闇夜に響くベル(3)
『ちょっと、待ってほしい』
シキが伸びをする様に羽根を広げ、聡明さを垣間見せる眼を細めた。
「待つって、何をですか」
「待つって、何をですか」
『出発をだ。レインを追うと言っていただろう』
「どうしてですか?」
「行くなら急がないと!」
シキは難しい顔で何かしら考えているが、どうにも兄妹には何を迷っているのかが解らない。
『シキさん、何が引っかかっているのかっていうのは口に出来ない類の話なんですか?』
ショウに促され、老齢の黒龍は老齢故に身に着けたカンに語らせた。
『話が、出来過ぎてはいないか?』
シキ以外の誰もが、彼の言いたいところが掴めずに硬直した。
『考えてもみろ。今年、春。レインというワケ有りの金眼が現れたその年にこんな事件が起こった……』
「だから、そのワケを知る為にも!」
藤は抗議する様に言うが、シキは『それだけではない』と続ける。
『レインが我々に書置き一つで旅立った理由はなんだ? 直に”行ってくる”と言えばいいものを、彼女はそうはしなかった』
「それは、私達に心配かけたくないからなんじゃあ……?」
『陽、今のこの状況を、レインは考え至れなかったと思うか? 現に皆こうして彼女を心配し、あまつさえ追いかけようとしている、この状況をだ』
「………………たし……かに」
『勿論、レインが我々を陥れようとしているとは考え難い事は理解している。それは常日頃から彼女と共に在った我々竜こそが良く解っている。何か、書置き一つで旅立たなければならなかった理由がある筈だ。昨夜竜舎で眠りにつき、朝になるまでの間に余程切羽詰まった状況が発生したという事だ。隣で眠っているガイやショウを起こす間もない程に切羽詰まった状況がな』
ここで、陽ははっとする。
「待ってください、それってまさか!」
『或いは、レインをケージに閉じ込めた犯人がこの場所を知り、あいつをどこかへ連れて行った可能性もある』
「でも、だとしたらじゃああの書置きは?」
良明の疑問には、藤が応える。
「誰かに書かされた可能性は? 詳細が書いてなく、単に”行ってくる”とだけしか書いていない所が尚の事怪しい」
シキが頷く。
『その通りだ。兎に角、坂新部長含め全員で情報を共有するまでは、部員として安易に行動しない方がいいだろう。まずは二人とも一旦頭を冷やせ。もしも相手が妙な犯罪グループだとするなら、レインを助けるにしても我々の手に負える話ではない』
誰も、渋々ではあるが頷いた。
*
『明京郊外のガルーダイーター本部では、尚も睨み合いが続いています。今回の全国の高校へ向けた”龍球部禁止”の要請に反発する人々により行われております座り込み運動は、日を跨ぎ二日目に差し掛かりました。コメンテーターには高校龍球の解説者として御馴染みの長谷川さんにお越し戴いておりますが、長谷川さん、今回の騒動についてはどうお考えですか?』
『ええ、まったく馬鹿げてますね』
『それは――』
『ええ、ガルーダイーターがですね。まったく馬鹿げている。高校で部活に励む少年少女の青春の場を奪おうなどとは笑止千万です。こんな馬鹿げた話、世見国のスポーツの歴史の中でも五指に入るでしょうね』
『えー、一部では……と言いますか、世論の大きな部分としましては、竜に苦痛を強いる競技をスポーツとして認める事が問題視されておりますが――』
『龍球は、人間と竜相互の信頼関係によって成り立っているスポーツです。きついのは人間も同じ事。それを問題視するのであれば全てのスポーツは競技者たる人間が可哀想だからするべきではないと言うことになりますね。馬鹿げている。いいですか、この前の大会にしたってですね、私今回も解説をやらせていただきましたが、まったく馬鹿げている事に手元にガルーダイーターへの不満は口にするなという旨のメモが置かれていまして』
『ほほう』
『えー、そもそも去年の夏大会にですね、ガルー――』
CMが流れ始めた。少年はイヤホンを外し、ラジオの電源をオフにする。
ふうと息をつきながら、坂を上り続けるのである。
高台に立つ小奇麗な建物の一室からは、街並みが良く見渡せる。
それはそうだろう。この眺めを活かさなければ、誰もこの様な行き来に体力を要し、交通の便も悪い場所に孤児院など建てはしない。
白塗りの梁に、薄水色の壁。数年前から変わらない外観に対して懐かしさを覚えつつ、少年は我が家の中へと足を運んだのだった。
藤は、大虎の町が見渡せる応接室に通されると部屋を見回した。ガラス部分に金色の塗料で幾何学模様が描かれた振り子時計、薄緑と淡いオレンジの線が絡み合った柄の壁紙。使い古された灰色のオフィスデスク。革張りの黒いソファ、深いこげ茶の棚と机。
どれもこれも、なつかしい。
灰色のパーカーに、白シャツとジーンズ。パーカーの背にはアルファベットが並んでいるが、藤がその言葉の意味を調べた事は無い。
手荷物は片手で持てる程度の大きさの寝袋と、ダッフルバッグ。色はどちらも紺色で、総じて彼を取り巻く物品は地味な色をしていた。
「森畑先生、御無沙汰しています」
「久しぶりねぇ、まこと君」
テーブルをはさんで藤の対面のソファに腰かける森畑先生と呼ばれた六十代の婦人は穏やかな口調ながらもどこか鋭い雰囲気を身に纏い、言葉や行動に抜かりが無い彼女の性格を垣間見せていた。他人の内面を察するのが上手い者ならば、この一言だけで彼女の鋭敏さを察せるだろう。
白髪を上品に後頭部で纏め、身に着けているシルバーのカーディガンと良くマッチしている。
「今日はわざわざ”時間を取ってください”だなんて改まって、どうしたの? ここは貴方の家なんだから、好きな時に帰ってくればいいの」
「……森畑先生にだけは、今までの事をきっちりとお礼を言いたかったんです」
森畑は細く優し気な眼で藤をじっと見つめ、何かを察した様に問うた。
「何を、するの?」
「……その質問に、どうお答えするべきか……それが、僕には解りません」
「ではこう尋ねましょう。貴方がやろうとしている事は、十年後の貴方にとって後悔が無い事であると、断言できますか?」
「……ええ、少なくとも、十年後まで僕の命が続くなら、これは誇るべき事であると、そう信じます」
森畑は、デスクの向こうの壁一面に広がる窓越しの絶景を見て、何事かを想う。
「森畑先生」
「…………」
「貴方は、僕の――」
「まこと君はねぇ」
森畑は、視線を藤へと戻さない。
「良い子だから。大丈夫……それ以上言わなくても」
藤は、その一言に目頭を熱くした。
「先生……僕は、貴方に言っていない事がある! 大恩人である貴方に、伝えなければならない大切な事がある!」
「”ありがとうございました”……」
「……え?」
「”ありがとうございました”は、ここを出ていくときにしっかりと聞きました。それで、いいの」
「先、生……」
膝の上の握り拳に力を籠め、藤は俯きながらも涙を必死でこらえる。
そして、悟る。
(これで、いいんだ。覚悟を決めろ! たった一人でも、やれるはず)
「先生、俺やっぱりここに立ち寄って良かったです。おかげで――」
森畑は無言で藤を抱きしめてやると、背中をぽんぽんと叩いた。
「大切な存在を助ける。あなた、そういう眼をしてる」
藤はかなわないと言いたげな顔でこう返した。
「やっぱり、御見通しなんですね」
森畑は、再び漠然とした問いを藤に投げかけた。
「……怖い?」
「怖いです」
「危険なの?」
「危険だけど、やらないといけない事なんです」
「仲間は?」
「今は、いません……いえ、こんな独りよがりな事をしている僕を、彼等は決して仲間だとは思わないでしょう。でも、それでもやり遂げなければいけない。絶対に!」
森畑は、優し気なため息をついて、言う。
「そんな事ない。まこと君が友人として受け入れた人は、誰だってあなたの事を想ってくれてる。だから正直になりなさい、独りよがりだなんて言わないで、しっかりと本音で話していいの」
藤は、学友の誰にも見せた事が無い顔で森畑を見た。
そして声を押し殺し、表情を隠す様に俯き、肩の震えを全力で抑え込む。
十分間はそうしていただろうか。
藤はそれ以上何も言わず、施設を後にした。森畑に一礼だけして、本当に一言も発さないまま、である。
お互いの解り切った信頼関係を今更確かめるという無意味な行為に貴重な時間を使った事を、藤は決して後悔しない。
この訪問は彼にとって、いわば心の拠り所たる場所での神聖なる儀式に他ならなかった。
施設を後にした藤の足取りは、新幹線と電車を乗り継いでガルーダイーター本部へと一直線。時間こそかかったが、コンビニ等、最小限の寄り道のみをして藤は首都・明京都へと足を運んだ。
大虎市がある替川県からは別の県を一つ跨ぐ位置にある首都への道筋は、交通手段を含めて何度となくチェックし、選択した。騒ぎが収束するまでには到着する筈であると見込んだ藤だったが、その判断にはどうやら誤りは無い様だった。
冗談にしか見えない複雑さをしている首都の路線図には辟易したが、彼の目的を想えばそんな事一つに弱音を吐いている場合では全くない。
途中からは金に物を言わせてタクシーを使ったが、郊外へ進めば進む程、この判断は正しかったと藤は思った。
事態は一刻を争う。そして、ミスは決して許されないのだと彼は自分に言い聞かせた。この先に待ち受けるであろう戦いの先に在る物が、友人達から”参謀”のあだ名をつけられた彼には、誰よりも鮮明に見えている。この地球上で、彼しか見えていないと言ってもいい。
故に、ここまで一人で来た。
良明を、陽を、仲間達を欺き、彼は彼が取り戻したいものの為の戦いをついに始める。
藤まことは、ついにガルーダイーター本部へと到着した。




