしかなかったんだよ。費やしてきた練習を否定されたっつう単純な負の気持ちしかな。例えば、”なにくそ絶対に超えてやる”……なんて前向きな感情はこれっぽっちも無くて、ただただこいつが憎くて仕方がなかったんだ」
納得がいかないという顔をしている来須に対して向けた安本の笑みは、やたらと大人びていた。




