ヒトとドラゴンが得た物(2)
あのクロの返事を聞いた時の三池の笑顔が、クロは今でも忘れられない。
ショウは、もう陽を励ます事をしなかった。
今の陽にそれは必要ない。そう確信する事がショウにはできたのだ。
視線を三池ユニットへと向けたまま、ショウは背の上の騎手の気配を鋭敏に感じ取ろうと試みた。すると、この最大の敵を前にして、最悪の状況に身を曝して、それでも尚、陽に迷いは感じられなかったのだ。
彼女が何かを乗り越え、そのうえでその境地に至ったのかどうかは解らない。単に三池とクロに相対し、心に迷いや戸惑いなど持ち続ける余裕が無くなっただけなのかもしれない。
だが少なくとも今の陽は戦える、己の全力を出し切れると、ショウは心の底から断言できると、そう思った。
レインの心内には、感謝の気持ちが溢れていた。
部員達が戦っているのは自分の為だけではない。そんな事は彼女も解っている。
だがそれでも、良明や陽がすぐ傍で全力を尽くしているというこの状況を肌で感じ、レインは自分の中の感情のうねりの存在を否定する事はできなかった。
身体を張って増水する川の土手から自分を助け出してくれた良明と陽。
運動なんて碌にした事が無かったくせに、ボロボロになりながら努力を続け、ここまでの実力を身に着けて戦っている良明と陽。
自分は、そんな彼等に身の上の詳細を伝える事も出来ずに、ただただ必死に食らいつくだけだった。
レインは嵐の様に展開していく状況の中、眼前の敵を、凛とした眼差しで見据えた。せめて、今この瞬間だけは。この瞬間の、この最大の危機だけは、全力で退けようと思った。
良明と陽は、三池を乗せて上昇していくクロを追いながら確信する。
(ここさえ切り抜ければ!)
(絶対に勝ちまでもっていける!)
見れば、ガイを乗せたけやきはいつでも飛び立てる様に、羽根を絶妙な角度で折り曲げている。相対する葛寺と宮本の両ユニットはけやき達を突破する事しか頭に無い様子で、必死の形相でけやきのディフェンスを掻い潜ろうと試み続けている。
そして何より、三池は自分達の眼前に居るのである。
この化け物からボールを奪い、けやきへと迅速にパスを回す事がもしできたなら、ガイがクロに追いつかれる事は無いだろう。
今この時、三池からボールを奪えるか否か。
それが、この準決勝の勝敗を分かつ最後の駆け引きなのだと、双子は共有する意識の中で確信したのである。
双子の中に、誇りや感謝の念を積極的に認識する思考は存在しなかった。
今はそれどころではないし、それを想う事でこの状況に何か良い影響があるわけでもないだろうと彼等は思う。
だが、だからと言って彼等の中にそれらの気持ちが存在していないわけでは決してない。むしろ、今この舞台に立つ選手のうち、誇りと感謝を最もその胸に強く秘めているのはこの二人に他ならなかった。
自分がいかに運動神経の鈍い人間だったか。妹が、兄がいかにそうであったか。それを最もよく知るのは、やはり本人達である。
別に、かつての自分達に忸怩たる思いを抱くつもりは無い。今でも、努力しない事が罪だとは思わないし、もしそうならばそんな向上を強制する世の中なんてつまらな過ぎると思うのだ。
だが、それでもこの半年間を振り返ってみると。
改めて、振り返ってみると。
(変な話だけどさ……楽しかったよな。なんだかんだで)
(うん、楽しかった。この半年間、凄く楽しかった……)
二人が思うに、努力した事で得られるカタルシスという物は、間違いなく存在していた。双子は、けやきを初めとした先輩達のおかげで、それを体感する事ができたのだと思うのである。
自分達をここまで連れてきてくれた者達への感謝と、彼女等により与えられた実力への誇り。
兄妹は、本当ならそれを試す様な事はしたくなかった。
英田兄妹は勝負事という物が嫌いであり、敗者の悲しみを糧に勝利の喜びに浸る事に対し、心のどこかで常に疑問を抱いていた。それは竜術部に入るまでも、入ってから今に至るまでも、実のところ一貫している。
だがそれでも、そんな事を言っていられない状況が、彼等を今この瞬間に至るまで戦士であり続けさせていた。
故に、今は感謝と誇りを押し殺し、兄と妹は双竜の如くただただ立ち向かう。
『快哉を叫ぶ竜の王と矜持を持って構える大虎! 大虎ここを守り切れるかぁ!?』
何とか精神を落ち着かせ、再び眼に涙を浮かべ始めた絵巻が渾身の声を振り絞る。
この試合を観戦しているあらゆる者が、この双子と三池のユニットに対し、催眠術でもかけられている様に熱い視線を送っている。
決すべき試合の勝敗は、やはりこの競り合いの結果により導かれた。
上昇を続けるクロの身体に対し、追従を継続するレインとショウ。
前方から、気配だけで背後の攻防の内容を把握したけやきが叫んだ。
「相手は跳ぶぞ! 油断するな!!」
兄妹が見れば、三池は手綱を離し、先程同様にクロの背の上で身構えている。
(させない!)
陽がショウに対して前進の指示を出し、三池の懐へとついに飛び込んだ。
ボールへと手を伸ばす陽。容易くかわす三池。
三池は、それが予想するまでも無い結果である事に対し違和感を感じた。
(なんだこいつ、今更こんな正面切ってボールを取れるとでも――)
はっとして陽の背後へと視界の焦点を合わせる。
良明を乗せたレインが、陽の背後から三池の掲げたボールへと迫っていた。
「クロ!!」
「グァ!!」
クロが組んだ両手に足を乗せ、三池はつま先にその軽い体重を集中させた。
その間にも良明は迫り、陽を乗せたショウはシュートを遮るために上昇を開始する。
良明の手が三池の持つボールへと届くかどうかという瞬間、三池の身体はいよいよ跳躍を開始した。
「レイン、ボールを奪おうと思うな! 陽の援護だ!!」
この時点で三池のシュート自体を阻止する事は困難だと判断した良明は、早々にレインへと指示を出す。
「このまま上昇――」
レインは彼の意図を理解し、既に羽ばたき始めていた。
『解ってる、まかせて!』
中空でボールを放つ体勢を整えていく三池を視界に捉えながら、良明は自分の耳を疑った。
「レイン、お前、今……」
声としては、いつも通り「グゥア」と唸っただけだった。だが、良明にはこの時レインが訴えようとしている言葉が明確に理解できたのである。
「アキ! レインがそう言ってるんだから私達はボールに集中を!!」
背後から陽が口で叫ぶ。彼女も兄同様、今この瞬間に竜の言語を理解したらしい。
(その、通りだ!)
良明は、ここ一番でドラゴンの言葉を理解した自分と妹に対する感慨を無理矢理に抑え込んで、それから、否応無しに抱かれる興奮を制した。
(陽の言う通りだ。今はそれどころじゃない。今重要なのは、こいつから放たれたその言葉を、どう受け止めるかだ!)
三池のジャンプは、先程の高さを完全に凌駕していた。
彼女は、ゴールリングよりも三メートル程高い位置から前方を見下ろし、狙いを定める。三池の周囲には誰一人として追従してきてはいない。最早、シュートを放つ事自体は完遂出来る状況は出来上がっていた。
観客席やベンチから、自分の名を呼ぶ声が聞こえてくる。シュートへと意識を集中する事で、脚からの激痛がほんのひととき完全に消失する。水中に潜った様な、自分とそれ以外の全てが分け隔てられた感覚が全身を満たし、本能が”今なら何でも好きなように出来るのだ”と訴えかけてきた。
(正真正銘、全力で渾身の一球だ――)
三池は、細いくせに筋張ったその右の腕を振りかぶり、半身を捻って全身に力を込めた。
「ぉ……」
真下で身構えるクロも、リング正面でシュートを阻止しようとする双子も、試合の展開も、ここがどこであるのかも、目の前の敵との因縁でさえも、何もかもを忘れて、三池は構えたボールをリングの中に突き刺す事だけに意識を集中させ、ついにその腕を振りきった。
「っらぁアアアア!!」
豪速球が、大虎高チームのゴールリングめがけて飛んでいく。
「止めてみやがれェえ!!」
あれはいつだったか。
薄石高校の久留米沢が放った豪速球に手も足も出ず、心が折れそうな絶望感を味わった時の記憶が、この時、良明の脳裏に蘇った。
今では既にいい思い出ではあるが、あの時は泣きに泣いた。抱えている事情が無ければ、余りの実力の差に完全に心が折れていたと良明は思うのだ。
今、パッと見華奢な少女の身体から繰り出された目の前に迫ってきているシュートは、あの時の比ではないスピードで、確実にゴールリングのど真ん中を目指していた。
久留米沢の速球が素人臭く見える程に、あの時自分が感じた絶望感が甘えとしか思えない程に、三池が放った全力の一球は無慈悲で、容赦というものが無かった。
だが、それにも拘らず、良明と陽の身体は成すべき事に向けて確実に動作を継続していた。
(久留米沢の豪速球? とうに自分達もマスターした)
(絶望感? そんなもの、もう慣れた)
今日までの積み重ねが、動体視力の上昇や身のこなしの上達という具体的な結果となり、兄と妹の手を半ば反射的に動かしていた。
レインとショウが滞空している場所は完璧だった。
すなわち、夫々ボールから僅かに逸れた左右。良明と陽の狙いを汲み取り、指示を出されるよりも前に、迅速にいるべき場所に到達したのだ。
受け止めるべきボールの速度に対し、真正面まで躍り出る事はおよそタイミング的に不可能であるという判断を下したのは、良明と陽全く同タイミングの事であり、彼等は瞬時に脳内で対策を共有した。
迫ってくるボールの軌道を遮ってけやきへと渡すには、弾くだけでは駄目である。この速攻のチャンスをものにするためには、確りとボールをつかみ取り、そのうえで確実にけやきへとパスを出す必要があった。
ボール正面に躍り出ず、確実にそれを掴み取る手段。兄妹が出した結論は、シュートが描き出す軌道に対し、ピンボールのフリッパーの様に左右から同時に手を伸ばして受け止める事だった。
少しでもタイミングがずれれば、たとえボールに手が届いたとしても弾いてしまう。そうなれば、三池に再びボールを奪われて今度こそシュートを決められるだろう。
希望を託すにはいささか突拍子も無くシビアな選択にも思えたが、双子にはそれが成功するという確信があったのだ。
幼い頃から、良い想い出も悪い想い出も共有し、ささやかな善行もしょうもない悪行も共に認め赦し合い、心が躍る様な喜びも、魂がすり減る様な悲しみも分ける事で楽しみ、乗り越えた。なにより、それらには特別な想いなどはなく、生まれた時からただただそうする事が当然だったのだ。
そんな、ありのままの双子の信頼と、培った物というよりは元来性質として存在しているシンクロが、極めて味気なく、無機質なまでに双子に対して成功への確信をもたらしていたのである。
それは、絆だの、兄妹愛だのというむずがゆい言葉で表現する類の暖かいものではないのだと、双子は思う。きっと、具体的な論理を伴い、この重要な局面で確信に足りうる、れっきとした理由なのである。
次の瞬間、良明と陽の視覚は確信を現実のものとして認めた。
二人の指先は、左右から三池の放ったシュートを捉えていた。
兄妹の手に触れ、瞬間その形状を楕円形へと変容させるボール。
二人は、その手先の感触から勝利が確定していない事を瞬時に悟る
(なんて勢いだよッッ!)
(なにこれ、嘘でしょ!?)
それは、ボールが二人の手の間を通過するのか否かという一瞬の間に繰り広げられた思考。時間にすれば刹那に等しい一瞬の、もはや何を選択する暇も無い程の短時間に繰り広げられた光景だった。
兄と妹の指へと、まるで皮を削ぎ落した様な熱と衝撃が襲い掛かる。凶暴ささえ感じ取れるボールの勢いは、二人の手先など眼中に無い様に、衰える事を拒絶する。
衝撃ゆえに、痛みゆえに、反射的に夫々の手へと力を籠める良明と陽は、そのボールに三池が込めた魂を垣間見た気さえした。
そしてその瞬間、痛みなどどうでもよくなった。
三池の全力に応えるため、竜術部の将来を護るため、レインを救うため。今この瞬間だけは、ほんの少したりとも退く事をしてはいけないのだと悟った。
つまるところ、この瞬間の良明、陽、三池、そして彼等を乗せるドラゴン達の精神に、一切の気の弛みや、集中の綻びは無かったという事である。
全員が、全身全霊で以てぶつかり合い、各自の能力を出し切った瞬間が今である。
抜くか、止めるか。
シンプルかつ明確な攻防の結末は、そして訪れた。




