鎖の轍を踏みしめて(2)
「その続きは、帰ってからにしてくれ。それを今ここでやられると、試合の続きが出来なくなる」
眼前の強敵との勝負に飢えた天才少女は、安本の来須への殴打を阻止したのとは反対の手で部室内から駆けて来る黒川と、その後をとぼとぼと歩いてくる寺川を指差して言った。
「こらァ貴様ら! 一体これは何のつもりだ!! 止めだ止め、もう片付――」
「黒川先生、」
興奮状態冷めぬままに薄石チームへの撤収を指示しようとした、その黒川の言葉を遮ったのもまた、けやきであった。
「ああ、キミ、怪我は!? 大丈夫か?」
「私も竜も大丈夫です、ご安心を。お気遣い感謝します」
「ああそれは幸いだ、今のはうちの――」
「ちょっとした事故でしょう、悪意あっての事ではない。今後注意して下さればそれで結構です」
「いやだが、しかし……」
「我々としても、この様な形での試合の中断となれば遺憾極まりありません。続行の許可を」
寺川にも目くばせしてけやきは言った。
”試合が悪い方へと進んでいけば、後輩達のモチベーションに関わる”
その考えは、彼女の中で変わってはいない。だが、それでも今ここで試合をやめるわけにはいかなかったのだ。
双子やレインが初めて試合らしい試合をしたのは、つい先日のミニ試合。その時は、事故による良明の脱落と言う形で試合が中断された。そして今、暴言や意図的な妨害によるファウルが試合中断の要因となりつつある。
この流れを受け入れてしまったら、またもまともに試合を終える事が出来なかった事になる。そんな事態になれば、兄妹に龍球そのものへの悪い先入観を抱かせてしまう事も、十二分にあり得るとけやきは思ったのだ。
何より、理由を付けて不利な試合から逃げた様な格好にはしたくなかった。
どんなリスクがあろうとも、この試合を今のメンバー全員で戦い抜く事は彼女の中では揺るぎのない決定事項だった。
一方。
安本は、振り上げた拳をそのままに黒川を睨んでいた。
「安本、貴様は――」
と、黒川が何か言おうとするのを、けやきは
「お願いします」
と言って遮った。その頭は、彼女の顔が見えない程に下げられている。
黒川は居心地悪そうな表情になり、けやき、安本、来須を見比べる。
そして、三者が黙った事が切欠になったのだろう。来須がここで初めて、「すみませんでした!」と、眼前の者達に向けた声で口にした。
黒川は、試合続行を拒否する事が出来なくなった風な空気にすっかり気圧されてしまっている。言うべき言葉を失った彼の表情が、その事を三者とそのドラゴン達に伝えている様だった。
結局、黒川はその後二言三言を交わした後に自分の学校の生徒への矛を収めて部屋の中へと戻って行った。一連の会話の間一切口を差し挟まなかった寺川は、来た時と同じように黒川の後に続く。
そして、それら試合続行の手続きが終わったところで、安本は決して友好的ではない雰囲気を漂わせながらけやきに向かって問うた。その声音は問うというよりも、単に言葉を口にしただけという風な、いわば灰色の声であった。だがそれでいて、先程までのけやきへの憎しみの色が、ほんの少しだけ抑えられた声でもある。
「何のつもりだ?」
安本の問いに対するけやきの返答は、いよいよ核心に迫るものだった。
「その言葉、そっくりそのままお前に返そう。……いい加減に、お前の口からはっきり言え。私の何が気に入らない? 今お前が、こうしてここで私のチームと戦っているのは、何故なのか」
「その言い方じゃあ、大方の察しはついてんだろうが」
「ああ。だがあくまでこれは予想であり想像だ。自惚れた妄想と言ってもいい。その内容を私自身が確認も無しに肯定する事は、甚だお前達六名に対して失礼な事だと私は考える」
安本は、けやきの”失礼な事”という表現に疑問を抱く。
「んだと……どういう事だ。てめぇ、何が言いたい?」
「お前が問うのなら、今この場で私ははっきりと答えよう。……私が想像するお前の復讐とやらの動機は、私にとってこの上なく稚拙で浅慮なものだ。だから私はそれを失礼な事であると表現した」
そこまでの会話を来須がけやきの腕を掴んだ段階からのやりとりを含めてただただ黙って見守っていた英田兄妹だったが、けやきの口から出て来た”稚拙で浅慮”などという、彼女には珍しい他者に対して棘のある言葉についつい口を挟んで尋ねた。
「どういう事です?」
「どういう事です?」
二人はけやきのその表現に驚きつつも、先程から安本が威嚇の言葉を吐き続ける理由を聞いてみたいとも思った。
安本は、大虎高校の三人と三頭を見回して、誰に言う風でもなく、ごちる。
「てめぇらみてぇな半端モンには解らねぇよ」
安本は、未だ彼を掴んでいたけやきの手を振りほどき、話を去年の県大会まで遡らせる。
地上に降り立っていた久留米沢ユニットが、複雑そうな顔をして安本を見ていた。
来須は、機嫌悪そうに明後日の方向の小石を睨んでいる。
* * *
その日、安本二年生は胸を躍らせていた。
県代表チームの選考を兼ねた、高校龍球の県大会。ここで良い成績を出せば、ウイングボールスクールでのランクも上がり、一つ上の最上位クラスの練習メニューに参加できるのだ。
コンクリート打ちっぱなしの通路には、鈍い蛍光灯の光に照らされてトーナメント表が張り出されている。一回戦は難なく突破。続く二回戦と準決勝を勝ち進めば、優勝が見えたも同然だった。
決勝で当たる相手はどうせ決まっている。前回大会で完全試合――即ち龍球で言うところのそれは、前半で三得点を決めつつ相手に一点も取らせない事を意味する――の元に安本等が下した学校が相手である。
トーナメント表を見れば、彼等薄石高校が含まれるブロックは揃いも揃って殆どが弱小校ばかりで、くじという抽選方法を良い事に、神が面白半分で悪戯した様なブロックだった。
成程、決勝で当たると思しきかの学校の試合を見れば、確かに上達はしていたし、実は相手のチームには安本と同じくウイングボールスクール所属の選手も含まれていたりする。
だが、前回から成長したのは自分も同じであると、安本は胸を張って言えるのだ。
血の滲む様な猛練習を重ね、専属のコーチには一旦身体を休ませろとまで言われた。
それでも隠れて練習を続け、プロが使う様なテクニックまでもを死に物狂いで習得した。
どれ程ひいき目に見ようとも、決勝での勝利は火を見るよりも明らかだと思った。
だが。
彼が。必死の努力を重ねてきた安本が、その相手と戦う事は無かった。
結果は二回戦敗退。
彼等から勝利を奪った相手は近年中にも潰れそうだという、”龍球部”の名さえ持たない連中だった。
二人居る三年生の堅実なブロックに攻撃が阻まれ、残り一人の二年生のユニットに幾度となく攻め入られた。
彼女と、彼女が乗るドラゴンの動きは、化け物じみていた。
まるで前世から龍球を極め続け、龍球に関わりがある物理運動の全てを掌握しているかのような、その手綱が龍と人間を結ぶ体のパーツの一部であるかの様な。そんな動きをしていた。
一体どれ程のキャリアを積めば、あの様な領域に達する事が出来るというのか。
一体、彼女はどれ程の苦痛の先にあの力を手に入れたというのだろうか。
安本は、自分に問いかけた。
数時間前、大会での優勝を確信した時に見たトーナメント表の前で、安本はたった一人で呟いた。
「俺は、まだどこかで甘えていたのか?」
まだどこかで、自分をいじめきれていなかったのか。
まだどこかで、楽をしようとしていたのか。
まだどこかで。
失意の内にトーナメント表から踵を返した安本は、余命宣告でも受けた様な足取りで歩を進めていった。
他の選手を乱暴な口調で追い払った更衣室の中で、その日彼は声も無く号泣した。
後日。
安本が、日曜の午後に放送していた試合の録画放送を見ていた時、準決勝・大虎高校対竜王高校の試合で解説者が口にした言葉に対し、彼は耳を疑った。
『いやぁですが本当に驚きです。解説の驫木さん、大虎高校の樫屋さんはまだ二年生という事なんですね。こう、身にまとう貫禄も三年生顔負けと言った印象を受けますねぇ』
『はいこちら驫木です。大虎高二年樫屋選手ですねぇ、さらになんと驚く事にこの大会が団体公式戦二度目だそうです』
『えーと、それは高校龍球の大会が、という事でしょうか?』
『いえ、彼女は中学生卒業まで龍球の経験は無かったそうで、どこのコミュニティにも所属していなかったという事です。本格的に龍球を始めたのは、大虎高校に入ってからという情報があります』
「馬鹿な!」
と、テレビに向かって吠えた。
(あの、下手をすりゃあプロの世界でも通用しそうな動きを、あの女はたったの一年と少しで体得したとでも言うのか!?)
頭の中を直接金槌で殴られた様な衝撃。
そう、それは、まさしく誰かに殴られた時の心理状態とよく似ていた。
心身への痛みとそれによる危機感。だがそれと同時に、同じくらいかそれよりも大きな相手への憎悪が安本の心の中で渦を巻いた。
テレビの中では、試合前のインタビュー映像がインサートされる。被写体はけやきだった。
『――続いて樫屋さん、あなたにとっての龍球とはなんですか?』
『……あくまで私の主観であるという事を強調させていただいたうえで言わせていただくと、楽しくて仕方がない、この相棒との真剣なる娯楽です』
”たのしくて、しかたがない”?
”ごらく”?
(俺は、こんな府抜けた人間に敗北したのか? スコアこそ二対三だったが、試合内容を振り返れば、あれは完敗と表現するべき勝負だった)
安本の、自身を貶める思考は止まらない。
(当時の俺は、正真正銘、全力を出し切った。……それでも、樫屋にだけはまるで歯が立たなかった)
それが、キャリアの差ならば。
味わってきた痛みの重さの差ならば。
まだ、納得する事は出来たのだ。
安本は、”龍球を楽しくて仕方がない”行為であると言ったけやきが、許せなかった。
それが極めて独りよがりな言いがかりなのは解っている。
彼女が、自分の主観であると強調した事も聞き逃してはいない。
それでも、まるで成果を得る為に必要であるべき”痛み”を感じさせない、そのテレビに映る少女の表情が、憎くて、恨めしくて仕方が無かった。
* * *
「てめぇがなんと言おうが、成長というものには痛みが伴う。絶対にだ。俺が優勝の二文字を得る為に、どれ程の痛みを、苦しみを味わってきたかてめぇには決して解らないだろうが、それは事実であり真実だ」
安本は、今日ここまでに見せたうちのどれよりも憎悪に満ちた形相で、けやきを睨みつけた。




