黄昏の告白(2)
(こいつはどこまで私をイラつかせるんだろう……?)
市立大虎高校三年生・部活は竜術部所属の石崎楓は、暗がりかつ逆光で自分の表情が直家からはよく見えないであろう事をいい事に、露骨に不快感を顔に出していた。
彼女もまた直家と同様に部屋着の様な格好をしているが、上手い具合に余所行きとしてもギリギリ通用する様なセンスを保っている事に彼女の拘りを感じ取れる。
(直家は、けやきの事が大好きだ。ぞっこんラブだ。……けど、けやきには既にガイというれっきとした彼氏がいる。こっちはもっとぞっこんラブだ。そして相思相愛だ。だから私は、そんなけやきに何かにつけて近づこうとするこいつが大嫌い。いっそ今ここで、その事を言ってやるべきか……)
「あんただって、解ってるでしょ?」
「な、なにをだ」
「アンタねえ……!」
石崎は、人の恋路を邪魔する事の愚かさを小一時間かけて説いてやろうかと思った。
本当に。本当に本当にいらいらが止まらない石崎が居た。
よりにもよって、折角の楽しい時間を満喫しているこの時に、どうしてこんなにイライラしなければならないんだろう?
(付き合いがあるから今日のこの日に誘いはしたけど、私は、あんたの顔なんて可能な限り見たくはないの)
さすがに口には出さないが、石崎の中に不快感があるのは確かである。
先程まで、良明達に余裕の表情を浮かべていた石崎がこうもイライラしているのには理由がある。
石崎は、直家に呼び出された瞬間に思った。
大方、けやきと親しい自分に対して彼女との仲を取り持ってくれと直家は根回ししようとしているのだろう。直後、絶対に了承なんてするもんかと魂に固く誓った。
自分が仲介した事により直家がけやきとガイの間に割って入って行くところなんて、絶対に見たくはない。
”けやきへの告白に、けやきと親友でありけやきとガイの交際に大賛成である私を使おうとするその根性が気に食わない”。
そう思った。
「俺には……何もわからない」
「はい……?」
それが、直前の自分との会話から続く言葉である事に石崎が気づくまで、三秒かかった。
心地の悪い沈黙を挟み、直家は続けた。
「だが、一つだけ確かな事があるんだ」
「はい? あんた、何の話して――」
「お前の事が大好きだ。石崎、楓」
(………………………………んん??)
「は? アンタ何言って――」
それは石崎にとって、これまでの人生で自分に対してかけられた言葉の中で最も現実味の薄い一文だった。
(聞き間違い? いや、え……? ん?)
石崎の、仔猫が初めて鏡を見た時の様な動揺には主に二つの理由があった。
理由の一つは、同年代の男子から苗字付きとはいえ下の名前で呼ばれた事。彼女を下の名前で呼ぶ人間は、両親と親戚くらいのものである。彼女を良く慕っている弟も、”楓お姉ちゃん”ではなく単に”お姉ちゃん”と呼ぶ。
竜術部やクラスの友人は、他の竜術部やクラスの友人に倣って彼女の事を上の名前を絡めた言い方で呼ぶ。入学当初には既に彼女の事を”石崎”と呼んでいたけやきがだいたい悪いのである。
そういう事情もあって、石崎はテレビや日常会話で”かえで”という三文字が発音されるたびにほんの小さくどきりとしたりするのである。因みに、毎度毎度誰にも気づかれない様に平静を装っていたりする。可愛い。
石崎が動揺したもう一つの理由は、一つ目の理由の前提でもある。
そもそも同年代の男子とはいえ、憎き敵と位置付けている相手に対して下の名前を呼ばれたところで、はたして気持ちを揺さぶられたりなどするだろうか?
石崎はこの時、自分の中に巻き起こる”まさか”という想いに小さな恐怖を抱きつつあったのである。
(私は……こいつがけやきに勝負を挑むのが不快だった。それは間違いない)
直家は次に続けるべき言葉を必死に喉から絞り出そうとしている。石崎の沈黙が、その自分の一言を促しているのだとそう思っているのだ。
(けやきを自分の部に引き入れると言って、何度も何度も何度も何度も……何度も、けやきに勝負を申し込むこいつを見ていると、胸の中がざわついた。怖かった。不安だった。嫌、だった)
唇を動かし何か言おうとしている直家の眼を、石崎は意識の籠らない視線で直視していた。直家にはそれが意味ありげに見えて仕方がない。
(なんで、嫌だったの? けやきを取られるのが? それとも…………え、それともなに? 私が、こいつの事を――)
「付き合ってくれ」
どもらずに言えた!
言ってやったぞ俺は!
もう後は野となれ山となれだ!
駄目だった時には一日中リンを乗り回そう!
ガルーダイーターの眼など知った事じゃあない!!
直家の鼓動は、目の前の少女に聞こえるのではないかと言う程に高ぶっていた。
石崎はその彼の一言を浴びた事で確信する。
否。厳密には、その一言を聞いた自分の精神が、極上の幸福感に包まれている事により、である。
にわかには信じられないが、その感覚は先程食べたカルビの旨みよりも彼女の心を満たしていた。まるで、ある種人生の目的の一つをクリアしたかの様な、それさえ乗り越えればとりあえずあとはどうとでもなりそうな、心の平穏。
それは、小学六年生にして恋愛マスターを自称する事をマイブームにしていた程の彼女が、未だかつて感じた事が無い感覚だった。
(私は…………)
ここで、恥ずかしいからだとか、妙なプライドがあるからだとか、そんな理由で曖昧な答えやNOという答えを返してはいけない気がした。自分が明確に彼の事を好きである以上は、そういった返答は勇気を振り絞った一言を自分にぶつけてきた直家に失礼であるし、何より自身が一生この瞬間の事を後悔するだろうと、動揺の嵐の中にありながらも石崎はそう思った。
彼女は、緊張しきった表情で口を開いた。
「一つだけ……条件がある」
「な、なんだ。お前が心の底から望む事なら何でもきく!」
石崎は、はにかみながらウエーブがかった髪をかき上げた。恥ずかしそうに足元へと視線を落とす。
直家は彼女の口から出てくるであろう願いを決して聞き逃すまいと、繰り返す鼓動と川の流れの音に邪魔されながらも、全神経を集中させる。
「二人っきりの時だけでもいいから、下の名前で呼んで?」
平仮名の’く’を、山を上にした向きで二つ横に並べる。さらにその間に、限りなくカーブを緩やかにしたアルファベットの’S’を縦向きに配置した形。
それを十個の星で表現したのがワイバーン座である。
通称として、ドラゴン座とも呼ぶ。その星座には、モチーフがドラゴンの一種という事もあってか、様々なバリエーションの伝説が後付けされてきた。
だが、自分が今しがた目の当たりにした壮絶なる戦いは、それらの伝説のどれよりも面白いと伊藤と芽衣は思うのだ。
ポケットに忍ばせていたイカサマくじを生ごみの入ったゴミ箱へと放り込み、竜王高校の二人は今日初めて知り合った二人の、今日初めて知った恋のハイライトを遠目に堪能し続けていた。
今現在かかっているBGMがバラードなのは誰かの悪ふざけだろうか?
レンタルしてきたランタンが高さ二メートル程のスタンドからオレンジの光を放ち、BGMと相まって結果的にムーディーな空気を演出している。
調理場に備えられた蛍光灯はあえて電源が断たれ、その一角に置かれたクーラーボックスの中では、解けた水に氷と缶ジュースが浮かんでいた。
屋根に護られた調理場では、皆が思い思いの場所で雑談を続けている。
椅子に座ってジュース片手にくだをまく者、他愛ない遊びで盛り上がって意気投合している者、子供達の日頃の生活態度について討論する大人達。
人の恋路をかまどの影から覗き見ている県大会ベスト4のチームメンバー。
時間の流れは、速くて遅かった。
けやきは、河原から戻ってくる二人の顔を見て確信する。
(上手くいったか、よし、よく頑張った。直家)
繰り返し繰り返し、性懲りもなく勝負を挑み続けて来た直家と石崎の仲を取り持とうとしていたのは、けやきだった。
自分との勝負と言う名目で石崎の顔を見に来ては自分に負け、不自然ではないギリギリのタイミングで再戦を申し込む。その行動から、直家はすぐに部の中の誰かに気があるのだと聡明であるけやきは察した。
一対一とはいえ、それなりにスキルがある彼が自分の練習試合に付き合ってくれる事は正直有り難かったし、勝ってしまったら自分を部に引き入れると言うルールがありはしたが、龍球選手ではない彼とリンが自分とガイに勝つことは無いと言う自信がけやきにはあった。
”石崎からは直家が自分に惚れているように見えるのではないのか”と思った時期もあったのだが、そこはガイと自分が付き合っているという事実がある以上、石崎にとっては”決して結ばれる事が無い恋”として認識されていた筈である。
日頃から石崎と関わりが深いけやきである。石崎が、彼女自身が気づかないところで直家に恋心を抱いている事もけやきには解っていた。
勿論、それを言葉で指摘する様な無粋で野暮なことは一度もしていない。
直家が告白するという事をリンから聞きつけた英田兄妹は、屋根付きキッチンにけやきが残っている事に疑問を抱きつつも、事の成り行きを竈の影から二人並んで見守っていた。すぐ横にはレインも従えて。
少し前に河原へと歩いて行った石崎を見て漸く事の全容を察した二人だったが、それまで石崎自身から散々”直家はけやきに気がある”という情報を刷り込まれていた為に、違和感は尋常ではなかった。
”手をつなぎたいけど皆がいるからやめておく”という距離感で並んで歩いて戻ってくる石崎と直家を見て、陽は思わず呟く。
「うわ、石崎先輩何か可愛く見える」
「え、どこが?」
本人が聞いたら殴り掛かってきそうな切り返しをする兄に、妹はふふんと得意げになって答えるのだ。
「アキにはねー、ちょっとまだ早いかもねー」
良明、陽ときてその隣に居たレインが『ねー』と言って陽に同意する。
「ぐぬ、わ、解らない……」
そんな妹達にいら立つでもなく、良明は歩いてくる先輩二人を眉間に皺を寄せてもう一度見てみた。
良明は、昼間の時には恋愛がらみでガイをからって遊んでいた石崎が、今や花の様にしおらしくなってしまっている事になんだか世の中の仕組みの一端を垣間見た気がした。
川の音だけではない。
リーリー、ゲコゲコと虫や蛙がいつしか大合唱を始めていた。
バラードを歌うポップス歌手の声とは相容れないそれらの音はどこか意味ありげで、感情的にも聞こえるのだが、良明にはその感情がどんな色なのかが今一解らなかった。




