三毛猫ロック(4)
館山は、破損した背もたれを振りかぶる。
「ばーか、当たらねぇっつって――」
三池は、瞬間はっと眼を見開いた。
これまで通りの大降りに振りかぶられた椅子――だったもの――は、今、館山の手を離れ、三池の顔面に向かってきたのだ。
一切の手加減の無い速さで投げつけられたそれは、三池の額を強打した。
と、同時にその視界をも奪う。
館山は今一度その丸太の様な腕を振りかぶり、三池の顔の半分はありそうな握りこぶしを振り下ろす。
一瞬視界を奪われた三池は、それでも前方の強烈な敵意に反応し半身を退けるが、それでは不十分だった。
館山の拳は確実に三池の頬を捉え、完全に降りぬかれた。
左頬からの衝撃に首を捻らされ、そのまま身体ごとバランスを崩す三池。
対してこの機を逃してなるものかと尚も距離をつめてくる館山。
それは、三池にとって隙の塊の様なものだった。
三池は瞬時に体勢を立て直し、身体のばねをフルに使って館山の腹めがけてカウンターを恐れないフルスイングの拳を叩き込んだ。
館山は、(まさか)と思った。小さい拳から繰り出される異常に重い殴打は、刃物で土手っ腹を突き刺されたかのような独特の鋭さを伴った。腹を起点に身体から力が消失していく感覚。顔面に対してあの重い一撃を貰った直後の奴に、円をかばう様なくだらねぇ奴に、こんな華奢なチビごときに、まさか。
再び崩れ落ちそうになる館山の顔面を、小さい掌で鷲づかみにし、木製の床へと叩きつける三池。
館山に馬乗りになると、三池はやや早口に、やや不機嫌そうに、額の上の方から流血している顔で薄ら笑いながら囁いた。
「なんだてめぇ、いいパンチ持ってんじゃねぇか」
そこから先は、一方的としか表現のしようが無い光景だった。
館山のクラスの担任が飛んできてなんとか三池を館山から引き剥がした頃には、館山の顔は、格闘技中継でも滅多にお目にかかれないくらいには腫れ上がっていた。
そうなるまでに館山の取り巻きが三池を止めようとしなかったのか、と人づてにこの話を聞いた者の多くは語る側に問いかけるが、その時の三池はとてもとてもその様な事が可能な状態ではなかった。
*
「ありがとうはこっちの台詞だよったく。てめぇが俺に黙って担任呼びに行ってなかったら、割とマジでやばかったわ」
頭に包帯を巻いた三池は、隣を歩く円に答えた。
昨日三池と円が喧嘩をした【どらや】の前を通り過ぎ、灰色のブロック塀と古臭い木製の電柱に沿われたアスファルトの道路へと差し掛かる。
ブロック塀の向こうには今日もカーテンが閉まった家々が並び、この単調な住宅街はまだ三百メートル弱程も先へと続いていた。
坂道に一歩一歩を踏み出すたびに、僅かだが三池の頭にずき、ずきと痛みが走る。どうも傷口が包帯の下のガーゼとこすれ合っているらしかった。
口に出して訴える程の痛みでも無いため、三池は特に誰にいう事も無いのだが、どうにもこの痛みを誘発する坂道がうざったくはあるのだった。
多分その三池の心境は、先程生徒指導の山村に言われた言葉もいくらか影響しているのだろうと本人は思うのだった。
三池は、今度ばかりは叱られるだけではすまなかった。
停学一週間の勧告。加えて次こんな事があれば即退学を覚悟しろ、と言われた。
勿論三池が、である。
いかんせん前回――つい昨日――の喧嘩から時間が短か過ぎたし、何より事情はともあれ相手を痛めつけ過ぎた。館山の処分に関しては、二、三日程彼の回復を待ってから伝えるのだと聞かされた時、三池もやりすぎた事を自覚した。それまでは”まぁ円の時と違って意識もあるし大事ねぇだろ”程度の認識だった三池だが、甚だ甘かった。
そして何より三池が落ち込み、三池にとって痛手だったのは、所属する部活動の一定期間参加禁止及び大会への出場停止の処分だった。
部活の仲間に申し訳ないという気持ちもさすがにありはした。だがそれ以上に、かつて自分と壮絶な戦いを繰り広げてきたいくつもの他校の顔見知り達に、合わせる顔が無かった。
半ば次の大会での再戦を約束したも同然の相手すらいた事が、尚の事三池の心を痛めつけたのだった。
「そういや、結局”なんでも一つ言う事聞く”やってねぇんだよな、俺……」
うつむく円に対しては、三池はまだ部活動関連の処分の事は告げていない。
「だーから真面目かよって。あんなもん約束のうちに入んねぇよ忘れろ忘れ…………あ」
三池は、足を止め円の顔を見た。
「ん?」
「お前、うちの部活入れ」
「は? え、今からかよ……いや、まぁお前が言うならそうするけど」
三池も円も三年生である。今から途中加入となると、スキルや人間関係で大いに苦労しそうな事は想像に難しくないし、何より進路の事もある。
部によってはそろそろ三年生は引退する部すらある。
「三年が引退する最後の大会まででいいからよ、いてくれっと助かるんだよ、ワケあってな。まぁ考えといてくれよ、んで出来るだけ早く返事くれ」
円は、突然の申し出に様々な事情を想像するが、何よりも先に確認しておきたい事をまずは口にした。
「んー、つうかお前、何部だっけ?」
彼は入部の条件として確認するというよりは、純粋な好奇心から三池にそれを訊いた。訊かれた三池は、すぐに答える。
「龍球部。一応部長やってんだぜ、俺」
「部長ぉ!? 部長がこんな事件起こ―――」
言いかけて、その”こんな事件”の原因が自分にある事を思い出して言い淀む円。
「だーから、真面目かっつーの。俺が好きで喧嘩しに行っただけだっつってんだろ」
三池はにかっと笑って見せた。
円が気まずそうになる事によって、会話が途切れる。
それはつまり、二人に話しかけるタイミングが出来た事を意味しており、彼らの背後を先程からずっとつけている一人の生徒を三池はちらと確認してやった。
一定の距離を保って着いて来ていた伊藤は、胸の前の握りこぶしに力を入れて、深呼吸一つ。高飛び込みでもするような心境でオレンジ髪の不良に声をかけた。
「あの、三池……さん!!」
「同い年の男にさんはねぇだろ」
伊藤に気を使ったのだろう、円が少しだけ笑って見せたが、当の本人の眼には三池しか映っていない様子だった。
円が三池の方を見てみると、何故だろう、三池はどういうわけか円を見て「あ?」と不機嫌そうな声を出した。
「あの、えっと……ごめんなさい!!」
唐突に九十度と少しの角度をつけたお辞儀をして、叫ぶように謝罪する伊藤。
「何の事だよ、人違いか?」
お前と誰かを間違う事ってそうそう無いと思うぞ。思いつつも面倒になりそうなので声には出さない円。
伊藤は、若干ながら確実に震えを伴う声で及び腰にこう言った。
「昼間の喧嘩の時……三池さん、私をかばってくれたんですよね?」
「え?」
円の表情が変わる。
「あの時、三池さんが咄嗟に投げつけられた椅子を避けていたら、それが私の所に飛んできて、私――」
伊藤の言葉は、機微もなにも無いような不良の声で遮られた。
「そーっこまで考えてねぇよばーか。どいつもこいつも律儀すぎんだろったく」
言葉に詰まる素振りもなく即答でそう答えた三池に対し、伊藤は食い下がる。
「でも!」
伊藤には、確信があった。
(あれだけ館山の攻撃をかわし続けていた三池さんが、あんな大振りな飛び道具を避けられないわけが無い。あの瞬間、三池さんの身体がぴくんと動きかけてはいたけれど、それでも飛んでくる椅子を避けられなかったのは、私の存在に気づいて対応を考えていたからのはず)
伊藤は、教室で三池に会った時の怯える仔猫の様だった自分を、今や完全に忘れ去っていた。
自分の所為で三池が負けていたかもしれない。
自分の所為で三池の顔に傷でも残ったらどうしよう。
せめて、三池に真正面から謝らなければ、彼女自身の自尊心がとても自分を赦せなかった。
「あーもう、てめぇに怪我が無かったんならなんでもいいよんなもん」
ひらひらと手を振って歩いていく三池に、伊藤はもう一度お辞儀した。
「なんだお前、その怪我伊藤庇ったのか」
三池に続く円が、その包帯を巻いた額を覗き込むようにして尋ねる。
「違ぇし」
明らかに”なんでもないですよ”という色を取り繕う様な口調でそう返す三池。
「誤魔化すの下っ手クソだなぁお前」
けらけらと笑って三池の方に手を回す円に、三池は強引に話題をそらそうとする。
「知ってるか、三毛猫って殆ど全部女なんだぜ」
「ごーまかーすなって」
面白そうに横を歩く三池を小突く円は、伊藤程は気に病んでいる素振りもなく、三池にとってはそれが心地良く、嬉しかった。
竜王高校龍球部部長三年生・三池。彼女にとっては、自分の怪我の心配などよりも共に笑って下らない話をしてくれる事の方が、余程価値があった。
喧嘩上等。真っ向勝負は大歓迎。そんな三池も、今しばらくの間は大人しくするしか無さそうだ。
人付き合いは得意な三池だったが、その風貌や振る舞いなどから継続して友人として付き合う間柄の人間はそう多くは無い。円という男は律儀で真面目すぎる所があるものの、なんだかんだ言ってこうして三池と打ち解けて話してくれている。もしかしたら、珍しく友人でも出来る流れなのかもしれないと三池は微かに期待した。
一方円にとって、三池は事情があったとはいえ殴り掛かった相手である。
館山の一件に一応の解決を見た今、彼は三池に対して申し訳なさとバツの悪さが入り混じる様な感情を抱いていた。
そんな時に三池が見せたあっけらかんとした態度である。
謝罪される事を面倒くさいとすら感じる、三池のその表情を目にして、円は救われたのだった。
こうして、四月十四日から十五日にかけて発生した竜王高校の暴力事件は幕を閉じた。この一件が巡り巡って、後にこの少女にある戦いの舞台を用意する事になるのだが、果たして彼女がそこに至る事に関し、この出来事が必要なステップだったのか否かは解らない。
ただ、三池と円が今、幸福な充足感に満たされているのは紛れも無い事実であり、この苦々しい経験があったからこそ、彼女等は出会うに至ったのである。
その日以来、円礼太の主要な悩みは、”自分の名前を一発で正しく読んでくれる奴が殆どいない事”に変わった。




