誇らしい過去は得てして(5)
ドラゴンの騎乗体験会にスタッフとして参加している三人の生徒。部長山田、能天気川島、二年女子道明寺にとっては、願っても無い申し出であった。
彼等三人にとって意外だったのは、けやきの申し出を寺川が断らなかった事だ。寺川は”楽しいのがいちばん”とでも言いたげなニコニコ顔で、「いいよいいよ、弁当くらいは御馳走するからよろしく頼んだ」と言ってけやきの申し出を快諾したのである。
寺川の返答に”弁当くらいは御馳走する”という文言が含まれていた事により、けやきの提案に対し応答しかねていた石崎はその時点で即便乗した。
専門知識があるけやきはガイ、ショウ、シキの三頭に騎乗する参加者への説明役兼竜具チェック係。人と話す事が得意な石崎は、受付対応と参加者の列の整理を手伝った。二人とも小学六年生とは思えない手際の良さを見せ、彼女等の働きぶりは山田が頼もしさと同時に妙な怖ささえ感じる程だった。
道明寺が懸念した通り、体育館のステージプログラムが終わる時刻である午前十一時半現在、参加者の数はピークに達していた。部室内だけで五十人。外の行列まで含めると七十人程の人間が、ドラゴンの騎乗体験会の順番待ちをしている。
竜術部員達はこの規模の人々が集まる事を前日までに想定はしていたのだが、それはかなり希望的な予想を伴う意味での想定だった。
まさか、本当に、こんな数の人が来るなんて。それが、山田の現状に対する感想の大部分だった。
『覚悟しとけよ、絶対人来るから』
山田は、ドラゴンにも人間にも予めそう伝えておいたにも拘わらず、いざその現場に立ってみると軽く申し訳なささえ抱いていた。
とはいえ、部員達の表情を見たところ、山田には解るのだ。
川島も道明寺も、ショウもシキもガイも、この予想外の事態を楽しんでいる。テレビゲームで遊んでいて、予想外の窮地に陥りつつも四苦八苦してそれを乗り切ろうとする時の様な、あまりの大変さに笑顔さえ零れて楽しくなる様な、そんなカオをしている。
一秒たりとも休む隙が生じない山田の脳裏には、そんな表現が浮かんでいた。
一方、中庭で道明寺の手伝いをしているけやきは、幸福の絶頂にあった。
(あのガイさんと一緒に文化祭で働いている!)
頭の中で何度も何度も何度も何度も言葉となって繰り返すその事実が、けやきには未だに信じられなかった。手を伸ばせば触れる所にあのガイが居る。間違いなく、居るというのに。
道明寺の助けで彼の背に乗せてもらった少年がまた一人、空へと飛び立った。
ほんの十メートル弱の飛翔によって自分からガイが離れていく事さえ切なく感じるが、けやきは自分が任された仕事を疎かにしない為に無理矢理大空へとついていきそうになる意識を連れ戻す。
ガイもまた自分の仕事をこなし、働いているのである。けやきにとって今のガイと自分は、いわば”離れた所で共に仕事に立ち向かう同志”なのであって、今、目の前に任されている仕事をこなす事こそが、すなわち、彼と同じステージで彼と共に共演するという事なのである。
けやきは、十二年間生きてきた自分の器を試すかの様に、その数時間をがむしゃらに働いて過ごした。
彼女にとって、この二年間はそれ程までに長い二年間だった。
絶え間なく部室に入ってくる参加者を、石崎は入口に設けられた受付で案内していた。
座って参加者をカウントしつつ、「あちらの列にお並びください」と手で示して案内するという、基本的には簡単な仕事だった。ただし、特に人が連続で入ってくる瞬間などは席を立って一組一組を列まで連れて行ったり、体験会の事について案内を求められたら合間合間で川島に確認した情報を元に返答しなければならなかった。
川島は川島で能天気キャラを保ちつつもせっせと中庭への誘導と注意事項の伝達を行っており、意外と働く人なんだなぁと石崎は感心した。
石崎の傍らに置かれた腕時計が、今、十一時四十五分きっかりを指す。
「ようこそおいで頂きました、あちらの列に……」
その来訪者の随分と整った身なりに、石崎は思わず声を止めた。
スーツ姿にエンジと黒のストライプ柄のネクタイ。下は勿論スラックスで、腕には緑の腕章をはめている。
男性が一名と女性が一名。どちらも同じ格好をしているが、女性の方はその胸にクリップボードを抱いていた。
「お忙しいところごめんね、責任者の人って今いらっしゃる?」
年齢で言えば四十歳になるかどうかというくらいの女性は、私服で受付を担当する女子児童ににっこりと尋ねた。
「え、あーと、あちらにいらっしゃいます」
言ってから、そこは”おります”が正しかったのだとちゃんと気づいた小学六年生石崎は、二人組の淡々とした足取りに一抹の不安を覚えた。
列を横切り、中庭まで歩を進めた二人組は、その一角で体験会を見守る初老の男性へと迷わず突き進んだ。
「すみません、こちらの責任者様でいらっしゃいますでしょうか?」
やや早口で腰を低くして尋ねた女性に対し、寺川は「はいそうですが」と答えた。
「わたくし、GE大虎支部の梶口と申します」
直ぐ傍らにつける三十代半ばの男性が、
「斉藤です」
と続いた。
じーいー。それがこの場で何を意味する二文字なのかを寺川は瞬時に悟る。
そして、「こちらでは何ですので、場所を用意しましょう」と言うと、一秒も無い間をおいて、梶口は先程よりもさらに早口に、
「いえここで結構です」
と、要領の良い善人が、狡猾に逃げ道を作る悪人を阻止する時の様な口調でそう切り返した。
ガルーダイーター大虎支部・現場班担当梶口は、寺川が何を言う間も無く尋問を始めた。中庭の隅の方とはいえ、参加者の何人かは何事かとそちらを注視し始める。
参加者への迷惑を第一に考えての提案が却下された寺川は、事を荒立てない様にその場で梶口に応じる事に決めた。
「すみませんね、いいですか? こちらの竜の皆さんは今日は朝何時にこちらへ?」
「一頭を除いて住み込みですので、朝から」
「ではこの会場で労働を始めたのは?」
「最終的な練習を始めたのが、九時ごろですね」
「そうですか、ではこうして皆さんを背に乗せる業務を始めたのはいつからですか?」
「祭の始めからですね」
「それはいつですか?」
「十時、ですね」
「今あなた時間を誤魔化そうとしましたね?」
「いえ、そんな意図は特に――」
「いいですか、率直に言います。いいですかこれ法律で”人間ないし荷を運ぶ業務を行う竜は、その竜の同意の如何に関わらず、一頭当たり一時間500kgを限度として設ける事が望ましい”と定めてるんですね、あなたご存じです?」
「ええ、この部活動の顧問ですので、一通りその辺りの事は」
「今すぐ会場を閉鎖し業務に関わる人員を撤収させてください。さもなくば、私達もあまりこういう事したくは無いんですが、役所に報告する事になりますね」
畳みかける梶口と、彼女に気圧されながらも淡々と質問に答える寺川。
会場に押し掛けた参加者達の半分以上が、二人に注目している。
部員のうち中庭に居る山田と道明寺は、梶口のあまりの迫力に反論は愚かフォローも出来ずに居る。彼等はあまつさえ目の前の参加者の対応に戻ったが、この生徒達を責めてはいけない。ここで部員がフォローに入ったところで、寺川の竜術部顧問としての立場が無くなる。
今は寺川を信じて耳をそばだてるしか無いと、自分に言い聞かせる二人だった。
だがその時、彼等とは別に我慢の限界に至った人間が一人、梶口の背後に近づいていた。
「すみません」
あどけなさの無い異様な子供の声に、梶口は半ば反射的に振り返った。
振り返った彼女の目の前で凄まじい殺気を放つ人物。十月二日でもうすぐ十二歳になる小学六年生、樫屋けやきだった。
「あら、あなたも今日はここでお手伝い?」
「はい。申し訳ありませんが、他の御来場戴いている方々に迷惑となりますのでお引き取り願えますでしょうか?」
「ごめんねぇ、ちょっと今先生とお話してて――」
先程から意図的に噛み合わない回答を繰り返す梶口に、けやき少女の不快感はこの瞬間完全にキャパシティを超過した。
「ここの竜達は自分の意思でこの学園祭に参加し続けています。この体験会に参加すらしていない貴方にとやかく言われる道理は無いかと思いますが」
ここでけやきが論理よりも感情論寄りの言葉を吐いたのは、梶口に対する彼女の優しさであり、最後通告であった。
その事を、部室の窓から身を乗り出して成り行きを見守っていた石崎は直感的に悟る。が、肝心の梶口の頭ではそれは到底理解できる心遣いでは無かったのだ。ちなみに、石崎が十一歳であるのに対し、梶口は四十三歳である。
「お嬢ちゃんにはまだちょっと難しいかもしれないけどね、竜――」
けやきはもう、こいつが’竜’という言葉を口にする事さえ許せなかった。
「あなた達は行政機関ではありません。こちらの学生による行事を妨害する権利が全く無い事をどうか御理解ください。またそもそも、貴方が先程仰った法的根拠につきましてはあくまで行政による指針であり、何かを禁止する条文でもなければまして罰則は全くない文言です。それをご存じであるからこそ、警察ではなく役所へとお申し出になるとの恫喝をなさったのではないですか? 尚、こちらの一文が我が国の法律に加えられた際、”竜の同意の如何に関わることなく”と定義されたのは、一部悪質な企業による竜の酷使の際に彼等竜に対し無理矢理に同意書を書かせた事に由来するものであり、学園祭という営利を主目的としない、各々が自発的に取り組む事を目的としたイベントに於いてはその批判の論拠として挙げるにはいささかナンセンスと言わざるを得ません」
「そ……それは、竜の同意を得られたかどうかの確認が取りようが無いからであって……」
しどろもどろになっている梶口は、それでもぼそぼそとけやきに聞こえない様な声で何か言っている。
と、その時だった。
「いいぞ嬢ちゃん! その通りだ!!」
声からして五、六十代と思しき男性が高らかに叫ぶと、周りから拍手が巻き起こった。拍手は当初決して多いわけではなかったが、その疎らさがかえって心からの同意のリアリティを色濃く示しており、梶口達に対する攻撃力をむしろ増幅させていた。
そして、彼女等が狼狽えて参加者に視線を向けた後になり、まばらだった拍手はそれが呼び水となって大きくなる。
「梶口さん、もう……」
先程斉藤と名乗った男はそう言って梶口を促すが、彼女は尚もこう言い放つ。
「今、列に並んでいる方達までで閉鎖してください! でなければ、役所に連絡します!!」
直後に「おーう好きにしろ空気読めねぇババァが」だとか、「子供達の催しを邪魔するのはいくらなんでも野暮だろう」だとか、やたらと的を射ている野次が飛び交う中、ガルーダイーターの二人はその場を去って行った。
それら野次の数々は、学校関係者ではない完全な部外者だからこそ言える、暖かい暴言だった。
けやきが我に返ったのは、ガルーダイーターの二人が去った直後の事である。
耳を真っ赤にしてガイをチラ見している彼女の様を、ニヤニヤニヤニヤしながら見つめる、受付の仕事を放棄した石崎。
けやきは、ガイの表情が見えない。見られない。
(恐らく、引かれた。言っている事の正当性だとか、支持してくれた人が居るだとか、そんな事は関係ない。きっと、あんな風にまくしたてた小学六年生の女子を見て、閉口しているにちがいない)
少女の中でどす黒い感情が渦巻く中、さらに悪い報せが彼女の耳に届いた。
「皆さん、本日はありがとうございます。大変遺憾ながら、お聞きいただいた通り今列に並んで戴いている方で、こちらの体験会は終了しようと思います。本日のご来場、誠にありがとうございました」
寺川の声は、思いの外堂々としていた。
「先生! なにもあんな奴等のいう事聞く事ないでしょう!! 小学生相手にあれだけ正論まくしたてられて、昼過ぎからまたチェックしにくるワケないですよ、折角沢山お客さん来てくれてるのに悪いじゃないですか!!」
能天気川島は、寺川に対して怒りでもぶつける様な口調でそう言った。
「万一の事を考えたら、ここで止めるのが最善だよ。川島君のいう事も解るけどね」
大人の判断、というやつなのだろう。面と向かって言われた川島と、それを見ていたけやきはそう思った。
今、並んでいる人まで。
つまり、自分は対象外なのだとけやきは直ぐに気づく。恐らく最初に自分がガイに乗りそびれた事など、もう誰も覚えていないだろうし、そうでなかったとしても自分はもうこのイベント側の人間であり、客だという意識が薄いだろう。
早々にガイの背に乗せてもらう事を諦めて、けやきは”せめて”という気持ちで考えた。
(せめて、ひと触れだけでも良い。ガイさんに触れて帰りたい)
けやきは頭の中でそれを言葉にすると、何故だか目頭が熱くなった。
(引かれただろう、嫌われたかもしれない。だが、せめて……)
その先に、この恋愛という名の路線の終着駅がある事は認めたくない。しかし、このまま何の結末も無いままに線路が途切れる事だけは、どうしても嫌だった。
こんな状態でさえ、己に課せられた仕事をやり抜いたけやきの精神は、強靭としか言いようがないだろう。
天才樫屋けやきの真骨頂は、苦境においても完全に心が折れる事が無い点なのかもしれない。
とはいえ、最後の一人はそれはそれは恨めしかった。
その最後の一人の参加者は、恐らく一か月もこの日の思い出が頭に残らない様な、ぱっと見性別も定かでない幼い子供だった。
廊下に並んでいて騒ぎの一部始終を見ていないらしかった幼児の両親は、にこやかに娘に話しかけてやりながら、ドラゴンの上で半泣きになるその娘を高そうなカメラで撮影していた。
けやきは、金持ちの家で働く奴隷の気分で彼らに応対したのだが、その仕事はこれ以上ないくらいに丁寧であった。
*
「けやき、あ、あのさ……」
弁当をつつく石崎は、何と言おうか決めないままけやきに話しかけ、言わないことは無い、やはり言葉に詰まった。
(”ああいう事だってあるよ!”……違う。流石にあんなの一生のうちに一回あるか無いかの体験だと思う)
却下。
(”なんだよほんっとあの空気読めない連中!”……違う。思い出させてどうする)
却下。
(”私の紅シャケあげるよ!”……違う。多分泣いてしまう)
論外。
否、言う相手や、言う相手との関係性や、その場の状況によってはこの石崎が論外だと断じた対応がアリの場合もある事をここに捕捉しておく。が、石崎には、今のけやきにはあらゆる言葉をかけるべきでは無いと思えてならなかったのである。
悲しげではない。無表情で弁当を食べているのは、間違いなくけやきの強がりだ。
石崎は思う。
(今優しくされたら、自分だったら泣く。百パーセント、むせび泣く)
「石崎」
「あ、う、うん?」
相手のペースに合わせてしまう石崎なんて、そう滅多にお目にかかれるものではない。
「今日は、付き合ってくれてありがとう」
(うわぁもう見てらんないよ! やっぱ昼からも体験会続けない? 私カラオケドタキャンするからさぁ、ねえ!!)
「う、うん……」
石崎は、”お疲れ様”という言葉は言わないでおいた。理由は勿論、けやきがむせび泣く姿を見たくないからである。
もう、石崎にはどうしようも無かった。周囲に恋愛マスターを自称するのが最近のマイブームである石崎にも、もうさっぱり打つ手が見当たらなかった。
黙々と弁当を食う石崎と、けやきと、竜術部関係者達。
竜術部関係者にとっては、単にイベントが潰されたが故の重苦しい空気であった。
ショウとシキは部室の中の生徒達から離れ、『楽しかったのにねー』『たくさんの人間に関われるのは貴重な体験だ。心地の良い疲れだったんだが』と話しながら、小屋の中で寄り添うように寝そべっている。
尚、ガイは――
「ん」
正確に言えばそれは’ん’の発音ではなく、口を閉じた状態で喉の奥から口に向かって僅かな息が漏れる音だった。
もう、一文字を発音するのも気だるいけやきは、肩に何かが振れるのを感じた。
それは、けやきが感じた事の無い感触だった。一旦溶けてぐにゃぐにゃな形になったプラスチックを押し当てられた様な、そんな感触。
(ああ、気だるい)
けやき疲れ切った精神が、確実に体調に影響しかけていた。
それでも周りに気を使わせてはならないという思いから、彼女の身体は勝手に触れた感触に対して対応を始める。
反射的にけやきが振り向いたそこには、ガイがいた。
「ふぇ、え、あ……ッ?!」
一瞬ガイと交差した視線を、ガイの腕、足へと逃がしながら、けやきは柄にも無い可愛らしい声を出した。
それは、彼女が生まれて初めて竜に触れた瞬間だった。
今朝、彼女がベッドから起きた段階ではもっとこう、自分から手を差し伸べて、ガイの肩の辺りをゆっくりと撫でさせてもらう予定だった。
「ん、ガイどうしたー?」
と、山田。
「グァ」
解釈を、聞いた相手に任せる適当な返事をガイはした。
「な、なん……でしょう、か?」
けやきはどもりながら言った。
「グァ!」
強引にけやきをお姫様だっこして、中庭へとのっしのっしと運んでいくガイ。
石崎が差し伸べた手に、けやきは持ったままだった割り箸を預けた。
部員達が「え……」と声に出す。”そう言えばまだガイに乗ってなかったね”ではなく、”え……”と言ったのは、ガイとけやきが一切の竜具を身に着けていなかったからである。
竜具は、装備する事で安定した飛行を可能にする事を目的のひとつとしているわけで、それを装備せずにドラゴンに乗るには、極めて高度な知識と技術を要求される。
だが、ガイには確信があった。
(こいつならできる)
ガイがその様に確信するという事は、つまりけやきが知識を持っている人間だという認識がガイにあったという事である。そして、それをガイが知っていたという事は、けやきの働きぶりをそれまでしっかりと見ていた証に他ならなかった。
ガイの背に、けやきが跨った。
けやきは無我夢中だった。本で読んだ情報の通りに身体を動かしながら、その動作と実際に体感した感覚がフィットする瞬間を正解だと位置づけ、ガイの羽ばたきに合わせて自分の姿勢を調整する。
優しく羽ばたき、ガイは今、ゆっくりと飛翔した。
「おいおいマジかよ」
「俺でも無理だよあんなの」
「え、あの子マジで何者?」
山田、川島、道明寺が口々に言う中、寺川だけがにっこりとけやきとガイを見上げていた。いや、本当はにっこりと見上げている場合ではない。ドラゴンに竜具無しで部外者が乗っている所などを他の職員に見つかったら、それこそ責任問題だ。
けやきの身体が、無我夢中の魔法から徐々に解けていく。けやきはガイの首筋に手を回し、その顔を覗き込んだ。
その瞬間、漸くけやきの笑顔は恥ずかしさに打ち勝った。笑顔。その時のけやきは、彼女自身、自分でも信じられない程の笑みを浮かべていた。
どんどん下に流れていく景色。
視界の彼方に見えてくる地平線。
そろそろ下降をしないと怒られる高さだが、そんなの知った事じゃあない。
二年間に亘って実際に夢にまで見たガイとの、二人だけの時間を、少女は今この瞬間ついに手に入れたのである。誰にも邪魔などさせてなるものか。
願掛けで丸二年間延ばした髪が、靡いて顔の前に流れてきた。
* * *
後にも先にも、高校三年生になった現在まで、けやきがあの時程笑った事は一度として無い。
始めての試合で勝利した日でもああはならなかったし、ガイへの告白が受け入れられた日でさえ、あそこまででは無かったと思う。
受話器を置いたけやきは、ふん、と一息吐いて少しだけ微笑んだ。
その後、けやきは結局大虎高竜術部とは懇意になり、見学という名目で度々ガイに会いに行った。
大虎高校に興味がある事を中学生の受験シーズンギリギリに家族に告げた事。
ガイに胸の内を告白した時の事。
部長になった時の事。
様々な想い出が、電話台の傍らに立つけやきの脳裏に浮かんできた。
(まったく、あの大虎祭でガルーダイーターの梶口にまくしたてたのは、今となっては口が裂けても周りに言えない恥ずかしい思い出だ)
けやきは、当時の自分の姿を無意識に想像し、それを振り払う様にココアパウダーの袋が入っている冷蔵庫を開いた。茶色いパッケージが視界に入る。買っておいた牛乳の賞味期限はいつだっただろうかと思った。
駄目だった。
無理矢理に振り払おうとしても、けやきの脳裏にはあの日の、ガイが初めて背に乗せてくれた日の映像が湧き水の様に絶え間なくリピートしている。
けやきのガイへの愛情は、やがてそれを絆と呼ばれる双方向の関係性へと変容させ、今なお煮え滾っている。
けやきはガイが悲しい思いをしない未来の為ならば、何だってするつもりでいる。




