それは修羅の道(1)
金曜日の、夜が来た。
英田家にある二つの子供部屋は、いつも通りに意識を溶かそうとする闇に包まれながら、いつも通りに兄妹の会話を見守っていた。
金曜日と言えば最後に間違い探しのオマケコーナーがあるクイズ番組がある曜日だが、ここ三週分の放送では、良明と陽はその番組に噛りつく習慣さえなくなってしまった。
二人の部活による疲労は、その自覚症状を変化させ始めていた。
ここしばらく全身のあちこちで警鐘を鳴らしていた筋肉痛はなりを潜め、今度は足首の辺りが局所的にじわじわと痛くなってきたのだ。面白いのは、兄妹がどちらも右足の同じ場所を痛めていた点である。先程、父・衛には「ほんっとにお前らは」とけたけた笑われた。
しかし、当人達にとっては冗談じゃなかった。
通学の時には一歩一歩を踏み込むたびに痛むし、実の所、体育の授業くらいは見学してしまいたいとさえ思っている。けやきには既にこの痛みの事は報告しており、その日から練習メニューから学校周辺でのランニングが除外された。
因みに、兄と妹に、ランニングをしなくてよくなった事からくる悦びは殆ど無かった。
練習試合は五月一日。今日から土日を挟んで次の月曜日なのである。ランニングを止めた日から数えても、猶予は殆ど無かった。
練習試合の実施を勧告されてから、あっという間の一週間と少しだった。と、良明は振り返る。
入学間もない彼は、そもそもいくらなんでもこの時期の練習試合は無茶だと思うのだ。いくら連日に亘り凄まじい量のトレーニングをこなしているとはいえ、自分と妹は龍球に関してつい先日までずぶの素人だったのだ。
今ある知識だって有って無いようなもの。たった三週間ばかりの練習で、他校のチームとやり合おうなどというのが馬鹿げている。
その辺りの事はけやきだって大いに理解している筈なのに、どうして練習試合をする事になったのか、ワケがあるなら聞いてみたいものだと良明は考えている。しかしながら、この国の国民性を呪いながらも、その様な事を口に出してけやきに尋ねる事はしない彼と陽だった。きっと何か、部長・樫屋けやきの考え有っての事なのだろう、と思うしか無かった。
良明は、同志の一人に対して声をかけてみる。
「妹、起きてる?」
「うん」
「先輩、また今回も土日は練習するなって言ってたよな」
「そだね……」
「ミーティングも、もうさっき学校でやったし」
「この土日、やる事無いよねー。下手に遊んで体力使うわけにもいかないしさ」
「ほんとそれ」
良明は、先程学校から帰る前にけやきが言っていた事を、妹に確認する。
「『しっかり休め』、だったよな。樫屋先輩の指示」
「うん」
「……岩盤浴でも行ってみる?」
「アキ」
「ん?」
「どっかのおっちゃんぽい」
「そっか」
「…………」
「…………」
陽はただの衝動を何の考慮も無しに口から垂れ流す。
「……カラオケいきた――」
「結構疲れるよな、それ」
遮る様に切り返されて、
「だめかー」
と陽が返すと、長い沈黙が訪れた。
「………………」
「………………」
「おやすみ」
「おやす……くかー」
良明が会話を切り上げようとすると、陽はただの衝動で何の考慮も無しにボケてみた。
「流石に無ぇよ」
「無いかー」
良明は、思い出した様に真剣な口調になって言う。
「真面目なハナシさぁ」
「うん」
「恥、かきたく無いよな。試合で」
「かきたくないし、かかせたくない」
誰に、と言えばそれは先輩達に決まっている。無理な願いを聞き入れてくれたけやきに。自分達とレインを受け入れてくれた竜術部の先輩達に、である。
「そうだな」
三日後に初陣を控えているこの日も、いつもの様に意識が闇の中へと溶けていく。
*
五月一日月曜日・夕刻。
結局、二人は本当にこれと言って何もしないまま月曜を迎えてしまった。足の痛みの所為で家の外に出る気には全くならなかったし、頭の中は試合への不安でいっぱいだった。仮に何かをしようと思いついた所で、それを実行に移すのはまず無理な状態だったのである。
そういう意味では、けやきが自分達の身体の事を気にかけて練習を禁止してくれた事に対し、双子は心底感謝していた。使命感を行動原理として頑張っている二人ならば、そういった部長の指示が無ければ何かをきっかけにつらい身体を押して自主練習を始めていた事だって十分に有り得たからだ。
順番に部室横の更衣室――とは名ばかりの使い古された倉庫――で着替えを済ませると、英田兄妹とけやきは他の部員達と共に中庭に集合した。
中庭のコートに居たのは、けやき、石崎、坂、海藤、良明、陽、シキ、ガイ、ショウ、レイン、それから兄妹が名前を知らない男子。名前は知らないが、どこかで見た覚えはある。少し思考を巡らせて、良明は直ぐに思い至った。先日、けやきと直家が勝負をした時に、ジャンプボールを投げていたシキの側に立っていた……様な気がする。
今この瞬間、現在の竜術部の部員全員がそこに集まっていた。
「山野手、忙しい所招集をかけてすまないな」
「いいっすよ、むしろこういう時くらいは俺も混ぜて下さい。さすがに寂しいです」
「ああ、わかった」
けやきに山野手と呼ばれたその見慣れない男子は口ぶりからして快活で、けやきに対する口調と見た目の雰囲気からして恐らくは二年生だと陽は思った。
「みんな、聞いてくれ」
輪を作る様に集った一同が、彼女もまたその輪の一部であるけやきに注目する。
「今日この後、この場所で、旧三年生の先輩方の引退後、初の団体戦が行われる」
二年生以上の部員とレイン以外のドラゴンの表情が、一際引き締まった。
「はっきり言って、勝負という事で言えば今日の試合は負けて当たり前の状況だ」
それは、英田兄妹にとって少しだけ意外な言葉だった。少しだけである。
けやきは、この試合に関して一定の勝算があるものだと心のどこかで思っていた。だからこそ今日の試合を受け入れたのだと兄妹は考えていたのだ。
「だが、忘れないで欲しい。龍球をやらない部員を含め、私達の目的は、望みはなんだ? この部の、存続だ。今日、新生竜術部の初陣の結果がどう転ぼうとも、その事を忘れないでほしい。これからもこれまで通りに自分達のやり方で努力してほしい。今日これから試合に出る者は、これからの一分、一秒、全神経を相手の知識を盗むことに対し注ぎ込め!」
良明と陽はこの時悟った。
(それが――)
(――この試合を受けた、理由……!)
兄妹は、最後の部長による掛け声に関して一度たりともレクチャーされていなかったにも係わらず、ほぼ完璧に息を合わせてのけた。
「大虎イズ!」
『アライブ!!』
同時刻。大虎高校旧校舎2に隣接するコートで行われる練習試合に、観覧者は殆ど確認できなかった。それはそのまま二者間の実力差を示しており、その練習試合の存在を知る誰もが大虎高校の敗北を予見している事を浮き彫りにしていた。
樫屋けやきが類稀なる天才であり、その天才が途方もない努力の先に大会でも通用する実力を得ている事は広く知られていたが、団体戦スポーツという土俵に於いて彼女が引き連れている三名の選手がほぼ龍球に関して素人であるという情報からも、勝敗は明らかと思われていたのだ。
故に身内の圧倒的なまでの敗北を目の当たりにせざるを得ない現場として予想されるそのコート周辺に、わざわざ足を運ぼうとする者など居なかったのである。
相手の学校の名は、県立薄石高校といった。
薄石高校は大虎高校から高速道路を使って一時間半という立地であり、大虎高校周辺の学校と比較しても決して近い位置には無い。
ここで明言しよう。薄石高校は、名実共に龍球の強豪高校である。本来ならば、大虎高校の様な廃部寸前の学校に練習試合を申し込む様な学校ではない。相当に穿った見方をすれば、弱小校に挑発でもしたいのかと言いたくなるほど不釣り合いな対戦カードなのである。
この強豪校が大虎校に興味を示す部分があるとするなら、それは一つ。否、一人と一頭しか有り得なかった。
けやきは、床に足を延ばして座り、つま先をつまむ。
こんなバッタみたいに長い脚をしていて、よくもまぁ苦も無く手がたう物だと石崎は毎回思うのだ。
部室内の一角では、かれこれ小学生からの付き合いになるけやきと石崎が、お互いの声が聞こえる距離に居た。けやきはユニフォーム姿で準備運動を、石崎はいつもの制服姿でノートPCの前に座っている。
長ズボンに半袖シャツ。どちらも白を基調としており、ズボンは厚手の生地でできている。シャツには主張の少ない淡い青色のラインが二本入っていて、胸には被服メーカーの企業ロゴ、背中には”大虎高校”の四文字が黒くプリントしてある。
レインを部に入れてくれと兄妹がけやきに懇願てから間もない日に初めて目にした、竜術部龍球チームのユニフォーム。良明と陽も、それを身に着けていた。
部室内は掃除され、埃っぽさがかなり軽減されていた。建物自体の老朽化した雰囲気は決して隠せてはいないが、学習机の大半を別の部屋に移動させ、長机とパイプ椅子を窓際に持ち込んだ事でいくらかお茶を濁す事には成功している。勿論、天井の大穴には不自然に布が被せてあり、画鋲を使って固定済みだ。
パイプ椅子には竜術部顧問寺川と、薄石高校龍球部の顧問と思われる男性が座っており、そこから少し離れた所で席に着く石崎と坂と海藤が外の様子を伺っている。山野手の姿は既にその場には無かった。
目前にノートPCを開いている石崎は、準備運動に勤しむけやきに思わず顔を向けた。
「え、つまり、それって殆ど寺川の独断じゃん」
「乱暴な言い方をすればそういう事だな」
二人とも、本人には聞こえない程度の小声で話している。
けやきは、石崎に返答しつつ今度は前屈を始める。
「……あんたの権力で強引に辞退できなかったの? この試合」
「寺川先生の考えも、私は解らなくは無いんだ」
「なにそれ、どういう事よ?」
「単純さ、要は経験をっ」
けやきの掌が床にぴったりとつく。
「積ませたい、という事だろう」
「あんな化けモン相手じゃ経験なんて積む前に二人の心が折れちゃうよ! だって薄石の龍球部って確か……」
その先を、石崎は言葉にしきれなかった。
「そこで私の出番、と言いたいのだろう。寺川先生は」
「メンタルのサポートなんて、むしろ先生の仕事でしょ?」
「”むしろ”な、石崎」
「うん?」
「私が解らないのは、うちの寺川先生よりも、相手の意図なんだ」
けやきの言葉の意味を、石崎は一瞬だけ何もない中空を見てからすぐに汲み取った。
相手、とはつまり薄石高校の事。要は、何故この様な廃部寸前の部に練習試合を申し込んだのか、という問いがけやきの中にはあるという事だ。
「いやいや、そりゃ、あんたとガイとの手合わせをして、それこそ経験積みたいんでしょうよ」
今度は屈伸を始めたけやきは、友人の見解を無表情に淡々と否定する。
「買いかぶりだ、石崎。強い相手を求めるのなら、他にチームとしての完成度が高い学校がいくらでもあるはず。ウチなど眼中に無いと考える方が自然だ」
「え、でもじゃあ、なんで……」
「さっき私はそれが”解らない”と言ったがな。もしかしたらそれは、お前が今さっき言いかけた辺りの事に関係があるんじゃないか、と私は睨んでいる」
「え?」
「まぁ、私は私が出来る事をやるさ……」
そのけやきの最後の一言が会話の最後の一文としてまるでハマっていなかった事に石崎は一抹の不安を覚えたが、けやきの姿は既にグラウンドに在り、もはや呼び止めて声をかける距離では無かった。
石崎は、伊達メガネを外してウェーブがかった茶髪をかき上げる。




