三毛猫ロック(3)
円を取り巻く時間は、容赦なく流れる。
流れ続ける。
(俺はどうすればいい?)
円の中にうねり狂う疑問。
実のところそれは既に出すべき答が絞られた問いかけである事に気づき、すぐに葛藤へと変化した。
行って二人仲良く返り討ちに遭えば、崩壊しつつある弟へのメンツだけは保てるかもしれない。幼い頃から兄ちゃん兄ちゃんと慕ってくる、やんちゃだが素直で守りたくなる様な可愛い弟だ。高校生になってもどこかあどけなさが抜けず、放っておくと危うくて仕方がない、そんな弟だ。
(だが、冷静に考えろ)
そんな事をして何になる?
果たして取られた物を取り返せるだろうか?
よしんば取り返せたとして、その後は?
館山に目をつけられるという事は、あと約一年間の高校生活を怯えて過ごさねばならなくなるという事である。
弟に到ってはまだ三年間もこの学校で過ごさなければならないのだ。館山が卒業してそれで終わりだという保障がどこにある。
思考する円の前で、三池はどんどん歩いていく。
(兎に角、とにかくこいつを力づくでも止めねぇと大変な事になる!)
円が一歩を踏み出した時、彼は口から妙な声を発していた。文字にすれば「あ」という、ただそれだけの音だったのだが、その声は、責任と同義と義理に染まった、井戸の底から汲み上げた様に混ざりっ気のない、彼自身の声そのものだった。
円の視線の先。そこにある背中は何度見ても華奢で、背もそこいらの女子よりよっぽど低い。それでも一切の躊躇いすらなく歩いていく三池の姿を見て、円の思考は停止したのである。
「俺も連れてけ!」
「おー来い来い」
何の感慨も感じられない三池の返答が、円には何よりも嬉しく思えた。
引き戸が開き、女子が教室に入って来る。
腰まである髪を襟元で束ねているのは、中間色だが濃い青のシュシュ。
一重で小鼻で口が小さいのが特徴の、平凡そうな顔立ちの三年生だ。胸には”伊藤”と書かれたノートと、いくつかのジュースが抱かれている。
彼女は、滅多に買えないクリーム入りメロンパンを手に入れて、今日の食事時から随分と機嫌が良かった。
授業がチャイムよりも二分足らず早くに切り上げられた事が勝因だった。加えて、ここ最近昼休憩になった途端にどういうわけか購買部に走って行く円の姿が、今日はその購買部には無かったという事もいい方に働いたのかもしれない。と、彼女は思った。
「伊藤ちゃん、おかー」
昼食後、自販機まで飲み物を買ってきた機嫌の良い伊藤は、手を振る友人に向かって「ただー」と返事する。
振った右手には人数分の紙パックジュース。
伊藤が上機嫌になった事によりジュースを買いに行く手間が省けた友人も、伊藤自身も、今日に限ってその教室に円の姿が無い事には気づいていない。そもそも、彼がここ最近急に購買部にダッシュする様になった理由も知らない。
不意に伊藤の友人達が何かに気づいたのが、彼女らの視線の移動で伊藤にも解った。背後に人の気配。伊藤は振り返った。
視界に入ってきたのは、オレンジ髪に鋭い目つきで黒いジャージ姿のちっこい奴。
見ただけで、何か良くない人間と係わった様な気分になりそうな、よく見かけるあの不良だった。名前は確か、ミケと言っただろうか?どんな字を書くのか伊藤は知らないが、名前がミケなのは猫みたいなので覚えていた。
「あー。悪ぃ、このクラスに館山って奴いる?」
反射的に三池が話しかけたのが自分で無い事を願う。が、伊藤が視線を前方に戻しても、三池が話しかけたであろう人物の姿は無かった。
(あー怖いよー、変な人に話しかけられたぁ)
伊藤はそう思いながら恐る恐る三池の眼を見てみる。
ギラギラとした、何をしでかすか解らない様な怖い目。”たぶん係わらない方が良いひと”の眼だと思いながらも、無視するわけにもいかず、伊藤は問いの答えを口から搾り出そうとして躊躇う。
(あああ、館山ってあの館山だぁ。”絶対に係わらない方が良いひと”だぁ。最近なんか円とよく一緒に話してる、あのちょいちょい授業妨害してくる館山だぁ。係わりたくないなぁ、この人が館山の居場所を私に聞いた事を館山が知ったら、私あいつに話しかけられたりしないかなぁ、やだなぁ)
伊藤は口から何らかの声を出す事はせずに、視線を恐る恐る教室の端っこに向け、一秒も無い間を置いてすばやく三池に戻した。
「あんがとよ」
と言った三池の視線は既に館山に向けられており、そのまま躊躇うことなく伊藤を横切ってずかずかと教室の中へと入っていった。
三池の背中越しの伊藤からは、その猫みたいな名前の奴の表情は確認出来なかった。
伊藤にとって幸いだったのは、館山が近づいてくる三池の存在に気づいたのがそれらのシーケンスが終わってからだったという事だ。自分が三池と言葉を交わしたのは気づいていない様だった。
「おう。お前館山?」
三池の第一声に訝しげな顔を向けた館山らしき男子生徒は、背中を窓際の壁に押し当て、組んだ足を隣の席の机の上に乗せていた。
取り巻きの数人も机の上に腰掛けたり、床に胡坐を組んで漫画雑誌を読んだり、或いは携帯電話で一画面の読み込みに十秒前後かかるゲームをしていたりしている。
三池は、これならさっきの女子を怖がらせて確認するまでもなかったな、と思った。
学ランごと捲り上げた袖をクイともうひとつ捲り上げ、館山は組んでいた丸太の様に太い腕を、傍らのスポーツドリンクに伸ばした。
「おう」
どす黒くて重い声で答えてから、スポーツドリンクを一口。三池から帰ってくる言葉を待つ。
三池に対する第一印象の多くが”うわ、なんかちっこくてこわいやつ”なら、館山に対するそれは”うわ、なんかでっかくてこわいやつ”である。
よくある王道少年漫画の主人公並に鈍くない限り、その表情からは常時敵意を読み取れる。常にガンを飛ばし続け、それがそのまま人相になってしまった様な、相手を威圧する様な目つき。眉毛を細く剃って居るのはファッションなんだろうか、俺は同年代の奴でこれが似合ってる奴を一人として見た事が無ぇ。と三池は思った。長髪は後ろに流してヘアバンドで固定している。
とてもとても解りやすい不良の見た目の数々。服を脱がせたら肩辺りにタトゥーでも入れているんじゃないだろうか。
「円、の弟の奴から色々奪ったのってお前?」
館山は、三池の風貌からもしやとは思っていたが、ここで漸く確信した。
「てめぇ、三池か」
「ああ、で、奪ったってのは本当なのかどうなのか答えろや」
「奪った。……それで?」
挑発する事を目的にあえてさらりと言ってのけた館山に対し、三池は威圧する為に意図的に静かな口調で切り返す。
「今すぐ返せや」
その視線と声音は相手の精神を握り潰す様な重厚さで、特に高いくせにドスの利いた、野獣が威嚇する様な声は凄まじい迫力を醸していた。三池がポケットに突っ込んだ両手は、その華奢な身体を館山に対して今すぐ殴りかかれない状態にしているにも拘らず、妙に相手にとって挑戦的に見える。
これらの態度のどこまでが三池が意図した”威嚇”なのか、どこからが感情に任せた”怒り”なのか、それはこの場の誰も解らなかったが、三池が館山に対して隠されざる敵意を向けている事だけは明らかな事実だった。
二人が居る辺りの時間だけが二三秒程停止した様な、そんな空気に包まれる。
隠されざる三池の敵意。それに対して館山が取った行動とは、
「くくく」
嘲る様に笑う事だった。
円を退け、わざわざここまで来た事を。
円の、ひいてはその弟の為に自分に喧嘩を売ってきた事を。
それは、三池にとって宣戦布告と受け取るに十分な”返答”だった。
三池はそれ以上言葉を紡ぐ事はせず、館山が足を乗せていた机を蹴り飛ばし、それにより開けた空間を通って彼の胸倉を捻り上げた。
挑発の一つでもかますのかと館山の取り巻きが様子を伺っていると、三池はそのまま窓ガラスに館山の頭を叩きつける。直後に周辺の者達がざわついた。
ガラスが割れる音ではなく、ごすんと鈍い音がした事に安心する取り巻き。部屋の片隅でなにやら騒ぎが起こった事に凍りつく、その他教室内の生徒達。
「っんめぇ!」
それまであくまで感情を隠していた館山の顔に、ついに怒りの色が炙りだされた。
かくして、穏便に話が解決する道はこの時潰えたのである。
それが、三池にとってどれ程の悲劇を招く事になるのか、とうの本人はこの時まだ気づいていなかった。自分と互角に渡り合った、ある人物との暗黙の内の約束を破り、自分の目的を自ら阻む事になる行為。感情に任せ、後先考えずに繰り出した先制の一撃には、様々なリスクが伴っている事を、この時の三池は自覚していなければならなかったのである。
館山は、傍らの蓋が開いたままのペットボトルを掴み、三池の即頭部めがけて横から思いっきり投げつけた。が、三池はそれをひらりとかわす。ペットボトルは教室後方の壁へとぶち当たってボールの様に床を跳ねた。
「当たらねぇっつうの」
三池は挑発的に、嘲る様に、館山を見下し口の端を曲げて見せた。
それに対してさらに激昂した館山は、いよいよ額の端に青筋でも見えそうな顔になり、三池の手を振りほどく。すかさず立ち上がり、今度は自分が三池の胸倉をつかみ上げようと手を伸ばした。
あまりにも意図がバレバレのその館山の腕を難なくかわし、そのうえで改めて自分からそれを掴んで館山の身体を自分の方へと引っ張りこむ三池。
館山の腕を掴んでいない方の右腕を握り締め、思いっきり彼の頬に叩き込んだ。
その一撃でぐらりとよろめく館山。辛うじて机に手をつき三池を睨みつける。
「てめぇよ、普段勢いだけで喧嘩してっだろ。一々動きがバレバレなんだよ」
館山は、ただただ睨んで三池のアドバイスと言う名の挑発に対抗する。
「…………」
「…………」
沈黙。その三秒程の沈黙が何を意味したのか、三池が気づいたのは一連の喧嘩騒ぎの随分後の事だった。
よろめいた体制の館山が完全に立ち上がる。と、同時にそのままの勢いで何かを振りかぶった。
館山が、気味の悪い無表情になってその右手に持ち上げた物。
学習机の対の椅子だった。
その場の誰もが瞬時に悟る。これを、三池に向かって振り回すつもりだ。
館山に躊躇いは無く、それが相手に当たった時にどうなるかなど、考えているのか怪しいものだった。ただ、いかんせん尚も大振りな館山の動きを見切る事は、三池にとって造作も無かった。
がぁん、がぁんと椅子が床やら机やらにぶつかる音が教室内に響き渡る。
さすがに我関せずを決め込んでいた生徒達も、口々に「おいおい」やら「やべぇ」やら「先生呼んできて」やら、ただ事ではないという自覚がある言葉を口にし始める。
「いいからいい加減ヒトから奪ったモン返せやこの顔面鬼瓦」
ため息混じりにそう発した三池に、かれこれ五回は椅子を空振りした館山は怒鳴り散らす。
「うっるせえ!!」
思いっきり振り下ろした椅子が、甲高い金属音とともに分解した。
館山の手には背もたれの部分だけが残る。
ため息一つ、三池は口を開こうとする。
「てめぇよぉ、俺は別に――」
と、ここで三池は館山の表情が突如として先程までとは真逆の物になっている事に気づく。すなわち、その顔には妙に毒々しい”笑み”が浮かんでいた。まるで、獲物を見つけた獣の様な、勝利を確信したスポーツ選手の様な。




