闇夜に響くベル(1)
増水した川。そこから聞こえてくる、濁流の音。今尚降り続く豪雨。
悪い夢なら覚めてほしいと思う。
金色の眼をしたドラゴンは、土手に埋め込まれたケージの中から分刻みで水位の上昇が窺える川面を、絶望的な気持ちで見つめていた。
(こいつは、なにを考えているんだろう?)
後に周囲からレインと呼ばれる事になるそのドラゴンは目線を上げ、ケージの傍らに立つ者を見上げた。
その男、或いは女は、まるで彼女の視線を知覚した様なタイミングで喋り出す。
「恨みが無い君に、こんな事をするのは――」
『だまれ! お前も、やっぱり人間なんだ!! 今更良いやつぶるな!!』
ドラゴンは怒りに任せて牙をむき、彼、或いは彼女の言葉を遮った。
「……確かに、俺は最低な人間だ。けど、最低じゃ無い人間だっている。彼……或いは彼等は、君をそのケージから救い出すかもしれない」
どの口が言うかと言わんばかりに。ドラゴンは、抗議する様にケージを揺すって叫んだ。
「そんな人間居るもんか! 人間が、自分の身をきけんに曝してこんな状況のわたしを助けるわけが無い!!」
自らを’俺’と呼んだレインをそこへと閉じ込めた張本人は、ケージの中から抗議するドラゴンに憐れむ様な視線を投げて、静かに反論した。
「人間は、時に自分の正義の為ならなんだってするんだよ……」
* * *
部の存続を勝ち取り、これまで味わった事が無かった”普通の高校生活”という日常が戻って来た。
妙なハイテンションで教室へと入ってくる生徒が一人。
「あーきー!」
藤だ。
机の列がねじ曲がり、黒板の消し方が甘く、部屋内の生徒の数がまばらな点が奇しくも現在の良明の心理を物語っている様だった。
自分の机の上にぐでーと頬をつけ、良明は九十度傾いた視界の中で視線だけを友人に向けた。
「いつまで凹んでんだーよぅっ!」
妙なハイテンションからの、謎のチョップ。
避ける気配も無い良明は脳天に藤の一撃を食らうとすこしだけいらっとしたが、腹の中の昼食が重いので起き上がってリアクションする事はしない。
良明は、前の席の椅子へと後前逆に腰を下ろした藤に無気力な声で語りかけた。
「ふっさんさーぁ……」
「うん?」
「直家先輩って、引退したんだよな?」
「うん。もう、別の先輩が部長やってる。アキんとこもだよね?」
「うん、部長に坂先輩、副部長には海藤先輩。どっちも掛け持ち辞めて完全に竜術部になったよ」
「え、なに? アキは先輩が辞めて寂しいのかい?」
「それもある」
”それもある”?
藤は首を傾げた。他にどんな理由があると言うのだろう。
「ていうか、それが無ければ多分こんなぐでーとして無いよ……」
「なんだなんだアキ、悩みごとでもあるの?」
良明は、昨夜の事を回想した。どうにも、解決策が浮かばないのである。
これでもう何度目だろう。陽が、また悪夢にうなされたのだ。夢の内容はどうやらほぼ同じで、良明が命を落とす夢だったそうだ。
たかが夢だ。そう割り切れればどうという事は無いのだが、問題は陽本人が繰り返される悪夢を随分と気にしてしまっているということである。病院へと連れて行こうとしても抵抗があるのか拒否してしまうし、せめて両親に相談しろよと言っても心配をかけたくないと言い出すのである。
たかが夢。本人がそう思っているからこその苦しみが、彼女を雁字搦めにしているという、言ってしまえば矛盾した状況で彼の妹は苦しみ続けていた。
物知りで”参謀”のあだ名を持つ藤に相談してみようか、と良明は今この時思いついたが、陽への断り無しに彼女の抱える問題を口にするのはさすがに躊躇われた。
だから、ぐでーとするしかないのである。
「……ふっさんさー、なんでそんなテンション高いんだよ」
「ああ、それそれそれ! ニュース見た? いや、見てないか。さっき昼のニュースでやってるのが初だって先生言ってたし」
「なんのはなし?」
藤は、喜々としてその一言を口にした。
「ガルーダイーターが、潰れるかもしれない!」
「…………」
「…………」
良明の顔面を見つめる藤。
九十度回転した視界の中で窓の外のカナタで飛ぶ鳥を見つめる良明。
「…………え?」
良明が、顔を上げる。
「なにそれ?」
説明を求めてきた良明に対して、藤は待ってましたと言わんばかりの表情で先程目にしたニュースの詳細を語ろうとした。が、そこで良明は「あ、待った」と言って友人の言葉を遮った。
「え、なに?」
ビッグニュースを口にする楽しみを取り上げられた藤は寂しそうに良明を見る。
「今、隣の教室でみんなで携帯テレビ観てるって陽が言ってる。行こう」
それだけ言うと良明は立ち上がり、藤の返事を聞く前に教室の出口へと向かって行った。
「えー、折角俺が……っていうか便利だなぁその能力」
良明は半ば走る様な速度でずんずんと進んでいく。藤は慌てて彼を追いかけた。
部屋に入ると、一角で人だかりが出来ていた。
金持ちのステータス・携帯テレビが窓側へと目いっぱいアンテナを伸ばされ、群集の注目を受けていた。人数で言えば十人前後。多分殆ど画面が見えていないであろう生徒も居たが、竜術部である陽は持ち主のすぐ横を譲ってもらえている様で、良明は群れの後方でその視界の映像を共有してもらう事でニュースを観始めた。
藤はぴょんぴょんと人の群れの後ろから画面を覗き込もうとしている。が、この人だかりでは画面が見えるかどうかは甚だ怪しいものである。
『首都明京都郊外にあります、ガルーダイーター本部。その出入り口は現在、極めて多くの人々とドラゴンにより囲まれております。座りこみをしている人々が掲げる横断幕には――』
それまで隅に”LIVE”の文字が表示されていた中継画面が、ここで報道スタジオへと切り替わる。
画面の左側と下側は青いL字のエリアに囲まれており、そこにはこう記されていた。
「”ガルーダイーター反抗勢力座りこみ、機動隊出動も”……?」
教室後方の掲示板を一心不乱に睨め付ける良明に、藤は横から補足する。
「どうもね、一部の学校に対してガルーダイーターが”龍球を禁止する”様に通達したらしい」
「え、なんだよそれ!!」
それまで、マトモに藤の言葉に関心を示していない口調だった良明は、ここに来て教室に響く様な大声を張り上げた。群集のうち何人かが振り返るのと同時に、陽がテレパシーで(落ち着いて)と窘めてきた。
「噂ではウチの学校にもそういう話が来てるんじゃないかって……」
その一言を聞いたが最後、良明は躊躇いも無く教室を後にした。
(陽、樫屋先輩探して来る。そのまま中継の中継よろしく)
(わかった)
藤は部屋に残り、生徒の群れの後方で再びぴょんぴょんと跳ね始めた。やはり、画面は見えそうにない。
先程までのゆったりとしていた時間が嘘の様だと良明は思う。
速足で進んでいる所為で次々と移り変わっていく景色の中で、良明はけやきの姿を探し続けた。
まず最初に訪れたのは部室。
当然と言えば当然だが、昼休みになってももうけやきはここには来ていない。最近ではガイの方が部室を抜け出してどこかで共に時間を過ごしているらしいのだが、その場所を良明は知らなかった。
続いて三年の教室。多少の恐怖心はあったが、事態が事態だけに良明は躊躇わずにけやきが所属するクラスを訪れた。が、ここでもけやきは不在。
まさか、と思ったが他に心当たりも無いので校長室へと足を運んでみた。
けやきとガイ、それから石崎はそこに居た。
三センチ程の隙間から漏れ出している声はけやきと石崎とあの独特な喋り方の校長の声であり、会話の内容からその場にガイが同席しているらしいという事が解った。
良明は、一階廊下の窓際に背を預けると聞き耳を立て始めた。無論、陽にはその内容を送信している。
「ですから! 校長! おかしいでしょ!? みんな頑張ったのになんで今更――ッ!」
「石崎、よせ。右竹校長は我々に味方してくれているんだ。責める相手が違うだろう」
校長の声が聞こえてくる。
「本当に、申し訳ない……」
そのシンプル極まりない一言には、まるで事態の深刻さと絶望感が集約されている様だった。
石崎の抗議は止まらない。
「校長、あの時、夏大会の時言いましたよね? みんなの前で! 死にもの狂いで頑張ってきたチームメンバーの前で!」
「石崎」
「”決定は、覆らんよ”って! ”再考の機会など与えない。絶対にだ”って! ”学校として、竜術部の存続の方針を今ここに確定する事を宣言する”って!! 一字一句、イントネーションまでしっかり覚えてるんですからね、わた――」
石崎の抗議は次第に涙声に代わり、最終的に言葉を紡ぐ事さえ出来ない状態になって潰えた。
けやきが石崎の背を撫でる気配がしてくる中、良明の耳に校長の声が聴こえてくる。
「私としては、一度フィックスした決定は覆すつもりはないのだが……」
その声音からは、彼が事ここに至るまでいかに抵抗してきたかが垣間見える様だった。ガルーダイーターに、学校職員に、内側にも外側にも敵を作り板挟みになった事が容易に窺い知れる、くたびれ切った声だった。
石崎は声にならない声で、それでも言葉をぶつける。まるで、ぼろぼろに打ち負かされたヒーローが怪我だらけの身体を立ち上がらせて、絶対に勝てない様な強敵にパンチにもなっていない拳を突き立てるが如く。
「結局、ガルーダイーターに潰されちゃったじゃないですかぁ!!」
ガイが口を開く。
『ガルーダイーターに何の権限があると言うんだ? 彼等はあくまでもNGOであり、法的な権限は無い筈だろう』
校長は一瞬躊躇い、今回の事件と龍の権利に関する問題両方の本質を語り始めた。
「……そうだ。その通りだよ、ガイ君。だが、世論を味方につけているのも事実なんだ。私が思うに、本来のサイレントマジョリティは竜と人との関わりについて無関心な層だったんだよ。彼等ガルーダイーターはそこに目を付けた。ヒト……特にこの国の国民は、多数派が一定の数に達するとそれに同調する特性を持つ。団体の名を新聞やテレビで世の中に広め、同時に表面上正しく見える言い分を思想として世間に浸透させる……そうする事で、本来無関心だった筈の多数派はその大半がガルーダイーターに対して”消極的な同調”を示してしまった。的確に言うならそれは、言論の内容にでは無く、周囲の多数派に対する同調だ」
この校長の述べる世論の動きに対し、反論する事も無ければ今回の一件との話の繋がりを疑問視する言葉を吐く事もしないのは、その場の誰もが既に話の全容を掴みかけており、かつ彼の言葉が的を射ていると思っているからだ。
校長は、続ける。
「ガルーダイーターが何を思い今回のプレッシャーをかけてきたのか。それは知り及ぶところじゃあないが、兎に角、今ここでこの全国の高校に向けて出された”布告”に反抗する事は、この学校の今後に関わるんだよ」
「まさか……」
青い顔をするけやきに校長は頷いて答えた。
「ああ、大半の学校は……今回の”提案”に対して好意的なリアクションを示している。ウチだけ反対……となれば、世論を敵に回し今後の学校の入学者数にもダイレクトに影響するだろう」
「校長……あんたは、正しさよりも、学校の存続を」
たまらず石崎に背を向け、校長はこう切り返した。
「君達だって、その殆どは入部する前まではガルーダイーターの実態を知らなかっただろう?」
「それがなんだって言――」
「入学者が減れば、そもそも竜術部に興味を示し得る者の分母が減る。世の中が龍球部撤廃の流れになっている以上、このまま世間に反抗したところで、竜に対する正しい認識を与える環境自体が先細りなんだよ」
詰み。
石崎は、シンプルにそういう事なのだろうとこの時漸く認識した。
そして、この事態に至った原因の一つが自分達にある事にすら、彼女は気づいたのだ。
「徐々に台頭するガルーダイーター。それに対して直ぐにでも手を打たなかった時点で、ドラゴン愛好者に勝ちは無かったのだよ」




