慙悔と期待と(3)
そんなわけで、陽は休日を利用して部屋の整頓中なのである。
彼女にとって嬉しかったのは、朝十時を過ぎた辺りにレインが尋ねてきてくれた事。何分かの間家の前で物音がするなと思っていたのだが、窓から下を覗き込んで漸く陽は彼女の存在に気がついた。どうしてレインが呼び鈴を押さなかったのか気にはなったが、聞くタイミングを逃して今に至る。
レインは、出迎えた由にすぐさま「てつだいします」と書かれた紙きれを差し出した。
文面から”少しずつでも英田家に恩返しをしたい”というニュアンスを感じ取った由は、それならと今朝からドタドタと部屋の整頓をしている陽の部屋に彼女を通したのである。
驚いた拍子にバランスを崩し、陽のベッドへと倒れこんでいたレインは羽根をぱたぱたさせて起き上がると、その手に持っていた参考書の束を陽に差し出した。
「ありがとー」と言ってそれを受け取った陽は、ずしりとしたその重さをしみじみと噛みしめる。普段ならこれくらいどうという事は無いが、筋肉痛の所為で今日は両足と右の二の腕が痛いのである。
手早く本棚へと参考書を収納し、プリントを教科毎にまとめにかかる陽。
「あのさー」
何の切っ掛けも無く、彼女は突然語りだした。
「今日さ、アキのやつ藤君と遊びに行くんだって。ていうか、今行ってるんだけどさ」
「グァ」
レインは『それで?』と言った。陽にもイントネーションでその鳴き声の意味が解った。
「私もさ……あ、藤君とアキと私ってね、結構長い、もう二、三年くらいの友達なんだけどね。それで藤君っていうのが先にアキと友達になってはいたんだけど、私ももうそこそこ仲良くてね。兎に角三人は友達なのですよ」
「グァ」
レインは『うんうん』と。
「私も誘ってくれてもいいと思わない?! 普通にひどいよね?」
「ぐーあ、ぐあぐあ。グァっ」
レインは何か意味ありげな唸り声をあげるが、さすがに陽はうまく理解できないでいる。
だが、その唸り声は陽の言葉への単純な同意ではなく、何かしらの藤が陽を誘わなかった理由を教えて励ましてくれようとしている様にも聞こえる。
「私さー、藤君に嫌われる様な事したのかなーって。アキに聞いたらアキが板挟みみたいになっちゃうじゃん? だから確認する事も出来ないし」
「グァー……」
「まぁでも、もし私が一緒に行ってたら、レインが私もアキも居ない私ん家でお手伝いする事になってたもんね。うん、よかったよかった結果オーライだよ」
「グァーグァイグァグァ」
陽が思うに、最後のはたぶん『オーライだね』だと思う。
プリントの整理を済ませると、陽はなんとなく予定に無い所の片付けまでしたくなってきた。さて、何処を片付けよう。
最も埃っぽく散らかっている場所は、多分ベッドの下か机の裏だと思う。
一瞬考えて、机の裏なら身体を突っ込むだけですぐやれそうなのでそっちを選んだ。
陽はのっそのっそと机まで近づくと、椅子を引いて出来た空間の中へと身体を移動させた。
机の裏は暗かったが、外からの光で何とか様子を窺えそうではあった。
さらに幸いな事に、机と壁の間はいくらか隙間が開けておいたおかげで風通しが良い所為か、意外と埃もゴミも少ない様子。二つばかりの折り畳まれたプリントと奥の方にある光るなにか以外は、これと言って見当たらなかった。
拾ってきた歴史のプリント二枚を明るみで確認して、「あ、ここ完全に覚えてないや」と呟く陽。
再び身体を机の下に入れ、光る何かの方へと手を伸ばす。
「何ですかー? これは」
手先に当たる感触。金属だろうか、と陽は思った。
尖った先端に、小さいチェーン状の物体。こんな物買った覚えがない。何だろう?
何とか手に取り、引っ張り出して確認する。
「うわー! マジでか、懐かしぃー」
「グァ?」
「えとね、……」
ゴツン。いい音をさせて頭を机の引き出しの裏にぶつける陽。
「……」
特にリアクションの言葉は口にせず、無言で外へと出てきて、
「えとね、」
と言い直して続ける。
「これアレなのよ、修学旅行のお土産」
声も上げずに疑問の表情を浮かべるレイン。
「学校で、卒業までに一度学年みんなで旅行に行くんだよ、ほんとはね」
陽の発言の最後についてきた一言でレインはもしや、と思った。
「私その前の日にさぁ、すっごい風邪ひいちゃってさー。行けなかったんだよ。なんていうの? ドクターストップっていうかマザーストップ?」
陽は五重塔を模った金属製のキーホルダーを、懐かしそうに顔の前へと摘み上げた。
「これ、アキが気を利かせて買ってきてくれたんだけどね、当時小学生の私はまぁそれはそれはお怒りになられまして」
当時の自分の兄への発言が、やたらと鮮明に口調まで再現して脳内で再生される。
『どうしてこういう事するかなぁ! 私が修学旅行楽しみにしてたの知ってたよね!? ねえ!!』
陽は当時の事を思い出すと、今でも後悔と自責の念に悶えそうになる。
確かに、こんな形に残る物を買って寄越した良明も随分と配慮に欠けていたのだが、彼だって当時小学五年生である。せめて食べ物にでもしておけば良かったのだが、そこまで気が回らなかったのだった。
「もうね、その三日後くらいに風邪が完治したとたん、お兄ちゃんに平謝りですよ。自分が悪いのを許してほしいって言うのもあったけど、それ以上にアキが傷ついたんじゃないかっていうのがすっごい不安でさー。……ていうのが、これ、アキが渡されてたお土産代とは別に、自分のお小遣いで買ったらしくて……」
「グァー……」
「あ、ごめんね、会って日も浅いのにこんな重い話して」
「|いーよ(グァ―グァ)|いーよ(グァ―グァ)」
「まぁ、あと十年もすれば若かりし日のちょっとした思い出になるとは思うけど」
陽はキーホルダーをそっと鍵付きの引き出しに入れた。
レインは、この時なにかとても思慮を重ねた表情をして陽を見た。
「レイン?」
「…………グ……」
レインは、首を横に振る
『なんでもない』
陽は視線を落とすと、不思議そうにレインの顔を覗き込んだ。
「何か訊きたい事あるの?」
『…………』
「あ、紙とペン持ってくるね。平仮名は書けるもんね、レイン」
「ぐぁ!」
レインは、陽の手を両手でわしっと掴んで引き留めた。
『ありがとう、でも……やっぱり、いい』
レインが首を横に振った事で、陽は彼女の意思を把握した。
『今日は、お手伝いする日だから』
レインは、何とか片づけた参考書やら服やらを見回して、陽に感謝の眼を向けた。
そんな彼女に対し、陽は自分から距離を取りたくは無かった。
彼女の直観が、訴えかけていたのだ。
(出会った時の事を、言おうとしてくれた? ……でも、やっぱり思いとどまったんだ。言ったら、何かが起こる。やっぱりそれくらいに言うに言えない事情をこの子は抱えてるんだ)
だからせめて、陽はあえて明るく振舞おうとした。嘘無く、今目の前にある楽しい事へと目を向ければ、せめて今だけはレインの苦悩が晴れる気がしたから。
「そうだ、ゲームやって行かない? 先週二人で買ったヤツがアキの部屋にあるからさ!」
「ぐぁ!」
レインは、陽の気遣いに感謝しながら羽を広げて喜んだ。
陽はいつもの壁の穴から良明の部屋へと入っていった。
レインは”えっ”という顔をしたが、どうやら自分を笑わせようとしているわけではないらしい事を、陽の動きから機微として察知した。
一階から美味そうなチャーハンの匂いがしている。
一頭になった部屋の中で、レインはメロンの様に淡い緑色をした壁掛け時計を見た。そろそろ正午である。
*
「おかえり」
陽は、自室の前の廊下にて兄に向かってそう言った。
ぶすっとワザとらしく頬を膨らませ、努めてふてくされた顔をしている。
「まぁまぁ、一カ月前から二人で約束してたアレなんだよ。別に陽だけのけ者にしようとかそういうんじゃないから」
言いながら、良明は薄桃色で芙蓉の模様が入ったビニル袋から、何やら取り出して妹に差し出した。
陽の目が一瞬きらりと輝き、その後直ぐに冷静な色を取り戻す。
兄から差し出されたのは、三個入りのシュークリームのパックだった。
陽はそれが一体なんなのか、瞬時に理解した。
そう、彼女が今眼前にしているのは、ただのシュークリームではない。これは、駅前の洋菓子店【フローラ】で毎月第三土曜日の十三時から限定三十パックだけ販売される、知る人ぞ知る”あの”シュークリームである。二カ月くらい前に家族でタイガーモールへ買い出しに行った際、陽が店先に張られていた張り紙を指差した事で英田家の人々は誰もがこのシュークリームの存在を知っている。
陽は、まるで国王に聖剣を賜る勇者の様に両手で厳かにそれを受け取ると、万に一つでも良明に伝わらない事が無い様に、あからさまなまでにわざとらしくぶすっとしてこう言った。
「私がさぁ、こんな……」
手元ではシュークリームのパックを開けている。
「シュークリーム三つでさぁ……」
手は止めずに続ける。
「懐柔されふふぉふぇもんぐんぐ」
良明は、目を見開く事で味を表現しようとしている陽に対し、あえて問いかけてみる。
「美味い?」
「ありがとう!」
問いに対して礼で以て回答とした陽は、もぐもぐと一つ目をあっという間に平らげた。
目を輝かせて、何故か良明を凝視する事一秒。
「…………」
「…………」
早口で兄に尋ねる。
「一個食べる?」
「いい」
「マジで!? いただきまーす!」
良明が「夕飯まであんまり時間無いよ」とかなんとか言っているが、陽の耳にはまるで届いていない様子である。
英田兄妹は、たまにこういうコントモドキをする。




