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大虎高龍球部のカナタ  作者: 紫空一
1.兄妹と龍球
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雲の向こうに在るのは(2)

 傘を放り投げて走り出した時に買い物袋も放り投げていたのは、英田兄妹にとって図らずも幸運を招く結果となった。

 行きつけのスーパー・マルゾノで買った卵をいざ家に帰って確認してみれと、無残にも十個中七個が割れており、かくして今夜の夕飯がすき焼に決定したからである。


 この双子、食べ物の好みはやはりこれも一致しているのだが、どうにもこいつらのシンクロニシティは考え方や物の好みに留まらない。

 その場の雰囲気や表情を見て、大概の場合はお互いの考えている事のアウトラインを把握するという何とも恐ろしい特殊能力を持つのである。

 声を揃えてすき焼きを所望した双子を見て専業主婦の母は愛おしそうに了承したのだが、これは買い物袋を母に差し出した時に咄嗟に意思を疎通させた兄妹の作戦勝ちであった。尤も場合が場合だっただけに、卵を割ってしまった事に関して彼らを叱るつもりは母には全く無かったのも事実である。


「あーがったよー」

 まだ十七時手前の時刻にも拘わらず寝巻き姿の陽は、冷蔵庫前で湯上りの飲み物を漁りながら、酔っ払いの様な口調で兄にそう言った。

 二人してびしょ濡れで帰ってきてからと言うもの、冷え切った身体を震わせてずっと入浴の順番を待っていた良明は、「やっとかよ」だとか「長いよ」だとかぼやきながら風呂場へと急いだ。


 畳張りの居間に年中置いてある台には、どこの誰のものとも知れない財布と、恐らくその財布の持ち主が購入したであろう食材が入ったビニル袋が鎮座していた。

 どこの誰(・・・・)とも知れない(・・・・・)とは言っても、そのどこの誰とも知れない女性の顔を、湯上りの陽は知っていた。

 それらの荷の持ち主からの連絡は、兄妹らが家に到着して早々に来た。

 当初は買い物袋の中から聞こえてくる着信音にあたふたしていた二人だが、その携帯電話のディスプレイに映ったのが誰の名前でも無く、単なる電話番号であった為に恐る恐る通話ボタンを押すに到った。案の定、電話をかけてきたのは持ち主である樫屋けやきであり、病院の公衆電話からかけているのだそうだった。

 通話の内容は”一段落したら取りに来るのでそれまで預かっていて欲しい”との連絡で、一緒に入っていた食材はその礼に譲ると言う。英田兄妹が暢気に風呂に入ったり、すき焼に心躍らせているのは勿論そのやりとりの中で藤の命に別状が無いと告げられたからである。


 陽はコーヒー牛乳片手に畳の上に足を延ばしながら、先程の光景を回想する。

 嵐の大空を舞うドラゴン――口語として広く竜とも呼ばれる生き物――。その光景はこの国において、随分と妙な眺めではあった。


 今日において、ドラゴンが居る風景自体はなんら珍しい眺めではない。日常である。

 国内の人々がドラゴンと呼ばれる種に始めて遭遇したのは、公式の記録では二百余年前の外来船の来航時の事である。それ以来、ドラゴンという存在は時間をかけて社会に溶け込み、今現在も人間と共に生きている。

 だから、ドラゴンを目の当たりにした事自体は陽にとって何の不思議でもなかった。


 彼女が妙だと思うのは、その状況である。

 ドラゴンに乗って街中を飛び回る際には、専用の”竜具”と呼ばれる道具を装備し、搭乗者もプロテクターに類する安全具を身につける事が法律で定められている。まして、自分とさほど年齢も離れていない――陽が見る限り大学生程の――一般人と思しき人間があのような窮地を救ってくれたという、不可解極まりないシチュエーションである。

 彼女が何者で、あのドラゴンが何者で、どういう経緯であの状況に到ったのか。今日起こった事の全容を知るには、それらの説明が欲しいところであった。

 また、これは妙というほどではない事柄なのだが、昨今ではとある事情もあって、人がドラゴンに乗るという事自体があまり目にする光景では無くなっていた。その事実もまた、いたずらに陽の好奇心を掻き立てるのだ。


 このような悪天候の日に竜具も装備せずに駆けつけたとういう事は、少なくともただの通りすがりではないし、相応のスキルを持った人物である筈だ。

 陽は首丈ほどまで伸びる髪をわしゃわしゃと拭きながら、片手でドライヤーのプラグをコンセントに挿した。


(来週の頭には高校生活一年目が始まろうかっていうタイミングで、まったくなんてスペクタクルだろう)

 良明は湯船に浸かりながら、物思いにふける。

 思い返してみれば、先日中学校を卒業して以来、随分とのんびりとした日々を送ってしまったものである。これと言って高校の勉強の予習をしていたわけでもなく、どこかに行って遊んだのかと言えば卒業式の日に一度友人とカラオケに行った程度。

 春休み中だらだらと日々を過ごし、特筆する程の出来事は何も起こらないまま親の家事手伝いをしては妹とゲームをする毎日が続いていた。

 あと三年もすれば社会人か、それか大学生。

 子供らしく遊べるのは高校生までだ、と正月の時に叔父が言っていたのを思い出し、良明は少し怖くなった。もしかして、”高校生未満の時期最後の長期休み”の間にしておくべき事が、何かしらあったのではないか。そんな根拠の無い不安がさざ波の様に静かに押し寄せた。


 これまでの事もそうだが、これからの事を考えても不安いっぱいである。

 これからの三年間が自分にとってどんな生活になるのか、中学三年間の文化部での経験は役に立つのか、勉強はついていけるのか。

「何より、楽しければいいけどな。学校……」

 心の声が、湯船の淵に寄りかかって頬杖をつく口から漏れ出していた。

 せめて。せめて、高校生未満最後のスペクタクルに関しては、死者が出る事も無かった事だし、面白おかしく楽しみたい物だ。などと、取り留めの無い思考が沸いては消え、消えては沸いた。


「あ、陽、着替えて着替えて。例のお客さん上がってってもらうから」

 陽の聞きなれた声が急かし立てる。

 台所からカセットコンロを運ぶ母の言葉に、陽はドライヤのプラグを抜いて無邪気に応えた。

「解ったー」


*


 モデルの様に高い身長に、その背丈程もある細く束ねられた後ろ髪。おまけに、切れ目が特徴的で鼻筋はすっとしていてやや面長の美形顔。

 陽が、”大学生程の年齢”だと感じたのも無理は無かった。

 大学生の様な女性・樫屋けやきは再三誘いを断りつつも、最終的には英田家の人々の乾いた粘着テープの様な頑固さに根負けし、この家のすき焼を共に囲んでいた。


 もう随分と嗅いでいなかった匂い。自分以外の者が作る家庭料理の暖かい匂いは、否応無しにけやきの食欲をそそった。

 こうして何人もの相手と台を囲んでの食事など、友人が多い方ではないけやきにとっては貴重な癒しとも言えた。平屋で瓦張りの一軒家の畳の上というのもなんだかとても暖かい。

 ガラス戸の外には縁側、壁には素人目にも高価そうな花鳥の掛け軸。テレビでは、軽快なBGMと共に夕方のニュースが流れている。どうやら普段の英田家の食事の場よりも音量を落としてあるらしい事が雰囲気で伝わってきた。


 「申し訳ありません。初対面でこの様な――」

 相も変わらず冷静で凛とした声で、けやきは改めて謝辞を述べようとした。

 「いーえいえ、樫屋さんが手を貸してくれなかったらウチのバカ兄妹だって危うく川に飛び込んでた所ですから」

 英田兄妹は母親の言葉に即座に反論する。

「だから最後は民家に駆け込んで助けを求めようとしてたんだってば!」

「だから最後は民家に駆け込んで助けを求めようとしてたんだってば!」

 声を合わせて。

 このシンクロを初めて目の当たりにした人間のうちその約半数は笑いを禁じ得ないのだが、樫屋けやきの場合はぴくりともせずに冷静に話を続けた。

「先程、陽さんには連絡しましたが件の子は無事だそうで、明日にも退院出来るそうです」


 先程、という言葉で陽と良明ははたと思い出す。

 そうだ。この樫屋けやきという人物とあのドラゴンの素性、あとどうしてあの様な場所に駆けつけてきてくれたのか。それらを聞き出さねば、春休み最初で最後のスペクタクルは完結しないのである。

 陽は話し出そうとする兄に気づいて、自分はすき焼の鍋へと菜箸を寄せた。

「あの、ところでどうして樫屋さんはあんな所に?」

 良明の質問に対し、けやきは少し逡巡する様子を見せた。

「……正直、あまり大きな声では言えない事情ではあるんだが……」

 一瞬だけ間をおいて、けやきはいよいよ話し始めた。


「そもそも、彼を見つけたのは私自身ではない。彼自身から連絡を受けて、大急ぎであのドラゴンと合流し現場に向かった」

 英田兄妹の疑問は早くもその二つが氷解した。

 すなわち、竜具をつけていなかったのは人命に係わる状況だった為急いでいたから。そしてあの場に居合わせたのは当然偶然などではなく、藤自身からの連絡があったからだ、と。そうそう都合良く偶然に救い手が通りがかるわけはない。考えても見れば当然である。


 良明と陽はそれにしても、と思うのだ。

「ふっさんのやつ、こんな凄い人と知り合いだったのか……」

「ていうかていうか、連絡入れるんだったら119か110でしょ」

 けやきは「ああ、それは」と言って説明する。

「病院に行くときに彼も言っていたんだが、気が動転していたらしい。私が竜の扱いに長けている事は彼も知っていたからな。だから、私を頼ってきたんだろう」


 呆れる二人に対し続く言葉を選んで、けやきは数時間前に自分で買ったすき焼きの具材を見つめながら再び口を開く。

「こちらも買い物の帰りだった事もあって、荷物をそのまま持って行っていたわけだが……」

 緑茶をすすって、言葉を選ぶ。

「御馳走になっておいてこの上お願いと言うのも気が引けるのだが、私としてもこの状況を誰かに話すと言うのは想定外で……出来れば、少年一人を助けたという事に免じて今回の事を口外しないで戴けると助かる」

 けやきの口調の端々には、なにやら”やんごとなき事情があってそれ以上は話したくない”という色が滲み出ていた。それも、”少年一人を助けたという事に免じて”などという、随分と強力なカードを切ってまで踏み入られたくないらしい。

 話を聞いていた良明は勿論、肉をもしゃもしゃと味わう陽もそのただならぬけやきの雰囲気にそれ以上の追及を躊躇った。


「とはいえ、人を傷つける様な類の秘密があるわけではなく、単に私と私の取り巻きが追求されると困るだけなので、そこは強調させてもらいたい」

 取り巻き、というのは一体どういう者達なのだろう?

 良明と陽は顔を見合わせて、最後の問いを投げかけるか否か判断に迷った。この分ではなにやら込み入った事情がありそうだし、それが明らかな状況であえて質問するのも何だか不躾に思えたからだ。


 ところで、英田兄妹のけやきへの第一印象は”理知的な眼をした長身の麗人”といった所だ。

 二人の先入観や偏見を交えて言うなら、樫屋けやきは嘘やごまかしを駆使して人を欺き利を得ようとする人間には見えない。どうもそういうタイプ特有の悪びれた印象が口調や仕草から感じ取れないのだ。

 そもそも、彼ら兄妹はけやきとドラゴンが身体を張って藤を助け出す所を目の当たりにしている。あの濁流の中、自身達の危険も省みず身体を張ったのは事実なのである。

 そこから推測されるのは、彼女が悪人ではないということ。余程の理由があって事情を伏せておきたいらしいが、それは恐らく自分達兄妹が聞いても納得ないし支持が出来る類の事の様に思われた。

 尤も、それらはあくまで兄妹の推測であり、実際のところは実に共感に堪えないくだらない事情であるのかもしれない。それでも、先程目の当たりにした勇姿に免じてこれ以上の追及はするべきではないと言うのが二人の結論だった。

 視線でお互いの考えを把握した良明と陽は、次なる話題を探し始めた。


「樫屋さんは高校生さん?」

 良明と陽が躊躇っていた問いに類する質問は、彼らの母・由の口から飛び出した。

 それは、正にけやきの素性に迫る質問ではあるのだが、流石にこの社交辞令の様なありきたりな質問を回避しようとするのは不審極まりない。

 けやきはほんの一瞬、困ったような顔をしてから答える。

「はい、この春から高校三年生です」


 ここ大虎市郊外には、高校は一つしかない。

 けやきが校名を伏せて漠然と『高校三年生』と答えたのは、すなわち具体的な学校名を伏せたいという意思表示に他ならなかったが、伏せた事自体は意味を持ち得なかった。

 市立大虎高等学校。それが樫屋けやきの通う学校でまず間違いなかった。

 そして、それは中学校を卒業して現在春休み中のとある双子の兄妹の話題を引き出すのに十分な餌でもあったのだ。

「本当ですか?!」

「本当ですか?!」

 声を揃えた双子に対して、けやきはやはり表情を崩さず、静かに回答の言葉を探すが、内心少しだけ悲しい気持ちになってこう思った。

(この驚き様、高校生だと思われていなかったのだろうか?)

 そんなささやかな乙女心を隠す様にけやきは尋ねる。

「二人も、うちの高校に?」

「はい、二人とも」


 答えた良明は差し支えない話題を搾り出す様に喋る。

「えーと……その、大虎高ってどうなんですか? 文化部……とか結構色々あるんですか?」

 咄嗟に搾り出したにしては上々の話題だ。学校そのものの話であればけやきが話したくない事に触れる事も少ないだろう。

「ああ、色々ある。美術部、写真部、新聞部……その他諸々掛け持ちしてもいいという決まりだ」

 それを聞いて興味深げに食いついたのは陽。

「へぇー、でも掛け持ちしている人なんてあんまり居ないんじゃないです?」

「そうでもない。私の身の回りにもちらほら居る」

 部活の掛け持ちなどそうそう多くは無いだろうと言うのが陽の認識だったが、けやきの話す限りではどうやらそうでもないらしい。


意外そうな二人に、けやきは両手で持った緑茶を啜ってから続ける。

「これは私の周りが珍しいだけかも知れないが、部活間の垣根が低いイメージなんだ。引き抜きの話もあったりするくらいでな」

「ああ、引き抜きって、運動部とかでたまに聞きますね」

 良明が言ったのは一般論だ。特に大虎高校でそういう事があったという噂を聞いたわけではない。

「まぁ、どの部に所属するにせよ、日々を楽しく暮らすのはそれなりに重要な事だ」

 緑茶を置き、けやきは感慨深げに続ける。

「どの部活に入るにせよ、勧誘は勧誘として受け取った上で、自分がやりたい部活……目標がイメージできる部活を選ぶことを薦めておく。惰性で続けても疲れるだけだ」

 すき焼が入ったフライパンがぐつぐつと煮立つのを見て、由はカセットコンロの火を弱めた。どこか懐かしげな表情を浮かべるが、この話題について口出しする様子は無い。

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